「さっきから友達のことばかりだが、おまえこそどうなんだ」
「えっ?」
「おまえ自身のことを真剣に考えてんのかって訊いてんだ」
「そん、な。この期に及んで、自分のことばかり考えられないです!」

 ベコッと音がした。雛田先輩が空の缶を潰したのだ。

「いい加減にしろ。そんなもん他人に対する優しさじゃない、自分に対する無責任だ」
「!」

 無責、任……

「おまえ以外の声優志望は死に物狂いで向かってくる。たかだかオーディションに受かっただけのやつなんざ、まず太刀打ちできない。友達がどうとか本当の気持ちが分からないとかうだうだ言っていたら、一瞬で何もかも失うぞ」

 雛田先輩の、どこまでもごまかしの無い言葉が、深く、耳に脳に心に突き刺さる。

「使い物にならないって判断されたら、あっさり切り捨てられる。そんな世界なんだと忘れるな」
「雛田。だから言い方」
「言い方はどうあれ、純然たる事実だ。それだけだ」

 雛田先輩は潰れた缶を持って、講堂から出ていった。
 異様に静かだった。きぃんと耳鳴りがしそうな。

 無責任。
 わたしは成実のことを考えちゃいけないの?
 わたしは間違ってるの……?
 頭がこんがらがるわたしの隣で、織屋先輩が香西先輩に、

「あのー、元部長。パイセンのお祖母さんって……?」
「ああ……ごめん。僕の口からは言えない。少し雛田の心裡(こころうち)に関わりすぎることだから」

 ごめんね、と香西先輩は続けた。
 わたしは寄る辺ない気持ちで、視線を漂わせる。
 すると、視界の端に何か光るものが映った。

「……雛田先輩の万年筆?」

 わたしと先輩が出遭ったキッカケの、あの鮮やかな青の万年筆だ。
 そう気づいた瞬間、わたしは衝動的に立ち上がり、万年筆を拾い上げて雛田先輩を追いかけた。
 できるだけ関わりたくない、耳に痛いことしか言わない先輩。
 それなのに、身体が勝手に動く。
 すぐに追いつけた。靴を履き替える彼にわたしは声を張り上げ――る寸前。

 雛田先輩の肩に、ふわふわと、あの『黒丸の影』が止まろうとしていた。

「先輩!」

 先輩が振り向いたと同時に、影がさっと消えた。

「何だよ」

(何だはわたしが訊きたい………)

 先日からちょくちょく見える、黒くてまるい影。
 さっき、わたしが変だった時にもあった。……単なる見間違いかもしれないけど、宙に浮いた足にも纏わりついていた。
 あれは何? 雛田先輩は気づいていない。わたしにしか見えてないの?
 けれど、今はそれを掘り下げて考えられなくて、「肩に虫みたいなのが」とごまかす。先輩が肩をぱっぱと払った。

「落とし物です……」

 万年筆を差し出すと、先輩が胸ポケットを確認する。瞳が大きくなってて少し幼げな表情になった。

「……助かった」

 金具が弱まっているのか……とブツブツ言いながら万年筆を矯めつ眇めつする先輩に、わたしは意を決して、

「さっきの話、本当ですか。先輩の……お祖母さんの話」
「……。ああ。うちの死んだバアさんが、あれを受賞して脚本家デビューしたって話だ」

 カチ、カチ、と先輩が万年筆のキャップを填め外しする。
 亡くなった、と言った。
 もしかしたらお祖母さんから譲り受けた、形見かもしれない。

「今年で最後だったんだよ、あの賞の募集。だから必死になったな」
「もしもの話、なんですけど……もしそれに落選しても、先輩は切り替えられますか?」

 先輩は少しだけ考えて、

「当然だろ。別に俺はデカい賞を受賞したからバアさんを尊敬してるわけじゃない。むしろそれ以降が見事なんだ」
「どういうことか聞いてもいいですか」
「……。おまえって意外と……」
「えっ?」

 じっと先輩がわたしを見る。でもすぐに「いや、何でもない」と返した。

「昔、ジイさんが病気になって、乳飲み子だった俺の親を含めた五人の子どもを抱えて、危うく路頭に迷いかけたことがあってな。で、バアさんが一念発起して、趣味でしかなかった脚本で博打を打ったんだ」

 普通に働いたのでは、病気の夫と五人の子どもを養えない。
 バイトもしたことないわたしでも分かる。それは大博打だ。下手をすれば家族を失うデッドオアアライブだ。

「細々と仕事を取りまくって、結果、家族全員養えた。バアさんは脚本で家族を食わせるっていう夢を叶えた。見事だろ」
「はい……」

 感心しきりだ。

「バアさんは何度も言ってた。『夢だけは絶対に手放すな、たとえどんな』……」

 先輩の声が途切れた。

「どんな……何ですか?」
「おまえには聞かせていい言葉じゃない」
「!」

 不思議だった。
 言葉自体はすごく素っ気ないのに、何故か声のトーンに冷ややかさは一切感じなかった。

「それだけだ。俺に何を期待してるのか知らんが、これ以上言うことなんて何もない。結局はおまえが決めることなんだからな」