LINEの着信音が鳴った。
 織屋先輩から、『もう部室に着いた』というメッセージ。
 すぐに演劇部の部室に向かうと、開口一番、雛田先輩の話が出た。

「休み時間にパイセンの教室まで様子見に行ったんだけどさー。なんかフツーだった」

 やっぱり雛田先輩の言っていた『二年のアイツ』は織屋先輩だったのか。

「そうですよね。わたしの時も『賞そのものにこだわっているわけじゃない』って言われました」
「ま、パイセンは強いからなぁ。ていうか即切り替えられるようなメンタルじゃなきゃ、劇作家だの役者だのできないだろうねぇ」

 織屋先輩が腕組みをながらうんうん頷く。
 わたしも納得はした、けど……。

(これも必要なかったかな……)

 ネットにつないだスマホを一瞥した。一瞬考えて、休み時間に検索した情報サイトのページはそのままにしておく。

「あ、そうそう。卒業式の花束さ、雛田パイセンにも渡そーと思うんだけど、いけるかな?」
「予算確認します。……それと先輩、実はこれ」

 ハンカチに包んだ万年筆を、先輩に見せた時だった。
 ガラッと部室の扉が開き、香西先輩が入ってきた。走ってきたみたいで、息が荒い。

「どしたんですか元部長。そんな息せき切って」
「ひ、雛田は?」
「今日はいないです」
「さっきニュースに気づいたんだけど……あいつ、連絡しても返信も折り返しもなくて……」

 香西先輩が大きく息をついて、机の上に置いた万年筆を見て目の色を変えた。

「それはどうしたの!」
「あの、壊れちゃったんです。雛田先輩は捨てとけって言ったんですけど、どうにか直せないかなって」
「捨てとけって……」

 香西先輩の顔色がさっと変わった。織屋先輩は慌てたように、

「あの、でもきっと大丈夫すよ! パイセン、業界にはよくあることだ、また別の道を模索するって言ってたし」

 わたしも何度も頷く。先輩は賞自体に執着はない。あくまでお祖母さんの生き方に憧れたのだ。
 けど香西先輩はゆるく頭を振った。

「……『すぐ切り替えられる人でも、いつでも切り替えられるってわけじゃない』って、そう言ったのは君だよ。織屋さん」

 沈痛な面持ちの香西先輩に、わたしも織屋先輩も二の句を失った。

「信じてもらえないかも知れないけど、雛田はね、元々はあんな人嫌いみたいな振る舞いはしなかった。愛想は確かによくないけど、クラスで孤立なんかしてなかったし、『俺は独りでも問題ない』なんていうやつじゃなかったんだよ」

 香西先輩がギュッと両手を握る。

「あんな風になってしまったのは、僕が……裏切ったせいなんだ」

 その強い言葉に、ギクリとする。

「裏切ったなんて……進路が変わったことはどうしようもないんじゃ」
「違う、そんなんじゃない。……僕は、その万年筆を盗んだんだ」
「えっ!?」
「未遂だけどね。去年の秋、進路を変えたことを雛田に言ったんだ。雛田は『そうか』って言っただけで、教室を出ていった。その反応に、僕はなんだか腹が立ったような、悲しいような……腹の底が焦れるような感じになった。雛田が置きっぱなしにした上着にその万年筆がささったのを見ているうちに、つい……なんであんなことをしたのか、今でも分からない」

 万年筆をゴミ箱に入れようとしたところで、雛田先輩が戻ってきたという。

「魔が差したんだ。演劇に未練があって、続けられる雛田が妬ましくて……。そんな卑怯な僕に、雛田は何も言わなかった。それからだよ。雛田が人を寄せつけなくなったのは。きっと友人の僕に裏切られて、不信感を持ってしまったんだろうな」

 ……『雛田を一人にしてしまったから』というのは、そういう意味だったのか。袂を分かつことになっただけじゃなくて。

(でも、先輩が香西先輩に不信感なんて……)

 根拠なく否定しようとしたけど、香西先輩が部室の扉に手をかけて、

「とにかく雛田を探してみる。靴はあったから、まだ校内にいると思うし」
「わたしも探します!」
「気持ちは嬉しいけど、今日は午後から雨が降るらしいよ。かなりの豪雨になるそうだから、早く帰った方がいい」

 こんな時まで気を遣う香西先輩が、もどかしい。

「そうだ、小山内さん。さっき廊下で喜多くんと南野さんを見かけたんだけど」
「えっ?」
(ふたりを? でも休みのはずじゃ)
「二人ともひどく顔色が悪くて……大丈夫かなって心配になったんだ」

 休みのはずの成実と就也が学校に来ていること、
 雛田先輩と連絡がつかないこと。
 どっちを優先させればいいのか迷って、ひとまず鞄を取りに行くことにした。


 部室のある校舎から本校舎に戻ると、その薄暗さにギクリとした。空は分厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうだ。
 他のクラスの先生に「雨がひどくなりそうだから早く帰れよー」と注意され、おざなりに返す。
 雨がポツポツ降り始めたのと同時に、教室に到着した、けど……。

「えっ、うそ?」

 わたしのスクールバッグとトートバッグがない。
 席に置きっぱにしたはずなのに。

 教室中を見回した時だ。視界の端に、窓の外で何か黒いものが落下するのが映った。
 トサッという音。
 何だろう?
 窓に駈け寄って下を覗く。目を凝らすと、見覚えのあるキャンバス生地のトートバッグが校庭の隅に落ちていた。
 弾かれたように三階から校庭まで走る。
 排水溝の柵の上に落ちたそれは、間違いなく――わたしのトートバッグだった。
 どうして……と思う前に、肩に何かがかすった。
 足元に布製の筆箱が転がる。上から落ちてきたのだ――この、わたしの筆箱は。

 天を仰ぐと、屋上にふたつの人影があった。

 わたしはトートバッグと筆箱を拾って、校舎に戻り、階段を駆け上った。
 心臓が破裂しそうだ。足の筋肉が痙攣しそうになりながら必死で走った。
 屋上は一応立入禁止だけど、ボロボロの南京錠がただぶら下がっているだけで、出入りは容易だ。先生にバレたら内申書を減点されるからやらないだけだ。

 外に出ると、煙ったような雨の中、成実と就也がぼんやりと立っていた。

 わたしの教科書やノートを、今にも投げようとしている。