「はあーっ、苦労したぞ!」

現れたのはイダテンだった。あろうことか、毛だらけのイタチのまま。目の前に人間の男の子がいるのに。ぎょっとしてミエは男の子の目に手を当てて隠した。

「ちょっとイダテンさん!」

心持ち小声で、咎めるようにイダテンの頭からつま先まで睨みつける。まっさらな姿のままここに来られては困るのだ、と目で訴える。が、イダテンはどこ吹く風でずかずかと店の中に入ってくる。
どうにもならん、とミエは本日何度目かの助けを求めて黄昏さんを見つめる。今度は肩をすくめただけだった。

「見つかったの?」

極めて普通の声量で、イタチに話しかける。イダテンはふん、と鼻を鳴らした。

「散々苦労したがな。なんせ相手は空を飛んでる。俺はこの通り、そこまで目がよくないから叫んで呼び止めるしか方法がなくて。おかげでこんなに声が枯れてしまったぞ」

ええん、と露骨に咳をしてみせる。

「元からそんな声だっただろ」
「もっと小ぎれいなワイルドボイスだった」
「はいはい。で、どこにいるの?」
「外にいる。呼んでこよう」

ええんええん、としつこく咳をしながらイダテンは外にいるという連れを呼びに出ていった。何がなんだか理解の追いつかないミエは、二人の会話を聞いてもよくわかっていない。
ややあって、イダテンは戻ってきた。その後ろに、ふっくらとした女性を連れて。
黄昏さんは振り向いて、男の子に視線を移した。

「さあ人間になった渡り鳥さん。お母さんが迎えに来たよ」

その言葉を合図に、男の子はミエの膝元を離れた。女性のもとへとまっしぐらに走っていく。

「お母さん!」
「坊や!」

呼び合うと、二人はしっかりと抱き合った。感動的な再会を果たした親子は、そのまま本来の渡り鳥に姿に戻って空を飛んでいった。……となればよかったのだろうが。
母親は男の子と肩を掴むと、抱くことなく強く揺すった。

「どうして勝手に行ってしまうの?どうしていつもそう、勝手なことばかりしてお母さんを困らせるの?もうお兄ちゃんなんだから、お母さんやお父さんのお手伝いをしてちょうだい!」
「……ごめんなさい、お母さん」

男の子は俯いた。強く掴まれた体が揺すられ、そのたびに委縮していく。
正体が渡り鳥だったことは驚くべきことだが、それはまず置いておくとして。ミエは母親の態度に呆気にとられた。家出をした我が子を案じるよりも前に、そんなに怒らなくたって。
すると横で、黄昏さんのため息が聞こえた。ぱっとミエが見ると、その表情はいつもの微笑が漂っているばかり。

「探し回って疲れたでしょう。少し店で休んでください」
「いいえ。これ以上ご迷惑をおかけするにはいきませんので。私たちはお暇しますわ」
「そうは言ってもまだ陽は高い。こんな小鳥連れて飛ぶのは大変でしょう。せめて、陽が傾いてからにしては?」

確かにまだ熱気は続いている。より陽光に近いところを飛ぶのだから、ここよりも暑いはず。黄昏さんの提案に、母親は少し気持ちが傾いたようだ。
視線を落とし、母親は我が子を見た。小さくて細い。しかも泣いた後で独特の倦怠感を宿した目をしている。はあ、と諦めたような息をついて言った。

「では少しの間、お休みさせていただきます」

揃って中に入る親子を見届けてから、ミエはそっと黄昏さんに訊ねる。

「いつから人間ではないって知ってたんですか?」
「ん?最初から」
「じゃあどうして、イダテンさんが隠れたりしたんです?」
「イタチの天敵は猛禽類だからさ。鳥を見ると警戒するんだろ。実際はツバメか何かじゃないかな」
「教えてくれたって、いいじゃないですか……」

ものいう動物たちのように、またしてもミエだけがパニックになって慌てふためいていたということか。
そんなに信用がないのか。言うに値しない程度の、そんな存在なのか。
気持ちが悪い方に傾いているのを知ってか、黄昏さんはミエの瞳を覗いた。

「僕がミエさんに頼られたかっただけだ、ごめんね」

えっ、と声を上げる間に黄昏さんは先に行ってしまった。

―――それって、どういうことなの?

気まずげに避けたくせに。どうして傍に寄らざるを得ないようにさせるのだろう。今日何度も助けを求めたが、あれは全て黄昏さんがそうなるようにしていたということになる。

―――黄昏さんがわからない。

店の中では鳥の親子が椅子に座って何やら話をしている。狭い空間のため内容は知らずとも耳に入って来た。

「お母さんたちだけじゃなくよそ様に迷惑をかけて。いつも言っているでしょ、自分のことは自分でできるようにならないとだめって。もうお兄ちゃんになるのよ。もっとしっかりなさい」

言い聞かせられた男の子は、だんまりを決め込んだ。けれど再度「お兄ちゃんっ」と呼ばれ、渋々頷く。目線は俯きがちで、本心からではないことは明らか。
はあ、と母親がため息をつく。

「何か飲まれますか?」

ミエが訊ねると、よそ行きの愛想笑いを浮かべた。

「そうねえ。何がおすすめかしら」
「桃が入ったので、冷たいハーブティーと一緒にお出ししますね」

妊婦だからカフェインの入っているものは出せない。疲れているようなら、疲労回復の効果があるレモングラスで淹れるのがいいだろう。濃いめに淹れて、たっぷり氷の入ったグラスの中に注ぐ。
みずみずしい透明さは、見た目にも心地よい。切った桃を皿に乗せて母親の前に出した。男の子には今度はリンゴジュースを。
母親は一口飲んで、深いため息を吐く。

「すみません、何から何までしていただいて。この子、ご迷惑をおかけしなかったでしょうか」
「迷惑なんてとんでもないです。いい子でしたよ」

まさか口が裂けても赤子を食ってくれなんて話はできない。念のため確かめるように黄昏さんを横目で捉える。微笑んだままだが、大丈夫だろうか。しれっと事実を言い出しかねない。
怖くなってミエはカウンターの下のほうで、ちょっと肘でつつく。ぱっと目が合ったので、無言で首を振る。言うな、という意味。合点がいったように黄昏さんも頷き返す。

「実はお母さんにお伝えしたいことがあって……」
「あら、何かしら。坊やのこと?」
「そうです。実は……」

言い終わる前に、ミエはその口元を手で塞いだ。
だめだって言ったのに、と目で訴える。頷いたじゃないか。
黄昏さんは自分の口元に当てられたミエの手に触れ、そっと離した。その手を使って、自分の口の動きを母親のほうに見せないようにして覆い隠す。

「大丈夫だから」
「でも……」
「僕を信じて、ね?」

じっと見つめられてそう言われてしまうと。