「全然ダメだな。筋トレ舐めてるのか?」
ひとりきりの講堂、腕立て伏せ中のわたしに、突然現れた雛田先輩がそう言った。
「呼吸を止めるな、さっさと終わらそうとするな。腕を鍛えてるんじゃないだぞ」
お小言を言いながらつかつかと進み、そして、
「ちゃんと肘を曲げて、胸の筋肉を動かさないようにしろ」
と言って、四つん這い状態のわたしの腕をつかんできた!
「きゃああああ!!」
「っ!?」
悲鳴を上げて転がって距離を取るわたしに、雛田先輩が目を白黒させる。
「いきなり何するんですかっ!」
「おまえが間違った腕立てしてるから」
「だからって!」
「ひーなーた、今のはおまえが悪いよ」
ひょこっと顔を出したのは香西先輩だった。
香西先輩が雛田先輩の腕をつかみ、グイッと引き寄せる。
「突然女の子の身体に触れるなんて失礼にも程がある。小山内さんに謝って」
「……」
「謝って?」
香西先輩が重ねる。妙に有無を言わさない迫力。さすが元部長。
「悪かった……」
雛田先輩は不服げに謝る。
もしかしてこの人、香西先輩には弱い……?
「僕からも謝るよ。雛田は演劇ばっかで、少しデリカシーに欠けてて。ごめんね」
「いえ……。というか先輩方、どうされたんです?」
「どうもこうも、今日部活の日だろう」
「……前回来た時、わたしたち以外誰もいないって知ったじゃないですか」
「それはそうだが、もしかしたら今日は集まってるかもしれないだろ!」
(真面目だな~……)
わたしの中の雛田先輩像が少しずつ変わっていく気配がする。
言い方とやり方はどうあれ、意外と親切で優しいのかも知れない……いや、でも面と向かって他者の作品を「面白くない」ってぶった切る人だしなぁ。
「僕らは推薦で受験が終わった組だからね。ヒマなんだよ」
香西先輩、身とか蓋とかないのかな。
「そういえば南野さんと喜多くんは? 委員会とか?」
声が詰まった。また泣きそうになる。
「ちょっと今、……」
言い淀むと、雛田先輩があっさり言った。
「一人だけオーディションに合格したからギクシャクしてるんだろう、どうせ」
「雛田!」
核心を容赦なく突く雛田先輩を、香西先輩が咎めた。
前言撤回、やっぱり全然優しくない。
「ありがちなパターンだ。そういうものだと諦めろ」
養成所の先生と同じことを言う。けど、
「俺だって受賞してからロクな目に遭ってない。おかげで毎日、小学生のガキみたいに上靴を持ち歩く羽目になった」
香西先輩の顔色がサッと変わった。
「まだ物がなくなってるのか?」
「まあな。靴が最多で、他は文房具とか昼メシのパンとか。どーでもいいもんばっかだけど、盗まれるのは気分が悪い。妬むのもいい加減にしろってんだ」
言いながら、雛田先輩は胸ポケットの万年筆を取り出し、キャップをカチカチさせた。癖なのかな。
「先輩は……つらくないんですか?」
「あ?」
「妬みかどうかはともかく、……悪意、みたいなものを向けられるの」
物を盗まれること。
物自体が大したものでなくても、そこにあるのは悪意だ。相手を困らせてやろうという感情、欲望。
わたしはきっとそれに怯えてる。剥き出しの悪意なんて今まで直面したことなかったから。
わたしの問いに対する先輩の答えは、
「別に」
実に明快なものだった。拍子抜けさえする。
「この程度のことで俺は揺らがない。目標も目的も定まっている。俺は独りでも問題ない」
綺麗な立ち姿で佇む先輩は、堂々としていた。
やっぱりこの人とは相容れない……と思った。
わたしには、こんな強さなんてない。
「そういえば金曜日、変なこと言ってたな。靴がなくなったのを『呪い』とか何とか」
説明しようとした時、就也が現れた。先輩たちを見て驚く。
「お疲れ様です。何かあったんですか?」
「暇人の視察だよ。気にしないで」
香西先輩のゆるい答えに、就也が首をひねる。
そして話は、〈カナコちゃんの呪い〉に流れた。
「そんな七不思議あったんだ。三年間通ってるけど、全然知らなかったや」
感心する香西先輩の傍らで、雛田先輩がメモをとっていた。脚本のネタにでもするのだろうか。
「オレは、二年生の織屋先輩から聞いたんです。いわく、『オタクは入学したら、トイレの場所より先に学校の七不思議を調べるものだ』らしいです」
「初めて聞いたなそんな格言……。にしても全然怖くない呪いだね。雛田はどう思う?」
「呪いなんてあるわけねぇだろ」
キッパリと一刀両断。
「妬みでコソコソ物を盗むやつが、ごまかすために作った作り話だ」
「……。でも、この学校にカナコって名前の生徒がいたのは確かなんだそうですよ」
「そりゃいるだろ。珍しくない名前だし」
「そうじゃなくて、本当に自殺した『カナコ』がいたんです。その子は文芸部で、小説家志望だったらしくて。織屋先輩は文芸部兼任で、OBから聞いたそうですよ」
カナコちゃんの話はしばらく続いたけど、つまんない噂だという結論が下って終わった。
ひとりきりの講堂、腕立て伏せ中のわたしに、突然現れた雛田先輩がそう言った。
「呼吸を止めるな、さっさと終わらそうとするな。腕を鍛えてるんじゃないだぞ」
お小言を言いながらつかつかと進み、そして、
「ちゃんと肘を曲げて、胸の筋肉を動かさないようにしろ」
と言って、四つん這い状態のわたしの腕をつかんできた!
「きゃああああ!!」
「っ!?」
悲鳴を上げて転がって距離を取るわたしに、雛田先輩が目を白黒させる。
「いきなり何するんですかっ!」
「おまえが間違った腕立てしてるから」
「だからって!」
「ひーなーた、今のはおまえが悪いよ」
ひょこっと顔を出したのは香西先輩だった。
香西先輩が雛田先輩の腕をつかみ、グイッと引き寄せる。
「突然女の子の身体に触れるなんて失礼にも程がある。小山内さんに謝って」
「……」
「謝って?」
香西先輩が重ねる。妙に有無を言わさない迫力。さすが元部長。
「悪かった……」
雛田先輩は不服げに謝る。
もしかしてこの人、香西先輩には弱い……?
「僕からも謝るよ。雛田は演劇ばっかで、少しデリカシーに欠けてて。ごめんね」
「いえ……。というか先輩方、どうされたんです?」
「どうもこうも、今日部活の日だろう」
「……前回来た時、わたしたち以外誰もいないって知ったじゃないですか」
「それはそうだが、もしかしたら今日は集まってるかもしれないだろ!」
(真面目だな~……)
わたしの中の雛田先輩像が少しずつ変わっていく気配がする。
言い方とやり方はどうあれ、意外と親切で優しいのかも知れない……いや、でも面と向かって他者の作品を「面白くない」ってぶった切る人だしなぁ。
「僕らは推薦で受験が終わった組だからね。ヒマなんだよ」
香西先輩、身とか蓋とかないのかな。
「そういえば南野さんと喜多くんは? 委員会とか?」
声が詰まった。また泣きそうになる。
「ちょっと今、……」
言い淀むと、雛田先輩があっさり言った。
「一人だけオーディションに合格したからギクシャクしてるんだろう、どうせ」
「雛田!」
核心を容赦なく突く雛田先輩を、香西先輩が咎めた。
前言撤回、やっぱり全然優しくない。
「ありがちなパターンだ。そういうものだと諦めろ」
養成所の先生と同じことを言う。けど、
「俺だって受賞してからロクな目に遭ってない。おかげで毎日、小学生のガキみたいに上靴を持ち歩く羽目になった」
香西先輩の顔色がサッと変わった。
「まだ物がなくなってるのか?」
「まあな。靴が最多で、他は文房具とか昼メシのパンとか。どーでもいいもんばっかだけど、盗まれるのは気分が悪い。妬むのもいい加減にしろってんだ」
言いながら、雛田先輩は胸ポケットの万年筆を取り出し、キャップをカチカチさせた。癖なのかな。
「先輩は……つらくないんですか?」
「あ?」
「妬みかどうかはともかく、……悪意、みたいなものを向けられるの」
物を盗まれること。
物自体が大したものでなくても、そこにあるのは悪意だ。相手を困らせてやろうという感情、欲望。
わたしはきっとそれに怯えてる。剥き出しの悪意なんて今まで直面したことなかったから。
わたしの問いに対する先輩の答えは、
「別に」
実に明快なものだった。拍子抜けさえする。
「この程度のことで俺は揺らがない。目標も目的も定まっている。俺は独りでも問題ない」
綺麗な立ち姿で佇む先輩は、堂々としていた。
やっぱりこの人とは相容れない……と思った。
わたしには、こんな強さなんてない。
「そういえば金曜日、変なこと言ってたな。靴がなくなったのを『呪い』とか何とか」
説明しようとした時、就也が現れた。先輩たちを見て驚く。
「お疲れ様です。何かあったんですか?」
「暇人の視察だよ。気にしないで」
香西先輩のゆるい答えに、就也が首をひねる。
そして話は、〈カナコちゃんの呪い〉に流れた。
「そんな七不思議あったんだ。三年間通ってるけど、全然知らなかったや」
感心する香西先輩の傍らで、雛田先輩がメモをとっていた。脚本のネタにでもするのだろうか。
「オレは、二年生の織屋先輩から聞いたんです。いわく、『オタクは入学したら、トイレの場所より先に学校の七不思議を調べるものだ』らしいです」
「初めて聞いたなそんな格言……。にしても全然怖くない呪いだね。雛田はどう思う?」
「呪いなんてあるわけねぇだろ」
キッパリと一刀両断。
「妬みでコソコソ物を盗むやつが、ごまかすために作った作り話だ」
「……。でも、この学校にカナコって名前の生徒がいたのは確かなんだそうですよ」
「そりゃいるだろ。珍しくない名前だし」
「そうじゃなくて、本当に自殺した『カナコ』がいたんです。その子は文芸部で、小説家志望だったらしくて。織屋先輩は文芸部兼任で、OBから聞いたそうですよ」
カナコちゃんの話はしばらく続いたけど、つまんない噂だという結論が下って終わった。