金曜日は部活の日――だった。
 授業を終えた放課後、就也が家の用事で部活を休むと言ってきた。
 成実もいない。就也はわたしを気遣って、「部活ごと休みにした方がいいんじゃないか?」と提案してきた。
 わたしは首を横に振った。

「ひとりでも出来るところだけやっとく。早く帰ると、親が何かあったんじゃないかって気づいちゃうかもだから」
「じゃあ図書室……はもうすぐ閉まっちゃうか。カフェとかで時間潰せば……」

 それは気が乗らない。というより、その手の場所はいつも成実と一緒だった。
 ……わたしは本当に成実にべったりだったんだなぁ、と笑えてきた。

「羽鶴。昨日の話の続きだけど、……合格を辞退するっていう選択肢も、アリといえばアリだと思うんだ」
「えっ」

 就也がためらいがちに言った。言葉を選んでいるようだった。

「オレはさ、羽鶴が苦しまない選択をすればいいと思う。成実のこととか、やっていく自信がないとかの理由で辞退したとしても、それは逃げなんかじゃないよ。羽鶴の夢のための、ひとつの選択だ」

(夢……)
 声優になりたい――という夢。
 でも、わたしは……。

「チャンスは必ずまた巡ってくるよ。だからさ、あまり思い詰めるなよ」

 就也はわたしの頭を撫でてくれた。
 やっぱりあたたかくて大きな手だった。

「うん……」

 頷くと、就也は柔らかく笑った。

 教室を出て、ひとり講堂に向かった。もう外靴を隠されることはなかった。
 着替えると、成実の作ったトレーニングメニューをことさら丁寧にやった。
 筋トレ、ストレッチ、腹式呼吸の後は発声だ。五十音を練習する。

「植木屋、井戸換へ、お祭りだ、……」

 ふたりがいない。がらんどうの講堂。むなしく響くわたしの声と物音。
 次は外郎売だ。聞いてくれる人がいない外郎売に何の意味があるんだろう。
 そう思いつつも、いつもよりゆっくりめで、よく指摘される部分を意識した。

 一通りのメニューを終わらせた。

 次は何をしよう。即興芝居や掛け合いはひとりじゃできない。いっそ講堂の中をひたすらグルグル走り込んでやろうか。
 時計を見ると、まだ五時にもなっていなかった。やたら進みが遅い長針を見ているうちに古い風船みたいに力が抜けて、わたしは床に大の字になって寝転んだ。
 じんわりと汗をかいた背中が冷やされて心地よい。
 高い天井にある等間隔で並んだ照明を見る。
 ……電球が一個切れてる。あんな高いところ、どうやって交換するんだろう。

「……バカみたい……」

 詮無いことを考える自分が。
 自然と目尻から涙が出た。どうしてわたしは独りなんだろうと虚ろに問いかけた。

 この十一日間のことを振り返る。
 劇的に変化してしまったわたしの日常。成実と就也がいない部活なんて、想像もしてなかった。
 タイマー代わりのスマホが振動した。中学時代の友達からメッセージが来ていた。
 内容はやっぱり、わたしの合格祝いだった。

 ――夢が叶ってよかったね。

 この十一日間、この祝辞を何度贈られただろう。
 ……わたしが代わりに何を失ったか知りもしないくせに、みんな、わたしが幸せだと決めつける。
 ……分かってる。おめでとうと拍手を送ってくる人たちに悪意はないんだって。
 分かってるけど、気持ちがどうしてもささくれ立つ。
 そんな自分にほとほと嫌気がさして、でもどうすればいいのか、分からない。

「成実……」

 わたしのことがずっと嫌いだったと言った友達の笑顔が、うまく思い描けない。
 わたしは何故こんなところにいるのだろう。何をしているのだろう……。
 むくり、と起き上がった。
 そして周囲を仰ぐ。体育の先生がギャラリーと呼んでいた通路が目に入る。高さは家の二階程度だ。
 わたしは立ち上がり、タオルを持って、舞台裏のはしごからギャラリーに上がった。
 しばらく誰も掃除してないのか、虫の死骸やゴミが目立つ。
 下を見ると、吸い込まれるような心地になった。プールみたいに飛び込んでしまいそうだ。
 わたしの涙がひとしずく、落ちた。

 ――「あたしは、……羽鶴のことずっと嫌いだった」

 物を盗むほど、嫌いだったの?
 成実が話したのに。〈カナコちゃんの呪い〉のことを。

 ――「呪われたんじゃない?」

 呪われればいいと思うほど、嫌いなの?

 ――「でも、カナコちゃんに呪われた人は最後には死ぬんだって」

 死ぬんだって。
 死ぬんだって。

(……死ねばいいと思ったの?)

 わたしはタオルとジャージの上着を繋いだ。
 ほどけないようにキツく結ぶ。それを首に巻いて、円にしてギャラリーの柵に縛りつける。
 あとはここから飛び降りるだけ。
 
 そうすれば、

 そう……すれ……ば……?

「――ッ!!」

 ギャラリーの柵を乗り越えようとする右足を引っ込めた。
 勢い余って後ろに倒れ、窓ガラスに後頭部と背中を強かに打つ。けれど痛みなんか感じなかった。

「う、あ……うわ、うわぁ!」

 巨大なムカデみたいに首に巻きつくタオルを必死で取る。爪で首筋を引っ掻いて、その痛みで正気に戻った。

 何?
 今わたし、何しようとしたの!?

「なんでぇ……!?」

 飛び降りようとした。
 わたしはたった今、首を吊って自殺しようとしたのだ。

 どうして、なんて考えても分からない。だって普通なら考えられない。いくら成実のことで悩んでるからって、わたしには家族がいるのに、就也(ともだち)がいるのに!
 自分が信じられない。頭を抱えて、髪を引っ張る。後から後から出てくる涙。ひどく噎せて、肺が苦しくなるほど咳き込んだ。

 チカチカと明滅する視界に、ふいに映った小さく黒い影。
 暗黒色の蛍のようなものが――わたしを取り囲んでいた。

 嫌だ、と振り払うと、それらはあえなく霧散した。
 黒丸の影が消える瞬間、柵を隔てたわたしの正面に人の足があったような気がした。

 学校指定の白い靴下にローファーの、たぶん女子の足が。

 けれどそれはありえない。狭い通路の柵の向こうには『何もない』。
 つまりその足は、宙に浮かんでいたことになる。

「……」

 もはや言葉も出ない。気が狂いそうだ――そう思った時、

「――何やってるんだよ、雛田」

 入り口から人の話し声がした。