「ごめんなさい」
けれど男の子は打ち明けた感情を拾ってほしそうに俯いたまま。大人として、ミエは放っておくことはできない。
「わかるって、どうして?」
「お母さんは僕のことなんかどうだっていいんだと思う」
「そんなことないよ」
「どうしてわかるの?お母さんに会ったこともないくせに」
「ない、けど」
普通親ってそういうものじゃないの、と言いかけてミエは留めた。実際問題、全ての親がそうなのかわからないから。平気で我が子を捨てるような親もいれば、一応育ててくれるけど邪険に扱うような親もいるだろう。それがその子どもにとっての普通なら、ミエの理屈は全く通用しないことになる。
二の句の継ぎ方がないまま困惑し黙ってしまう。何回も申し訳ないと思いつつも、助けを求めて黄昏さんを見た。
「そんなに意地悪言うんじゃ、お母さんに嫌われても仕方ないなあ」
「ちょっとそんな言いかた……」
思わずミエが袖を引く。男の子の瞳は潤んでいた。けれど気丈にも泣かずに飲み込んだ。
「お母さんはお腹に赤ちゃんができてから、僕のこと名前で呼んでくれないんだ」
「なんて呼ぶの?」
「お兄ちゃんって」
ああ、とミエは息を漏らした。黄昏さんが目線で尋ねたので、苦笑で返す。
「私、妹なんですけど、私が生まれる前の兄が『生まれてもいない妹のせいで、何でもかんでもお兄ちゃんだからって我慢させられて嫌だった』って言っていたんです。もちろん、今ではもう笑いごとですけれど」
言うには少し恥ずかしい内輪事だが、今の男の子にぴったり当てはまっているともいえる。
「つまり、お前はお兄ちゃん扱いされるのが嫌だから家出してきたんだ?それどころかきょうだいが憎いから、食ってもらおうと思ってる」
「食べてほしいわけじゃないもん」
「食べてもらえればお前は『お兄ちゃん』にならなくていいのに?」
極論を言ってしまえばそうなるが、そうではない気がする。この子にある不満の解消は、目の前にあることを取り除くことでは解決しない。ミエは輪郭のはっきりしない問題を知りつつも、解決方法がわからずにいた。母親と話し合う以外何も思いつかないが、その母親がいないのでは意味がない。
けれど、男の子は首を横に振った。
「別にお兄ちゃん扱いが嫌いなんじゃないもん。赤ちゃんだって、きっと好きになるもん」
「じゃあ何が嫌なんだよ?」
黄昏さんの訊き方は、まるで心の内側にもう見つかっている答えを引き出すよう。
―――わかっていて、あえて訊いているんだ。
ミエは男の子の答えを待った。それはかつて兄から聞かされた自分への不満をどうやって慰めたのか知ることと同じだった。
「わからない」
男の子ははっきりと、少し腹立ちまぎれに行った。
「わかんないから、家出したんだ。もう聞かないでよ、放っておいて!」
ついに男の子はテーブルに突っ伏してしゃくりあげた。腕の間からこもった泣き声が聞こえる。ミエは隣に座って、その背中をさすった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
そう言うしかできない。それ以外の言葉が見つからない。放っておくことなどできないが、手を差し伸べて救うには自分はあまりにも無力だった。
「お母さんは僕より生まれてくる赤ちゃんのほうが大事なんだ。僕のことちゃんと見てくれない。名前も呼んでくれない。だから迎えにも来るもんか。絶対絶対、来てくれないもん!」
さらに声を高くして泣き、縋るようにミエの腰に手を回した。思わず抱きしめ返し頭を撫でながら、「大丈夫大丈夫」と続ける。
本心を言えば、それしか言うことができない自分が情けなかった。
「そんなことないと思うけどねえ」
場にそぐわない飄々とした声。黄昏さんは本棚から一冊本を抜き取ると、それを男の子に見せた。ぐずっと鼻を鳴らし、男の子は顔をしかめる。
「絵本は読まないんだ。だってお兄ちゃんになったらきょうだいに読んでやらないといけないから」
「お母さんに言われた?」
こくりと頷く。
「もうお母さんは僕のために読んでくれない。いっつもいっつも、お腹の中に向かって絵本を読むばっかりで」
いっつも、という部分で語気が強まる。
まだ甘えたい年なのに。まだ七歳程度じゃないか。虚勢を張って我慢するには、あまりにも孤独すぎる。兄もそうだったのだと思うと、ミエは男の子を抱きしめた。
「仕方ないなあ。じゃあ僕が読んであげるよ」
黄昏さんはそう言うと、男の子に向かって本を開いた。
そんなことしてほしいんじゃない、と言いたげに泣いている目元がぎゅっと睨む。けれど、その絵本のタイトルを読み上げた途端、男の子はぱちくりと目を見開いた。
『ぼくにげちゃうよ』は、目の覚めるような青空の下で草が風に漂い、垣根に二匹のウサギの親子が向かい合っているのが印象的な表紙。
ある日子ウサギは、家を出てどこかへ行ってみたくなった。「ぼくにげちゃうよ」と言って。すると母ウサギは「おまえがにげたら、かあさんはおいかけますよ。だって、おまえはとってもかわいい、わたしのぼうやだもの」と言った。その後も子ウサギは様々なものに変身しては逃げ続ける。そのたびに母ウサギも変身して捕まえる。そしてとうとう子ウサギは「だったら」と答えを出す。
そういう話だ。ミエも知っている。実家に置いてあったが、中身まではよく覚えていなかった。改めて今、黄昏さんの声で紡がれるその優しさの中に兄の思い出が蘇る。兄はどんな気持ちでこの絵本を読んだのだろう。
ぱたんと本を閉じる音。ミエのすぐそばで聞き入っていた男の子は、手を伸ばして本の表紙に触れた。
「僕逃げちゃったんだ。このウサギと同じ。でも、お母さんは追いかけてくれるかなあ」
不安げに母ウサギを指で撫でる。
「くれるんじゃない?」
黄昏さんは本を手渡す。んな無責任な、と思いかけたところで、ちりんと扉のベルが鳴った。
けれど男の子は打ち明けた感情を拾ってほしそうに俯いたまま。大人として、ミエは放っておくことはできない。
「わかるって、どうして?」
「お母さんは僕のことなんかどうだっていいんだと思う」
「そんなことないよ」
「どうしてわかるの?お母さんに会ったこともないくせに」
「ない、けど」
普通親ってそういうものじゃないの、と言いかけてミエは留めた。実際問題、全ての親がそうなのかわからないから。平気で我が子を捨てるような親もいれば、一応育ててくれるけど邪険に扱うような親もいるだろう。それがその子どもにとっての普通なら、ミエの理屈は全く通用しないことになる。
二の句の継ぎ方がないまま困惑し黙ってしまう。何回も申し訳ないと思いつつも、助けを求めて黄昏さんを見た。
「そんなに意地悪言うんじゃ、お母さんに嫌われても仕方ないなあ」
「ちょっとそんな言いかた……」
思わずミエが袖を引く。男の子の瞳は潤んでいた。けれど気丈にも泣かずに飲み込んだ。
「お母さんはお腹に赤ちゃんができてから、僕のこと名前で呼んでくれないんだ」
「なんて呼ぶの?」
「お兄ちゃんって」
ああ、とミエは息を漏らした。黄昏さんが目線で尋ねたので、苦笑で返す。
「私、妹なんですけど、私が生まれる前の兄が『生まれてもいない妹のせいで、何でもかんでもお兄ちゃんだからって我慢させられて嫌だった』って言っていたんです。もちろん、今ではもう笑いごとですけれど」
言うには少し恥ずかしい内輪事だが、今の男の子にぴったり当てはまっているともいえる。
「つまり、お前はお兄ちゃん扱いされるのが嫌だから家出してきたんだ?それどころかきょうだいが憎いから、食ってもらおうと思ってる」
「食べてほしいわけじゃないもん」
「食べてもらえればお前は『お兄ちゃん』にならなくていいのに?」
極論を言ってしまえばそうなるが、そうではない気がする。この子にある不満の解消は、目の前にあることを取り除くことでは解決しない。ミエは輪郭のはっきりしない問題を知りつつも、解決方法がわからずにいた。母親と話し合う以外何も思いつかないが、その母親がいないのでは意味がない。
けれど、男の子は首を横に振った。
「別にお兄ちゃん扱いが嫌いなんじゃないもん。赤ちゃんだって、きっと好きになるもん」
「じゃあ何が嫌なんだよ?」
黄昏さんの訊き方は、まるで心の内側にもう見つかっている答えを引き出すよう。
―――わかっていて、あえて訊いているんだ。
ミエは男の子の答えを待った。それはかつて兄から聞かされた自分への不満をどうやって慰めたのか知ることと同じだった。
「わからない」
男の子ははっきりと、少し腹立ちまぎれに行った。
「わかんないから、家出したんだ。もう聞かないでよ、放っておいて!」
ついに男の子はテーブルに突っ伏してしゃくりあげた。腕の間からこもった泣き声が聞こえる。ミエは隣に座って、その背中をさすった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
そう言うしかできない。それ以外の言葉が見つからない。放っておくことなどできないが、手を差し伸べて救うには自分はあまりにも無力だった。
「お母さんは僕より生まれてくる赤ちゃんのほうが大事なんだ。僕のことちゃんと見てくれない。名前も呼んでくれない。だから迎えにも来るもんか。絶対絶対、来てくれないもん!」
さらに声を高くして泣き、縋るようにミエの腰に手を回した。思わず抱きしめ返し頭を撫でながら、「大丈夫大丈夫」と続ける。
本心を言えば、それしか言うことができない自分が情けなかった。
「そんなことないと思うけどねえ」
場にそぐわない飄々とした声。黄昏さんは本棚から一冊本を抜き取ると、それを男の子に見せた。ぐずっと鼻を鳴らし、男の子は顔をしかめる。
「絵本は読まないんだ。だってお兄ちゃんになったらきょうだいに読んでやらないといけないから」
「お母さんに言われた?」
こくりと頷く。
「もうお母さんは僕のために読んでくれない。いっつもいっつも、お腹の中に向かって絵本を読むばっかりで」
いっつも、という部分で語気が強まる。
まだ甘えたい年なのに。まだ七歳程度じゃないか。虚勢を張って我慢するには、あまりにも孤独すぎる。兄もそうだったのだと思うと、ミエは男の子を抱きしめた。
「仕方ないなあ。じゃあ僕が読んであげるよ」
黄昏さんはそう言うと、男の子に向かって本を開いた。
そんなことしてほしいんじゃない、と言いたげに泣いている目元がぎゅっと睨む。けれど、その絵本のタイトルを読み上げた途端、男の子はぱちくりと目を見開いた。
『ぼくにげちゃうよ』は、目の覚めるような青空の下で草が風に漂い、垣根に二匹のウサギの親子が向かい合っているのが印象的な表紙。
ある日子ウサギは、家を出てどこかへ行ってみたくなった。「ぼくにげちゃうよ」と言って。すると母ウサギは「おまえがにげたら、かあさんはおいかけますよ。だって、おまえはとってもかわいい、わたしのぼうやだもの」と言った。その後も子ウサギは様々なものに変身しては逃げ続ける。そのたびに母ウサギも変身して捕まえる。そしてとうとう子ウサギは「だったら」と答えを出す。
そういう話だ。ミエも知っている。実家に置いてあったが、中身まではよく覚えていなかった。改めて今、黄昏さんの声で紡がれるその優しさの中に兄の思い出が蘇る。兄はどんな気持ちでこの絵本を読んだのだろう。
ぱたんと本を閉じる音。ミエのすぐそばで聞き入っていた男の子は、手を伸ばして本の表紙に触れた。
「僕逃げちゃったんだ。このウサギと同じ。でも、お母さんは追いかけてくれるかなあ」
不安げに母ウサギを指で撫でる。
「くれるんじゃない?」
黄昏さんは本を手渡す。んな無責任な、と思いかけたところで、ちりんと扉のベルが鳴った。