「――只今はこの薬!」

 仕切り直すようにゆっくりめにはっきりと言うと、その後はいつもどおりにできた。毎日練習したのと、ほぼ変わらず。
 最後の一行を終えると、高遠さんから拍手を送られた。

「すごいね、小山内さん! 最初はちょい緊張しちゃったのに、きちんと持ち直した点がすごい。なかなか難しいですよね、先生方!」

 興奮した面持ちの高遠さんに、青井さんが頷く。

「そうですね。ちゃんと暗記してますし、養成所一年未満にしては及第点かと」

 桐月先生が口元に手を当てる。

「ですが、まだ早口言葉の練習や朗読の域を出てませんねぇ」
「同意します。君、もう少し『人に聞かせる』ということを意識した方がいいわ。これは単なる練習用文章ではなく、芝居のテキストなのだから――ってタカトーさん、何故アナタがメモってるの?」

 手のひらサイズのメモ帳に多色ボールペンを走らせる高遠さんの頭に、色取さんがチョップした。

「あはは、すみません。養成所時代からアドバイスをメモする癖が抜けなくて」
「いや、これは小山内さんへの助言だから……というか基本中の基本すぎて、タカトーさんには今更でしょ」
「あ、それもそっか。なら小山内さんにあげるね。ハイ」
「へっ!?」

 高遠さんがメモ帳をちぎり、差し出した。驚きすぎて思わず受け取る。
 高遠さんは合格者たちを見回して、明るく言った。

「皆さんも、こーいう表紙が固いタイプの小っちゃいメモ帳を持ち歩いた方がいいですよー。いつもポケットにメモ帳を!」
「ハードカバーって言うのよ、タカトーさん。でもメモは大事です。以上」

 色取さんが手を叩いた。
 わたしは手の中のメモを見る。
 青いインクで『外郎売 練習用文章× 芝居のテキスト○ 意識!』と書かれた、高遠さんの直筆メモ。
 すごいものを頂いてしまった。
 どうしたらいいの……とオロオロしかけた時だった。

「高遠さん。外郎売のお手本をお願いできますか?」

 桐月先生がにこやかに言った。胃がヒュッとなった。

「……分かりました!」

 高遠さんは快諾して、姿勢を正した。始める寸前、わたしを一瞥した気がした。

「――拙者親方と申すは」

 息も時間も止まった。
 おなじみの口上、そして動画サイトで何度も観て聴いた高遠さんの外郎売なのに、全然違った。
 (なま)だからとか近いからとかじゃない。

「……ふふっ」

 わたしの隣にいる子が可笑しそうに笑った。
 そうだ。笑えるのだ。この外郎売は、コメディになっているのだ。
 高遠さんの外郎売は、身振り手振りと声の調子の高低差が明瞭で、聴く側に飽きさせない工夫がされていた。
 けれど道化師みたいにただ楽しいだけではなく、どこか切実なものを感じさせた。
 お願い、話を聞いて、そしてできれば買ってと縋るような。
 ある種の必死さは笑いを生む。高遠さんは、それを狙っているのだ。実際、先生方も口元を隠して笑っていた。
 最後の一行が終わると、高遠さんは胸に手を当ててお辞儀をした。大きな拍手が起こった。

「さすがですね。久々に聴きましたけど、楽しめましたよ」
「ありがとうございます!」
「今のアレンジはコメディですよね。設定は?」
「『前日の晩に奥さんとケンカして、全部売るまではおうちに入れない外郎売』です!」

 先生方と高遠さんのやりとりを目にして、合格者たちが感嘆する声を耳にして、わたしは呆然と突っ立っていた。 
 レベルが違いすぎる。
 天と地どころじゃあない。外郎売にキャラクター設定をするなんて発想、思いつかなかった。ただ明瞭に読み上げればいいのだと思い込んでいた。
 恥ずかしい。特技だと言って披露したのが顔から火が出るほど恥ずかしい――でも。

(心臓……すごくうるさい)

 鼓動が、指先まで波打つ。
 手のひらに汗。足元が落ち着かない。
 何だろう、この気持ちは。これまでに感じたことのない熱で、耳たぶもおなかの底も熱くなった。

 ――何かがひび割れる音が、耳の奥でした。

 わたしが生まれて初めての感覚に混乱している間に、他の合格者たちも自己紹介後にヒヤッとするアドバイスをもらった。
 全員分が終わる頃には、皆、一様に顔が曇っていた。

 すると、桐月先生が客席のカメラマンに向かって手を振って、

「しばらく撮影を止めて頂けますか」

 と言った。
 そしてわたしたちに向き直る。

「気づいた方もいるでしょうが、今のあなたたちの自己紹介と諸先輩方のやりとりはすべて撮影されています。これは、アロサカプロジェクトの要、あなたたちの主役にしたドキュメンタリードラマのためです」

 ドキッとした。確かに、応募要項にそう書いてあった。『レッスンを受ける際にはカメラが入ります』と。

「まず今後のスケジュールを配布します。筆記用具を取ってきてください」

 全員が鞄を置いた客席へ走った。こういう時にタラタラと行動するのは厳禁だ。

「アニメの放送開始が来年の一月。同時期にあなたたちは声優グループとしてデビューしますが、顔出し自体は四月からです。先ほど言ったドキュメンタリードラマの配信という形で」

 すばやくメモする。どうしても文字が震えてしまう。

「御存知のとおり、アロサカのコンセプトは『次世代の声優を育てる』こと。養成所に通ってはいても新人以下でしかない若いあなたたちが、短期間で研鑽を積み、一大企画の声優にふさわしくなるのを視聴者に見てもらいます」

 わたしが生まれる前にあったテレビのバラエティ番組を思い出した。
 番組内のオーディションに合格した人が、有名ミュージシャンのプロデュースで国民的アーティストになったという話を聞いたことがある。

「単刀直入に言います。これからあなたたちは『商品』になると同時に、自営業者になります。声優という自己プロデュースの自営業者になるのです」

 青井さんが、ナレーターらしい平坦で一歩引いた声調で言った。

「ここは養成所や専門学校じゃない。お金を払うのではなく、お金をもらって仕事をするということを念頭に置きなさい。企画側が提示したスケジュールには絶対に従ってもらう」

 色取さんが言い切った。CDや動画で耳にする歌声の甘さは、微塵も感じられなかった。

 渡されたスケジュールによると、六月までは月に一回東京に来て、この専門学校でレッスンを受ける。七月からは毎週で、八月からいよいよアフレコが始まる。
 かなりの過密スケジュールです、と桐月先生が瞳を伏せた。

「学校生活やアルバイト、体調不良による休みは、ある程度までは考慮するそうですが、フォローはほぼありません。つまり自分が空けた穴は自分で埋め合わせしてください」

 寿さんが言った。一挙一動が絵になり、言葉の重みが伝わる。