本当は泊まりたかったところなのだが、さすがにそれは気まずさを助長させるだけだとミエにもわかる。大人しく家に帰り、また改めて朝、店に来た。
昨日のことを思うと、また顔がにやける。ぴしっと自分で頬を叩いて、気持ちを引き締めた。

「おはようございまーす」

変な空気感にならないだろうか。若干の不安を抱いていたが、黄昏さんのいつもの笑顔で迎えられ、ミエは安心した。いつもの穏やかで優しい笑みの奥に、困ったような雰囲気を感じる。

―――私、なんかやらかしたかな?

ぎくしゃくしながらカウンター近くに来ると、その困惑の正体を察した。

「やだ、まだ残ってるんですか」
「正直もういらねーって感じだよねえ。さすが桃源郷の桃」
「本当に仙人の住むところから持ってきたんですか?」

ぎょっとして訊き返すと、黄昏さんは声を立てて笑った。

「嘘に決まってるだろ。冗談だよ」
「ええ……本当ですか?」

なおも疑わしく見つめる。なぜなら黄昏さんは今、カウンターの縁に手をついて体重を預けているから。そういう時、大抵意地悪を言うか嘘をつくか。

「もう、いいです」

言ってくれなさそうなので、ミエは諦めてエプロンをつけた。
その時ちょうど、奥の部屋から双子とイダテンが出てくる。そういえば、双子は寝落ちしていた。そのまま朝を迎えたのか。なら自分も寝たふりをすればよかった。
眠たい目を擦りながら、双子は大きな欠伸をした。

「おはよう、二人とも」
「おはよう」
「おはよう」
「おはようっ、ミエ!」

最後にイダテンの元気な挨拶。うるさい、と双子は耳を塞ぐ。
青い子がまだ眠たげな眼差しでミエを見上げた。

「うまくいった?」
「え?」
「泊ったの?」
「泊ってないけど……」
「ふうん」

双子は口々に訊ね、少しがっかりしたように視線を外した。
どういう意味で言っているんだ、と計りかねているうちに双子は顔を洗いに奥へ引っ込んでしまう。

「俺もミエを送れなくて申し訳ない」

イダテンは心から申し訳なさそうに項垂れた。最近イダテンの護衛で森を抜けているが、昨日は子守をしているうちに自分も寝こけてしまったらしい。ミエとしては黄昏さんに送ってもらえたので、全く問題はないのだが。

「今日はしっかり送っていくから、安心してくれ」
「お前がいなくても、僕が送っていくからいいのに」

黄昏さんが横から口を挟んだ。むっとしてイダテンは腕を組む。

「あてにならん。お前は、あてにならん」
「二回言うな。何でさ」
「ミエ、こいつは悪賢い鬼のようなやつだぞ。うまいこと言って俺のことをこき使うんだ。信用ならん。そんなやつに大事なミエを任せられん」
「鬼って……」

横目で黄昏さんを盗み見る。
鬼というか、悪魔というか。
そもそもイダテンや双子は気づいているのだろうか。聡い双子は知っていてもよさそうだけれど。

「悪口言うなら今すぐ出ていけよ」

うんざり顔で黄昏さんはイダテンの後頭部を押す。ふさふさの夏毛に手が埋もれる。苛立たしげにイダテンは振り払った。

「そのうちミエをかどわかしかねん。見張っていないと」
「鬼子母神か。かどわかさねーよ」
「ふん、どうだかなあ」

ますます不毛な言い合いが激しくなりそうな予感が。こんな朝から喧嘩するなんて、ある意味仲がいいじゃないか。けれどもうすぐお店を開く準備をしないといけないのだから、そろそろ止めないと。
ミエは間に割って入った。

「いい加減にしてください。黄昏さん、お店開ける準備して。イダテンさんは双子の様子を見てきてください」
「ぐう、ミエの頼みなら仕方なし」

名残惜しそうにイダテンが先に激しい視線をかわし、奥に引っ込んだ。急かすような声が聞こえる。ゆっくり顔を洗っていたのか、それともまた寝はじめたのだろう。あの双子ならどちらもやりそうなことだから。

「あーあ、騒がしい」

黄昏さんは肩をすくめた。

「人が多い方がにぎやかでいいんじゃないでしたっけ?」
「限度があるよ。まあ、しょうがないよねえ」

はあーっと息を吐いて、伸びをした。
テーブルの上に持ち上がっている椅子を並べて、本棚に整列された背表紙の上にはたきをかける。毎日しているから埃は出ないが、一日休むを続けていくうちに塵が溜まる。本の中身を一冊ずつ確認する時もあるが、そうすると時間を取られてしまうのでそこそこに。

「あの、聞いてもいいですか?」
「昨日の続きなら、聞かないで」
「違います!どうして絵本屋さんをはじめようと思ったんですか?」

世間では悪しき存在と後ろ指を指される立場なのに。
ミエだって黄昏さんを知る前は、堕天使や悪魔は悪者だとばかり思っていたから。
本棚の掃除をしたまま、黄昏さんは答えた。

「絵本は心を純粋にさせるからだよ」
「心を純粋に?」
「この世は僕よりも悪魔を呼ぶに相応しい人間がごまんといる。正直、人間以外の存在はその悪意に対応しきれていない。だからこそ僕は絵本を読むし、人に勧めたい。こんな世界でもまだ価値はあると思いたいから」

その言葉にミエの心は痛んだ。

「価値は、あるでしょうか?」
「あるかどうか決まるのは、今後の人間たちの行いによるだろうなあ」
「私はどうしたら、この世界を価値あるものにできるんだろう……」
「純粋な心でものを見る気持ちさえあれば、それだけでいいと思うよ」

そう言って黄昏さんは微笑んだ。

純粋な心って、なんだろう。
正しいことをすれば、純粋でいられるのだろうか。けれど正しさを選択する気持ちは、同時に正しくないことを受け入れないということでもある。
正しいことが必ずしも正義であるとは限らないのに、拒絶は悪意の一つではないだろうか。
ミエにはわからなかった。ミエだけでなく、そもそも選択をする自由を与えられた存在はみんな、わからないのではないだろうか。
自分の考えていることと違うことを考えている人を否定しない。それが純粋な心でものを見るということなのかもしれない。

何事もなかったかのように掃除を続ける黄昏さんの姿を一度見てから、自分も準備をはじめた。

「桃、どうしよう」

手に一つ持ったまま、ぽつりと呟く。昨日作った分でレパートリーはほとんど網羅してしまったし。別にしれっと同じものを提供してもいいのだけれど、できれば違う方がミエの心情的にいい。
悩みつつ何となくくるくる回していると、うっかり手が滑ってしまった。ボールを下投げするように、桃はカウンターを飛び越えていく。

「黄昏さん、拾って!」
「ん?ああ」

呼ばれて振り向き、桃が転がっていることに気づいた黄昏さんが歩いて追う。
桃は自意識があるかのように扉の前まで転がっていく。ようやく動きを止めた時は、もう入り口の目の前だった。拾おうと黄昏さんが手を伸ばすと同時に、その扉が開く。

―――もうお客様?

扉を開いた先に立っている人。男性だった。たぶんこの人も正体は何かなのだろう。足元に転がった桃を手に取って、自分の顔に近づけじっと見つめた。まるで近視すぎてものが見えないみたいに眉間に皺を寄せて。やがて合点がいったように、ぱっと顔を明るくさせた。

「桃かっ」

前かがみになった黄昏さんは、腰を伸ばした。男性はその桃を黄昏さんに手渡す。それから忙しなくきょろきょろと中を見回す。

「あの……?」

訝しげにミエが訊ねる。すると男性は、あっと動きを止めた。自分の行動が不審極まりないと瞬時に悟り、害意はないのだと顔の前で両手を広げた。拍子に手首まで留めた几帳面なワイシャツが少しずり下がり、腕時計が覗いた。

驚いたのは、その腕時計がめちゃめちゃに壊れていたこと。基盤を守るガラスの部分がまずもうない。秒針が浮いているということは、ろくに動いていないのだろう。かろうじて原形をとどめているのは、手首に巻きつける皮の部分のみ。転んでうっかりというレベルではないほどに。大破というにふさわしい壊れっぷり。
男性もミエの凝視に気づいたらしく、恥ずかしげに手首を隠す。

「いきなり飛び込んで失礼。ご覧の通り時計が壊れてしまってね。今何時か教えてくれないか?実はとても急いでいるんだ」

はあん、と黄昏さんの目が笑みを浮かべる。

「教えてもいいですが、うちブックカフェなんで。何か頼んでいかれます?」
「聞いてたかい?急いでいるんだが」
「まあまあ」
「まあまあって。いたた、力強いな君。そんなに背中を押さないでくれ」

ぐいぐいと背中を押す黄昏さん。急いでいると言っているのに、いいのだろうか。時計がぶっ壊れている理由とも関係があるのだろうか。それとも、忙しくて時計のほうが壊れてしまったのだろうか。
男性の抵抗も虚しく、黄昏さんは半ば強引に男性を席に着かせた。

急いでいると言ったのに、と不満げな態度が露骨すぎる。なんでそんなに、と問いたくなるほどに。
気遣わしげにミエは黄昏さんを見る。いいのだろうかと目で訊ねる。こんな気難しそうな人相手に、正直自信がない。

黄昏さんは微笑んで、一つ頷いた。大丈夫だよ、と背を押すように。ミエはその微笑が胸に深く染み入ると同時に、不安が掻き消えていくのを感じた。
席に着いても相変わらず忙しない挙動の男性。眉間に皺を寄せてしきりに壊れた時計を見てはため息をつき、別の時計を探して周囲を見回す。

ふう、と息を吐く。ミエは男性に笑顔を向けて、口を開いた。