そう言って今度こそ、雛田先輩は背を向けて歩き出した。
 背筋がピンと伸び、軸のブレない歩き方。
 とても格好良いのだろうけど、わたしには強い光みたいで痛みを感じる。

 期待。
 わたしは先輩に何かを期待していたのだろうか。

 ……きっと、していたんだろう。この迷いを晴らすような、強い何かを示してくれることを。

 本当にバカだな。反省したくせに甘ったれが治ってない。
 成実の声が聞こえる。

 ――「アンタなんか、……声優になる資格、無い」

 その通りすぎる。
 辞退という言葉が頭をよぎる。
 今日は金曜日で、顔合わせ兼初回レッスンは日曜日。
 きっと迷惑になるだろう。養成所にクレームが入るかも知れない。お母さんたちもガッカリする……
 
「いや、違う!」

 考えの方向性が悪い方に行きかけて、わたしは顔を叩いた。

 そんなことばかり考えてるからダメなんだ!
 人がどう思うとか人に迷惑をかけるとか、そんなことばかり考えてる!

 先輩が言った『無責任』はこういうことだ。
 考えの軸に自分がいない。
 だからすぐに迷う。すぐに挫ける。そうしてうまくいかなかった暁は、わたしは親や友達のせいにして自分を守るんだろう。

 しっかり考えろ。わたしのことなんだから。わたしの問題なんだから!

(わたしの……正直な気持ちは……)

 一旦深呼吸をする。おへその下まで深く息を吸い込んで、ろうそくを吹き消すように口から細く、なるべくゆっくり息を出す。それを何回かくりかえす。
 これは成実と勉強した、落ち着くための呼吸法。
 オーディションを受ける前、『緊張しない方法』で調べて、三人でやった。

 ごちゃつく思考の流れが少しだけ整った。

 しばらくして、講堂に戻った。織屋先輩と香西先輩が心配げな顔をしていた。

「わたし……今日はもう帰ります。すみません。色々ありがとうございました」

 織屋先輩は「気にすんなし!」とにぱっと笑顔を咲かせた。
 そして香西先輩は、

「こちらこそ……雛田に万年筆を届けてくれてありがとう。ひどい物言いばかりで、本当にごめんね」

 と瞳を伏せた。香西先輩はほんとに……。

「元部長は、パイセンのこと心配でしゃーないって感じですよね。なんか保護者みたいすよー」

 わたしが思ったことそのままを織屋先輩がズバッと切り込んだ。
 親友にしては距離が近すぎるというか、兄弟みたいだ。

「幼なじみなんだ。演劇もずっと一緒にやってきた。中学卒業と同時に雛田は脚本、僕は裏方に専念したけど、それまではふたりで舞台に立ったよ。……この演劇部も、僕らが一年生の時までは強豪校の面影があったんだけど、ひとつ上の学年がロクデナシでね。一年でめちゃくちゃになった」

 当時の三年生が引退した後、雛田先輩は方向性の違いで部員と大喧嘩して退部したという。

「大学に行ったら本格的に活動しようってずっと話してたんだけど……僕が演劇をやめることになってね。約束を破ってしまった」
「え!?」

 わたしと織屋先輩の驚愕が重なる。あんなに演劇が好きな香西先輩が?

「親の仕事を継ぐために、春からシンガポールに留学するんだよ。大学も向こう」

 中途半端なことはできないと、香西先輩は両立の道を諦めたのだそうだ。
 香西先輩の表情が、ふいに翳る。

「……僕は雛田をひとりにしてしまったんだ……」

 先輩の懺悔にも似た言葉が、講堂の床に沈んだ。


 その日の夜、わたしは就也に長いLINEを送った。

【たくさん考えて、辞退はしないことにした。
 就也ももう分かってると思うけど、わたしは本当の意味で声優になりたいとは思っていませんでした。
 正確に言うと、「なりたいけど、でもきっと無理なんだろう」と心のどこかで諦めてました。
 実は今でも分からない。
 絶対になってやると気持ちを強くしようとしても、どうしても「なれないんじゃないか」という不安が消えません。打ち消そうとしてもダメでした。
 本当に情けないです。
 どうしても、わたしは成実みたいになれない。とても嫌になります。
 けれど、こんなわたしにチャンスが与えられました。
 今の自分が嫌だからこそ、わたしは変わってみたい。
 身分不相応なのは分かってる。
 でも、逃げずにごまかさずに向き合ってみたいと思います。
 ぐちゃぐちゃな文でごめんなさい】

 送信して、ふと思った。
 送った文にも、これまでに何度も気軽に使った『声優になる』という言葉に、
 わたしは違和感を覚えていた。

「『声優になる』ってどういうことなんだろう……」

 雛田先輩と志倉先生の言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
 そして、日曜日までに読んでおくよう同封された冊子を開いた。
『Aroma Circus』の設定資料集だ。
 けれど中身は、モノクロのキャラデザインと物語の中での立ち位置、二言三言程度の性格の説明だけだった。

 わたしが担当する『ジュニパー』は、『旅人。たまたまサーカスに立ち寄る。寡黙で冷静』としか書かれていなかった。