翌日の水曜日。教室に入ると、違うグループの子に手招きされた。
「小山内ちゃん。これ、昨日言ってた美容リップ。これマジうるつやになるよ。」
「わ、ありがとう!」
その子は美容や化粧品に詳しくて、進学せずにメイクの専門学校に行くらしい。
今まで関わりはなかったけど、先週、勇気を出して話しかけた。
「いいって。それと眉の整え方なんだけど」
その子と話し込んでいると、成実が教室に入ってきた。パチッと目が合う。
けれど成実は、もうわたしを睨んではこなかった。その代わり、一切話しかけなくなった。クラスのみんなも察したのか、特に何も言わない。
(成実、ちょっと痩せた……)
そう考えながらも、わたしはクラスメイトから聞いた内容をひたすらメモした。
放課後になり、慌ただしく教室を出た。
今日は図書室で本を返した後、帰りに履歴書を買って記入しないといけない。
図書室の窓際の席に、雛田先輩がいた。
数冊の本を積んだ横で、ノートを広げている。新作の執筆だろうか。
本はシェイクスピアの戯曲が数冊。『ロミオとジュリエット』を読むのがなんだか意外だ。
万年筆のキャップをいじりつつ、時折、遠くを見る目をする。そんな先輩を見るのは初めてで、ドキリとした。
あそこだけ、空気が光っている気がする。
周囲にいる女子も先輩をチラ見して頬を赤らめる。そんな先輩を見ていると、わたしは胸の中が熱くなった。
昇降口に行くと、足が止まった。成実がわたしの靴箱を閉めていたのだ。
成実はすぐにわたしに気づいた。
「羽鶴……」
成実は虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに鼻を鳴らした。
けれど不遜な雰囲気はない。目の下のクマが濃いせいか、萎れた花みたいだった。
「そのノート……最近、頻繁にメモとってるよね」
成実がわたしの手にあるノートを指す。
「あ、うん。癖づけようと思って」
高遠さんのアドバイスを受けたからだ。
東京駅の雑貨屋さんで新幹線を待つ間に買った。メモ帳じゃなくてリングノートなのは、書くことがたくさんあるから。表紙はファイルになっていて、高遠さんからもらったメモを挟んである。
「部活、頑張ってるみたいね。先輩方まで引っ張ってさ」
「う、うん」
「なんか自分磨きも始めたみたいじゃない。あたしがダイエットする傍で、カロリーバカ高いミルクティーをガブガブ飲んでたのに」
「そう、だね」
今は常温の水か、ポットに入れたはちみつ入りのジンジャーティーを飲むようにしている。
「……ようやく本気になったってわけ?」
成実の冷たい目線と声音が、わたしの心臓を鷲掴みにする。
「だとしたら、遅すぎなんじゃない?」
冷笑が、いばらみたいにわたしの心を絡めて刺す。けれど、
「確かに……今更って思われるかも知れない。わたし、この一年近く、養成所に通う以上のことをしてこなかった」
それを思うと、羞恥も自分への怒りも覚えるけれど、
「無駄な時間を過ごしたってすごく後悔してる。でも、反省もしてる。だから遅すぎだとしても、今からでも出来ることは全部やりたいの!」
成実の顔を、久しぶりに正面から見た。
本当に痩せた。一週間前、やっと登校した成実はクラスメイトに挨拶もしなくなった。昼休みも教室から姿を消す。ごはんはちゃんと食べているんだろうか。
「あっそ」
力の無い返事だった。暗い笑顔を向けて、成実が「ねえ羽鶴」と呼んだ。
「……アンタの靴とかお弁当がなくなったことだけど」
「分かってるよ」
わたしは成実の言葉を遮った。
「全部分かってるから」
そう繰り返すと、成実はバツの悪そうな顔をして、踵を返して去って行った――
(……え?)
成実の背中に、黒い染みがある。いや、違う。影だ。黒くてまるい影が成実の周囲に漂っている。
最近は見なくなって、ただの勘違いだったと思えたのに、また現れた。
あれは何なんだろう。
そう考えて、浮かぶ言葉はたったひとつだ。
「〈カナコちゃんの呪い〉……」
刹那、ざわっと、空気が変容した気がした。
窓の外の木々が風になぶられて騒がしい。
……コトン
靴箱をひとつ隔てた向こうから、物音が聞こえた。そのすぐ後に、靴箱の影から一人の男子生徒が早歩きで飛び出してきた。
その男子生徒は胸に何かを抱えていた。あれは……ローファーの靴? あの人は上靴を履いたままなのに?
靴箱の戸がひとつだけ開いている。名札には『雛田颯』とあった。
(あれ、雛田先輩の靴!?)
男子生徒は早歩きで廊下の奥へ向かう。どこを目指しているのか直感で分かった。奥には裏庭に続く扉があり、そこには焼却炉がある。
走って追いかけ、扉を思いっきり開ける。案の定、男子生徒は焼却炉に靴を入れようとしていた。
「やめて!」
わたしが叫ぶと、男子生徒が振り返った。
見知った顔だ。図書室と文芸部の部室で見た――川添さん。雛田先輩に突っかかった人だ。
川添さんは怯えを露わにし、「何だよ!」と言った。
「そっ、その靴、雛田先輩のですよね?」
「か、関係ないだろ、そっちには!」
「返してください!」
この人だったのか。何度も先輩の持ちものを盗んだのは。
やっぱり七不思議の呪いなんかじゃなかった……とこっそり安堵する。
「もう、雛田先輩のものを隠すのはやめてください」
「……後輩の女子に庇われるなんてな。やっぱりイケメンは得だな」
「そんな話はしてません! 返してください。さもないと」
一瞬詰まった。勢いで言ったけど、脅しなんてしたことないから続きが思いつかない。
「おっ、大声を出します!」
「はあ? 出せるものなら出してみろよ」
完全に舐められてる……当然か。
ならば、とわたしは息を吸い込んだ、けど。
「無闇に大声を出すんじゃない。大事な喉が潰れるぞ」
いつの間にか背後にいた雛田先輩に止められた。
わたしはびっくりして、吸い込んだ空気を呑み込んでしまった。
「雛田……っ!」
「誰かと思えば川添か。何のつもりだ。嫌味を言うだけじゃ飽き足りなくなったか」
「……っ!」
川添さんが唇を噛む。悔しそうに声を絞り出した。
「だって……納得いかない! ぼくのは落選して、君なんかが受賞するなんて、絶対にありえな」
「おまえの作品が面白くなかった。前にも言ったが、それだけだ」
(雛田先輩……!?)
やばい。この人、歯に衣を着せるという概念が無い。分かっていたつもりだったけど!
「何だと!?」
「おまえ、文芸部だろ。こないだ部室に寄った時、一昨年の文化祭の部誌に載せた作品を読んだ。まったく面白くなかった」
川添さんは今にも白目を剥いて卒倒しそうだ。横で聞くわたしすら耳を塞ぎたくなる。
「――だが、去年のは面白かった」
「へ……?」
間の抜けた声は、わたしと川添さん両方のものだ。
「タイムトラベルネタのSFだったな。地味だけど、伏線回収は見事だった。――面白くない作品は確かに存在する。だが、面白い作品を作れない人間はいない」
受け売りだけど、と雛田先輩が続ける。誰からなのかは訊かなくても分かった。
「次の作品が書けたら、また読ませてほしい」
雛田先輩の言葉には、靴を盗んだ川添さんに対する怒りもなじりも、カケラも無かった。
川添さんは戸惑いがちに頷いて、靴を先輩に返した。そして走って行く。その目に涙が浮かんで、キラリと光った。
それを見届けた後、わたしは靴のホコリを払う先輩に言った。
「先輩って……すごく口下手なんですね」
今更だけど、なんとなく理解できた。先輩という人を。
「……口がうまかったら、物語なんか作らねぇよ」
なるほど。――理由はよく分からないけど納得した。
それと同時に、先輩がすごく身近に感じて嬉しかった。それから『大事な喉』と言われたことも。
ふふっと笑ってると、
「――何だこれ?」
と先輩が言って、振り返る。
開けっぱなしの焼却炉の蓋を閉めようとした先輩が、淡いレモン色のタオルをつまみ上げた。
「タオル? でも新しいな」
「それ……」
無意識に声が出たことを、わたしは直後に悔いた。
しまったと思った時にはもう遅い。
「おまえのか……?」
先輩が言い当てた。外見の変化には疎いのに、こういう時は勘が鋭い……。
「まだ物を盗まれてるのか」
「そうです、けど。大したものじゃないです。靴は持ち歩いてますし」
それは本当だ。タオルの他に、ハンカチやティッシュ、消しゴム……その程度のもの。
前回と違うのは、戻ってこない点だ。やっぱり捨てられていたのか。
「もう教師に言え。窃盗だ」
「せ、先輩だって放っておいたじゃないですか」
「俺はいいんだよ。というか教師は気づいている。受験真っ只中の時期だから大事にするなと言われた」
「そんな……」
「別にいい。テレビ局からも、言動には最大限に注意しろって言われているんだ。今の時代、SNSですぐ拡散されるからな。主演アイドルのイメージもあるし」
何なんだ、それは――と思いかけたけど、思い直した。
そうか、雛田先輩も同じなのか。
先輩も『商品』で『コンテンツ』になっているのか。
「誰の仕業か、分かってるのか?」
わたしは答えない。
「……誰にも言わないでください。お願いします」
そう頭を下げると、先輩はもう何も言わなかった。
「小山内ちゃん。これ、昨日言ってた美容リップ。これマジうるつやになるよ。」
「わ、ありがとう!」
その子は美容や化粧品に詳しくて、進学せずにメイクの専門学校に行くらしい。
今まで関わりはなかったけど、先週、勇気を出して話しかけた。
「いいって。それと眉の整え方なんだけど」
その子と話し込んでいると、成実が教室に入ってきた。パチッと目が合う。
けれど成実は、もうわたしを睨んではこなかった。その代わり、一切話しかけなくなった。クラスのみんなも察したのか、特に何も言わない。
(成実、ちょっと痩せた……)
そう考えながらも、わたしはクラスメイトから聞いた内容をひたすらメモした。
放課後になり、慌ただしく教室を出た。
今日は図書室で本を返した後、帰りに履歴書を買って記入しないといけない。
図書室の窓際の席に、雛田先輩がいた。
数冊の本を積んだ横で、ノートを広げている。新作の執筆だろうか。
本はシェイクスピアの戯曲が数冊。『ロミオとジュリエット』を読むのがなんだか意外だ。
万年筆のキャップをいじりつつ、時折、遠くを見る目をする。そんな先輩を見るのは初めてで、ドキリとした。
あそこだけ、空気が光っている気がする。
周囲にいる女子も先輩をチラ見して頬を赤らめる。そんな先輩を見ていると、わたしは胸の中が熱くなった。
昇降口に行くと、足が止まった。成実がわたしの靴箱を閉めていたのだ。
成実はすぐにわたしに気づいた。
「羽鶴……」
成実は虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに鼻を鳴らした。
けれど不遜な雰囲気はない。目の下のクマが濃いせいか、萎れた花みたいだった。
「そのノート……最近、頻繁にメモとってるよね」
成実がわたしの手にあるノートを指す。
「あ、うん。癖づけようと思って」
高遠さんのアドバイスを受けたからだ。
東京駅の雑貨屋さんで新幹線を待つ間に買った。メモ帳じゃなくてリングノートなのは、書くことがたくさんあるから。表紙はファイルになっていて、高遠さんからもらったメモを挟んである。
「部活、頑張ってるみたいね。先輩方まで引っ張ってさ」
「う、うん」
「なんか自分磨きも始めたみたいじゃない。あたしがダイエットする傍で、カロリーバカ高いミルクティーをガブガブ飲んでたのに」
「そう、だね」
今は常温の水か、ポットに入れたはちみつ入りのジンジャーティーを飲むようにしている。
「……ようやく本気になったってわけ?」
成実の冷たい目線と声音が、わたしの心臓を鷲掴みにする。
「だとしたら、遅すぎなんじゃない?」
冷笑が、いばらみたいにわたしの心を絡めて刺す。けれど、
「確かに……今更って思われるかも知れない。わたし、この一年近く、養成所に通う以上のことをしてこなかった」
それを思うと、羞恥も自分への怒りも覚えるけれど、
「無駄な時間を過ごしたってすごく後悔してる。でも、反省もしてる。だから遅すぎだとしても、今からでも出来ることは全部やりたいの!」
成実の顔を、久しぶりに正面から見た。
本当に痩せた。一週間前、やっと登校した成実はクラスメイトに挨拶もしなくなった。昼休みも教室から姿を消す。ごはんはちゃんと食べているんだろうか。
「あっそ」
力の無い返事だった。暗い笑顔を向けて、成実が「ねえ羽鶴」と呼んだ。
「……アンタの靴とかお弁当がなくなったことだけど」
「分かってるよ」
わたしは成実の言葉を遮った。
「全部分かってるから」
そう繰り返すと、成実はバツの悪そうな顔をして、踵を返して去って行った――
(……え?)
成実の背中に、黒い染みがある。いや、違う。影だ。黒くてまるい影が成実の周囲に漂っている。
最近は見なくなって、ただの勘違いだったと思えたのに、また現れた。
あれは何なんだろう。
そう考えて、浮かぶ言葉はたったひとつだ。
「〈カナコちゃんの呪い〉……」
刹那、ざわっと、空気が変容した気がした。
窓の外の木々が風になぶられて騒がしい。
……コトン
靴箱をひとつ隔てた向こうから、物音が聞こえた。そのすぐ後に、靴箱の影から一人の男子生徒が早歩きで飛び出してきた。
その男子生徒は胸に何かを抱えていた。あれは……ローファーの靴? あの人は上靴を履いたままなのに?
靴箱の戸がひとつだけ開いている。名札には『雛田颯』とあった。
(あれ、雛田先輩の靴!?)
男子生徒は早歩きで廊下の奥へ向かう。どこを目指しているのか直感で分かった。奥には裏庭に続く扉があり、そこには焼却炉がある。
走って追いかけ、扉を思いっきり開ける。案の定、男子生徒は焼却炉に靴を入れようとしていた。
「やめて!」
わたしが叫ぶと、男子生徒が振り返った。
見知った顔だ。図書室と文芸部の部室で見た――川添さん。雛田先輩に突っかかった人だ。
川添さんは怯えを露わにし、「何だよ!」と言った。
「そっ、その靴、雛田先輩のですよね?」
「か、関係ないだろ、そっちには!」
「返してください!」
この人だったのか。何度も先輩の持ちものを盗んだのは。
やっぱり七不思議の呪いなんかじゃなかった……とこっそり安堵する。
「もう、雛田先輩のものを隠すのはやめてください」
「……後輩の女子に庇われるなんてな。やっぱりイケメンは得だな」
「そんな話はしてません! 返してください。さもないと」
一瞬詰まった。勢いで言ったけど、脅しなんてしたことないから続きが思いつかない。
「おっ、大声を出します!」
「はあ? 出せるものなら出してみろよ」
完全に舐められてる……当然か。
ならば、とわたしは息を吸い込んだ、けど。
「無闇に大声を出すんじゃない。大事な喉が潰れるぞ」
いつの間にか背後にいた雛田先輩に止められた。
わたしはびっくりして、吸い込んだ空気を呑み込んでしまった。
「雛田……っ!」
「誰かと思えば川添か。何のつもりだ。嫌味を言うだけじゃ飽き足りなくなったか」
「……っ!」
川添さんが唇を噛む。悔しそうに声を絞り出した。
「だって……納得いかない! ぼくのは落選して、君なんかが受賞するなんて、絶対にありえな」
「おまえの作品が面白くなかった。前にも言ったが、それだけだ」
(雛田先輩……!?)
やばい。この人、歯に衣を着せるという概念が無い。分かっていたつもりだったけど!
「何だと!?」
「おまえ、文芸部だろ。こないだ部室に寄った時、一昨年の文化祭の部誌に載せた作品を読んだ。まったく面白くなかった」
川添さんは今にも白目を剥いて卒倒しそうだ。横で聞くわたしすら耳を塞ぎたくなる。
「――だが、去年のは面白かった」
「へ……?」
間の抜けた声は、わたしと川添さん両方のものだ。
「タイムトラベルネタのSFだったな。地味だけど、伏線回収は見事だった。――面白くない作品は確かに存在する。だが、面白い作品を作れない人間はいない」
受け売りだけど、と雛田先輩が続ける。誰からなのかは訊かなくても分かった。
「次の作品が書けたら、また読ませてほしい」
雛田先輩の言葉には、靴を盗んだ川添さんに対する怒りもなじりも、カケラも無かった。
川添さんは戸惑いがちに頷いて、靴を先輩に返した。そして走って行く。その目に涙が浮かんで、キラリと光った。
それを見届けた後、わたしは靴のホコリを払う先輩に言った。
「先輩って……すごく口下手なんですね」
今更だけど、なんとなく理解できた。先輩という人を。
「……口がうまかったら、物語なんか作らねぇよ」
なるほど。――理由はよく分からないけど納得した。
それと同時に、先輩がすごく身近に感じて嬉しかった。それから『大事な喉』と言われたことも。
ふふっと笑ってると、
「――何だこれ?」
と先輩が言って、振り返る。
開けっぱなしの焼却炉の蓋を閉めようとした先輩が、淡いレモン色のタオルをつまみ上げた。
「タオル? でも新しいな」
「それ……」
無意識に声が出たことを、わたしは直後に悔いた。
しまったと思った時にはもう遅い。
「おまえのか……?」
先輩が言い当てた。外見の変化には疎いのに、こういう時は勘が鋭い……。
「まだ物を盗まれてるのか」
「そうです、けど。大したものじゃないです。靴は持ち歩いてますし」
それは本当だ。タオルの他に、ハンカチやティッシュ、消しゴム……その程度のもの。
前回と違うのは、戻ってこない点だ。やっぱり捨てられていたのか。
「もう教師に言え。窃盗だ」
「せ、先輩だって放っておいたじゃないですか」
「俺はいいんだよ。というか教師は気づいている。受験真っ只中の時期だから大事にするなと言われた」
「そんな……」
「別にいい。テレビ局からも、言動には最大限に注意しろって言われているんだ。今の時代、SNSですぐ拡散されるからな。主演アイドルのイメージもあるし」
何なんだ、それは――と思いかけたけど、思い直した。
そうか、雛田先輩も同じなのか。
先輩も『商品』で『コンテンツ』になっているのか。
「誰の仕業か、分かってるのか?」
わたしは答えない。
「……誰にも言わないでください。お願いします」
そう頭を下げると、先輩はもう何も言わなかった。