気にしすぎるのは、自分の悪い癖だと思う。

何をするにでも、後から後からああすればよかった、こうすればよかった、と毎回頭の中で繰り広げては、自己嫌悪に陥る。
今も、そう。
ミエは頭の中で自分会議を開催し、あの時の行動についてあれこれ考えを巡らせていた。

―――気づかれてしまったかも。向こうにはそのつもりなんか、全然ないのかもしれないのに。

自分だってついこの間まで気づかなかった。というか、今だって疑わしい。だって相手は女の子(かもしれない)だし、人ではない(たぶん)し。常識の範囲外にいるというのに、どうして今まで普通でいることを心掛けていた自分が好きになるだろうか。
ちらりと、カウンター越しにミエは丸窓の傍の椅子に腰かけている黄昏さんを見る。本を読んでいて目を上げない。こちらの視線に気づいてはいないだろう。だからといって、遠慮なく見ていいということではないけれど。

はあ、と小さく息を吐く。汚れてもいないカップを拭いたり、オーブンを掃除したりして手を動かし続ける。そうでもしないと、考えるだけ考えてますます混乱しそうだから。
昼下がりだが、外はまだまだ気温が高い。丸窓の向こうは蜃気楼。お客様は夕方辺りにやってくることがほとんどで、ということはあと数時間は二人きり。

―――こういう時に限って、イダテンさんはいないし。

川辺に沐浴に行くのが日課らしい。夏毛を存分に川の水で冷やしてから、夕方の涼しい時間帯になるまでその辺の草原で日光浴をしている。たまにお茶や軽食を届けに行くが、茶色い毛玉が転がっているのを目撃するのは都会の日常とはあまりにもかけ離れていてちょっと笑える。
たまに野良ネコを自宅付近や駅前で見かけるが、あちらはのどかさとは真逆だ。本人は勝手気ままに暮らしているのだろうが。
ぼうっと丸窓を見ていると、ふと視線を感じた。目の焦点を変え、ミエはぎくりと身を固くする。黄昏さんが見ていた。ミエの硬直を察し、苦笑を零してまた目を落とす。

―――何か言ってくれれば、まだマシなのに。

何がマシなのかわからないけれど。とりあえずこの気まずさからは脱せるだろう。けれど何も言ってくれない。毎日、挨拶もほどほどに今の距離感に移ってしまう。
黄昏さんのその態度。自分に近づきすぎた人をやんわりと遠ざけて距離を調整しているかのよう。それがわからないミエではない。だから、つらい。
ちりん、と扉のベルが鳴った。
黄昏さんの顔がぱっと持ち上がる。

「いらっしゃいませ。……ああ、なんだお前か」
「何だとは何だ」

イダテンはむっつりとしたように戻って来た。

「今日は早いんですね」
「その辺で寝ていたらあのネズミ小僧どもが、俺に向かって果物を投げてきたんだ。死んでるかどうか確かめるためだとぬかしやがって。せっかく水浴びをしてきたというのに、汚れてしまってな。洗ってからもう一度というのも面倒だったから、乾かして早々戻ってきたんだ」
「そ、そうなんですか。あの双子は一緒じゃないんですか?」
「果物のおすそ分けに寄ろうとしたんだが、俺に預けて行ってしまった。どこか別の地に配達の用があったのだろう」

イダテンの手にはバスケットが握られている。出ていく時には持っていなかった。ミエはそれを受け取ると、中を覗いた。

「あら、桃だ」
「すごいたくさんあるじゃないか」

いつの間にか黄昏さんも傍に来ていて、ミエのすぐ真横でバスケットを見下ろしている。思わずミエが身を引いてしまうと、自分の距離感に気づいた黄昏さんが苦笑を零して体を離した。

「どこに行ってきたんだ、あいつら」
「さあ、知らん。桃源郷とかじゃないのか?」
「適当言うな」
「ミエにこの桃を使ってデザートを作ってほしいとさ。今日の夜にまた来ると言ってたぞ」
「デザートかあ」

暑い時期だし、シャーベットとか、ゼリーに混ぜて冷やすのが一番おいしいだろうな。あとは桃ジャムやコンポートにしてしまうとか。
それにしても多いが、その分レパートリーも発揮できるというものだ。鬱々とした気分を発散させるにはちょうどいい。ミエはエプロンのひもをつけ直した。

「よーし、まずは洗って皮をむかないと」

その時、外から音がした。洗濯物が風にひるがえった時のようなばさっと裏返る音。風なんか吹いていただろうか、と思う間に再びちりんとベルが鳴った。先ほどよりも控えめな、入っていいのかどうか伺うような音。

「いらっしゃいま、せ……」

そう言った黄昏さんの声は、最後にかけて驚き交じりになっていた。
子どもだった。男の子。七歳くらいの。といっても、あの双子ではない。

「あの、ここ……?」

男の子は戸惑いを隠せずに入り口付近に立ち止まったまま。いつも出入りしている無表情の二つの顔とは全く違う。泰然とした様子もない。本当に、普通の小さな子だった。

「もしかして、迷子?」

ミエが訊ねる。すると男の子は頷いた。

―――そう言えば、ここは人間でも入れるって。じゃあこの子、人間の男の子なのかな。

あっと思い、ミエはイダテンを探す。あの獣の姿のまま人間の前に立たれては驚くだろう。今でさえ迷子で混乱しているはずなのに。
イダテンはすでに奥に引っ込んでいるようで、カウンター奥の扉が微かに開閉を繰り返している。隙間から、こちらを窺う目が覗く。
ミエは気づかれずに済んだことをひとまず安堵した。

「そっか。怖かったね。おいで、ジュースあるよ」

なるべく安心させるつもりで、ミエは微笑んで手招いた。が、男の子は首を横に振った。

「知らない人から、何か貰っちゃいけないって言われているんで」

弱弱しく、だがきっぱりと断る。泣きそうな顔だが、泣いてはいなかった。逆にミエが慌てそうになる。このくらいの子とまともに話したことはない。機会がないとまず交流なんてしないだろう。けれど努めて平常心を保ったまま、ミエは次の言葉を考えた。カウンターを出て、男の子の前で両膝をつく。

「どこから来たの?」
「森」
「森……の、どこから?」
「知らない人にお家の場所を言ってはいけないんで、それ以上は」
「あ、はい。すみません……」

意外と手強い。これでは探そうにも探せない。

「ええと、お名前は聞いてもいい?」
「先に教えてくれるなら」
「有堂ミエです」

男の子は頷き、今度は自分の名前を述べた。けれど、思うように聞き取れない。

「ごめんね、もう一回いい?」

渋々もう一度言ってくれた、ように思う。何度聞いても、それらしい文字が頭には浮かんでくるのに、実際に発音することはできなかった。どこか外国の名前なのだろう。どうにか頑張って口に出そうとするミエに、男の子はため息をついた。

「じゃあ、もういいよ」

先ほどの泣きそうな顔を引っ込め、今度はむすっとした。不機嫌な顔つきのまま、店の中をぐるりと見回す。本棚に絵本がぎっしり並んでいるから目をつけるかと思っていたのに、男の子は一瞬目を見開くだけだった。
いよいよ困惑し、ミエはどうしようもなくなって黄昏さんを見上げた。

「とりあえず座りなよ、小さいお客さん」
「僕、お客さんじゃないけど」
「じゃあ帰る?」

そう言って、黄昏さんは無情にも男の子の背後の扉を押し開いた。途端に熱気が店の中に入り込んでくる。この炎天下の中、子どもを外に放り出すなんて。とは思うが、黄昏さんも男の子が躊躇うのをわかっていてそういう行動をしているのだろう。案の定、背中に感じる夏の日差しに男の子は躊躇った。

「……お金、ないけど」
「迷子に払わせるほど意地悪じゃないよ」

男の子はたどたどしい足取りで席に着いた。カウンターの中に戻って、ミエは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。
隣に並んだ黄昏さんが、こそっとミエに耳打ちをした。

「イダテンに頼んで親を探してもらうしかなさそうだね」
「ご両親がここを知らないとお迎えに来ませんよね」
「たぶんね。ちょっと言ってくる」

奥の扉に向かった。中で何か会話をしている声が聞こえ、ややあってドアが開く音がした。確か住宅部分にも外につながる扉があった。そこから行ってくれたのだろう。
ミエは正面に向き直り、オレンジジュースを飲んでいる男の子に安心するように微笑みかけた。