「……はい」
ミエは離された手を自分の反対の手で包んで見守る。
「お母さん、こちらへどうぞ」
「どうしたのかしら?」
きょとんとしている母親を手招いて、黄昏さんは本棚の前に立つ。そこから何か一冊を取り出した。
「あなたに」
ミエの位置からは見えないが、母親はそれを受け取るとタイトルを読み上げた。
「『ねえだっこして』?かわいらしいネコちゃんね。これはどういう本?」
「読んでみてください。僕からの贈り物です」
「あら、ありがとう」
丸窓のサイドテーブルに腰を落とし、母親は絵本を開いた。
むっつりとしていた男の子は、時折ちらちらと母親を窺う。傍に行きたいけれど、行きたくない。そんな気持ちが手に取るようにわかる。
「ねえ、一緒にデザート作らない?」
ミエの提案に、男の子はぱっと視線を持ち上げた。またストローをがじがじ噛んでいる。
「なんの?」
「そうだなあ。桃ゼリーを作るつもりだったんだけど、ちょっと足りなくて。何がいいかな」
「わかんない」
即答。だがミエはくじけなかった。
「何か食べたいものとか、ない?何でもいいよ」
「別にないもん」
「そ、そうかあ……」
どうしよう、と何気なく冷蔵庫を開く。常備しているお菓子作りに必須な材料のほか、缶詰の果実、生クリーム、先日提供したシフォンケーキの残り物。あとは季節のジャム各種。
「歯、痒いの?」
あまりにも執拗にストローを噛んでいる男の子に、黄昏さんは声を低めて訊ねる。小声にしてくれたのは、その行為が母親に知られてしまうと叱られるかもしれないと思ったからだろう。
「ぐらぐらする。もう少しで抜けるんだって」
「扉の取っ手に糸引っかけて、無理やり抜けばすっきりするよ」
口の中を覗き込んで、それらしいぐらぐらの歯に触れる。そのまま引っ張られるんじゃないか、と男の子は瞬時に身を引いて口をぎゅっと結んだ。
「冗談だよ」
他人の口に平気で指を突っ込む人にそんなことを言われても。男の子は頑なに首を振って拒否していた。
「あっ」
ひらめいた。ぐらぐらの歯だ。
ミエは冷蔵庫から材料を取り出して並べた。
「これなら作れる」
「何を?」
「トライフル」
とらいふる、と男の子が復唱する。
「生クリームとシフォンケーキを重ねて作るの。その上にフルーツを乗せればもうできちゃう。簡単だから、一緒に作ろう」
「でも……」
躊躇うように母親を見る。未だに絵本から顔を上げていない。
「できたら、お母さんに食べてもらおっか」
ミエの言葉に、男の子は戸惑いがちに一つ頷いた。
小ぶりのパフェグラスにシフォンケーキを入れる。本当は包丁で角切りにしたいところだけれど、柔らかすぎるから子どもの手では難しいだろう。好きな大きさにちぎってもらうことにした。生クリームはまだ液体のままだったため、ホイップにする必要がある。
ハンドミキサーで一発なのだが、運の悪いことに調子が悪い。仕方ないので泡だて器を使って頑張ることにした。
「貸して、やるよ」
ボウルを腕で抱えてミエがかき混ぜようとすると、それを黄昏さんが持った。
「すみません、ありがとうございます」
あっさりミエは引き下がる。実はそれを期待していたのだ。その間自分は男の子の手元を見たり、果実を一口サイズに切ったり。
「終わった」
と声があげたのは、男の子と黄昏さん、ほとんど同時だった。
「えっ、はや!」
黄昏さんの手元を見ると、しっかりと角の立った状態で生クリームが出来上がっている。もう少し時間がかかると思っていたから、正直にミエは感心した。男の子のほうも、手でちぎったとはいえ大きさがほとんど一緒。几帳面なのだろうか。もともとしっかりしている子ではあったが、こんなところまで。
あとはシフォンケーキと生クリーム、果実を交互に入れていくだけ。最後生クリームの上に真新しい桃を乗せ、その横にミントを飾れば出来上がり。
「……おいしそう」
思わず男の子の口から漏れる。パフェグラスを持ち上げて、層になっている部分を眺めていた。黄昏さんが男の子の背をそっと押す。
「お母さんのところに持って行ってあげな」
「でも絵本読んでるから。お母さんの邪魔しちゃ、だめなんだよ」
「大丈夫だから。行っておいで」
黄昏さんの言葉に、男の子は二つのトライフルを持って躊躇いがちに向かう。
「……お母さん」
遠慮がちに男の子が呼びかける。ゆっくりと母親は顔をあげた。目に涙を滲ませて、じっと男の子を見つめている。
ややあって、母親は男の子をそっと抱いた。目を丸くして、男の子は体を硬直させる。
「お母さん、どうしたの」
「ごめんね。お母さん、坊やのこと全然構ってやれなくて」
「……お母さん」
「坊やも抱っこしてあげるわ。お兄ちゃんだけど、私のかわいい坊やですもの」
「お母さん!」
思いがけず叫ばれ、母親は少し窺うように体を離す。どうしたのか、もう遅いのか、と不安げな目で男の子を捉えた。
「お母さん、デザート。一緒に食べよう」
男の子は俯いたまま、控えめにはにかんだ。零れるような柔らかさ。むっつりとした影はもうどこにもない。その頬に触れ、母親も泣いたように笑った。
サイドテーブルに乗せると、今度はしっかりと男の子も腕を回して抱き合った。もう逃げまいと言いたげに。
「『ぐらぐらの歯』ね」
二人を見据えつつ、黄昏さんは言った。
「そういえばあったね、トライフル。よく覚えてた」
ドロシー・エドワーズの「きかんぼのちいちゃいいもうと」シリーズ。やりたい放題できかんぼの妹の日常が楽しく描かれている児童文学だ。実際にトライフルが出てくるのは三巻の『いたずらハリー』だったはず。
「大人になってから読んだんです。たぶん、小さいころだとうまく共感できなかったかも」
「ミエさん、妹だしね」
「今あの子に本を教えてあげるより、もう少し大人になってからのほうがきっといいと思います」
「それもそうだ。偉いね、ミエさん。仲直りに一役買ったよ」
直球で褒められて、ミエは気恥ずかしくなる。へへ、と笑ってごまかした。
「黄昏さんこそ、お母さんを変えてくれたじゃないですか。すごいです」
「本業だからね。遊んで暮らしているわけじゃないんだよ」
黄昏さんはいつもの微笑みをミエに手向けた。
丸窓のサイドテーブルでは親子が仲良くトライフルを食べている。男の子は母親の膝に乗り、それだけでもう幸せそう。二人を見ていると、ミエも嬉しくなる。
心の中の不安や躊躇いはまだ残っている。けれど今こうして黄昏さんと話をしている。それ以上のことを望まなければいい。そうすれば、そのうち忘れられる。なかったことになるはず。
―――そのほうが、きっとうまくいくから。
沈む澱を意識しつつも、ミエはそれを見ないことにして蓋をした。それでいい、と自分に言い聞かせて。
ミエは離された手を自分の反対の手で包んで見守る。
「お母さん、こちらへどうぞ」
「どうしたのかしら?」
きょとんとしている母親を手招いて、黄昏さんは本棚の前に立つ。そこから何か一冊を取り出した。
「あなたに」
ミエの位置からは見えないが、母親はそれを受け取るとタイトルを読み上げた。
「『ねえだっこして』?かわいらしいネコちゃんね。これはどういう本?」
「読んでみてください。僕からの贈り物です」
「あら、ありがとう」
丸窓のサイドテーブルに腰を落とし、母親は絵本を開いた。
むっつりとしていた男の子は、時折ちらちらと母親を窺う。傍に行きたいけれど、行きたくない。そんな気持ちが手に取るようにわかる。
「ねえ、一緒にデザート作らない?」
ミエの提案に、男の子はぱっと視線を持ち上げた。またストローをがじがじ噛んでいる。
「なんの?」
「そうだなあ。桃ゼリーを作るつもりだったんだけど、ちょっと足りなくて。何がいいかな」
「わかんない」
即答。だがミエはくじけなかった。
「何か食べたいものとか、ない?何でもいいよ」
「別にないもん」
「そ、そうかあ……」
どうしよう、と何気なく冷蔵庫を開く。常備しているお菓子作りに必須な材料のほか、缶詰の果実、生クリーム、先日提供したシフォンケーキの残り物。あとは季節のジャム各種。
「歯、痒いの?」
あまりにも執拗にストローを噛んでいる男の子に、黄昏さんは声を低めて訊ねる。小声にしてくれたのは、その行為が母親に知られてしまうと叱られるかもしれないと思ったからだろう。
「ぐらぐらする。もう少しで抜けるんだって」
「扉の取っ手に糸引っかけて、無理やり抜けばすっきりするよ」
口の中を覗き込んで、それらしいぐらぐらの歯に触れる。そのまま引っ張られるんじゃないか、と男の子は瞬時に身を引いて口をぎゅっと結んだ。
「冗談だよ」
他人の口に平気で指を突っ込む人にそんなことを言われても。男の子は頑なに首を振って拒否していた。
「あっ」
ひらめいた。ぐらぐらの歯だ。
ミエは冷蔵庫から材料を取り出して並べた。
「これなら作れる」
「何を?」
「トライフル」
とらいふる、と男の子が復唱する。
「生クリームとシフォンケーキを重ねて作るの。その上にフルーツを乗せればもうできちゃう。簡単だから、一緒に作ろう」
「でも……」
躊躇うように母親を見る。未だに絵本から顔を上げていない。
「できたら、お母さんに食べてもらおっか」
ミエの言葉に、男の子は戸惑いがちに一つ頷いた。
小ぶりのパフェグラスにシフォンケーキを入れる。本当は包丁で角切りにしたいところだけれど、柔らかすぎるから子どもの手では難しいだろう。好きな大きさにちぎってもらうことにした。生クリームはまだ液体のままだったため、ホイップにする必要がある。
ハンドミキサーで一発なのだが、運の悪いことに調子が悪い。仕方ないので泡だて器を使って頑張ることにした。
「貸して、やるよ」
ボウルを腕で抱えてミエがかき混ぜようとすると、それを黄昏さんが持った。
「すみません、ありがとうございます」
あっさりミエは引き下がる。実はそれを期待していたのだ。その間自分は男の子の手元を見たり、果実を一口サイズに切ったり。
「終わった」
と声があげたのは、男の子と黄昏さん、ほとんど同時だった。
「えっ、はや!」
黄昏さんの手元を見ると、しっかりと角の立った状態で生クリームが出来上がっている。もう少し時間がかかると思っていたから、正直にミエは感心した。男の子のほうも、手でちぎったとはいえ大きさがほとんど一緒。几帳面なのだろうか。もともとしっかりしている子ではあったが、こんなところまで。
あとはシフォンケーキと生クリーム、果実を交互に入れていくだけ。最後生クリームの上に真新しい桃を乗せ、その横にミントを飾れば出来上がり。
「……おいしそう」
思わず男の子の口から漏れる。パフェグラスを持ち上げて、層になっている部分を眺めていた。黄昏さんが男の子の背をそっと押す。
「お母さんのところに持って行ってあげな」
「でも絵本読んでるから。お母さんの邪魔しちゃ、だめなんだよ」
「大丈夫だから。行っておいで」
黄昏さんの言葉に、男の子は二つのトライフルを持って躊躇いがちに向かう。
「……お母さん」
遠慮がちに男の子が呼びかける。ゆっくりと母親は顔をあげた。目に涙を滲ませて、じっと男の子を見つめている。
ややあって、母親は男の子をそっと抱いた。目を丸くして、男の子は体を硬直させる。
「お母さん、どうしたの」
「ごめんね。お母さん、坊やのこと全然構ってやれなくて」
「……お母さん」
「坊やも抱っこしてあげるわ。お兄ちゃんだけど、私のかわいい坊やですもの」
「お母さん!」
思いがけず叫ばれ、母親は少し窺うように体を離す。どうしたのか、もう遅いのか、と不安げな目で男の子を捉えた。
「お母さん、デザート。一緒に食べよう」
男の子は俯いたまま、控えめにはにかんだ。零れるような柔らかさ。むっつりとした影はもうどこにもない。その頬に触れ、母親も泣いたように笑った。
サイドテーブルに乗せると、今度はしっかりと男の子も腕を回して抱き合った。もう逃げまいと言いたげに。
「『ぐらぐらの歯』ね」
二人を見据えつつ、黄昏さんは言った。
「そういえばあったね、トライフル。よく覚えてた」
ドロシー・エドワーズの「きかんぼのちいちゃいいもうと」シリーズ。やりたい放題できかんぼの妹の日常が楽しく描かれている児童文学だ。実際にトライフルが出てくるのは三巻の『いたずらハリー』だったはず。
「大人になってから読んだんです。たぶん、小さいころだとうまく共感できなかったかも」
「ミエさん、妹だしね」
「今あの子に本を教えてあげるより、もう少し大人になってからのほうがきっといいと思います」
「それもそうだ。偉いね、ミエさん。仲直りに一役買ったよ」
直球で褒められて、ミエは気恥ずかしくなる。へへ、と笑ってごまかした。
「黄昏さんこそ、お母さんを変えてくれたじゃないですか。すごいです」
「本業だからね。遊んで暮らしているわけじゃないんだよ」
黄昏さんはいつもの微笑みをミエに手向けた。
丸窓のサイドテーブルでは親子が仲良くトライフルを食べている。男の子は母親の膝に乗り、それだけでもう幸せそう。二人を見ていると、ミエも嬉しくなる。
心の中の不安や躊躇いはまだ残っている。けれど今こうして黄昏さんと話をしている。それ以上のことを望まなければいい。そうすれば、そのうち忘れられる。なかったことになるはず。
―――そのほうが、きっとうまくいくから。
沈む澱を意識しつつも、ミエはそれを見ないことにして蓋をした。それでいい、と自分に言い聞かせて。