店先に植えたハーブのすっきりとした香りが心地よい。ミントは先日黄昏さんが刈り取ってしまったが、ミエの要望でローズマリーやレモングラスが仲間入りした。
もとから植わっている花も美しい。大きな顔の背の高いヒマワリをはじめ、足元にぽとぽとと目の覚めるような鮮やかなピンクや黄色のペチュニアが。そこに隠れるようにして咲いている藍色のツユクサがまた、かわいらしい。
庭一面が色彩豊かで、風に揺れるたびにミエは心が落ち着く。

「おはようございます」

お店の扉を開くと、本を読んでいた黄昏さんの顔が持ち上がった。

「おはよう、ミエさん」
「おはよう、ミエ。荷物を」

それからイダテンが腰のあたりで顔を見上げるようにして挨拶をする。彼は手を伸ばし、ミエの荷物を両手で受け取った。

「まるで召使いじゃん」

腰に手を当てた黄昏さんは呆れ半分だ。けれど意に介さず、イダテンは「ふん」と鼻を鳴らした。

「ミエの大事なものだ。適当にその辺に置いて失せたらどうする。俺が預かっておく方がずっと安全だろう」
「もし今日なくなったとしたら、真っ先に疑われるのはお前だろうね」
「命を懸けて守るのだから、万一にもそんなことあり得ん」

睨み合いの攻防に発展しかけそうになるのを、ミエが間に入って止める。

「そんなに大事なものが入っているわけじゃないから、大丈夫です」
「だってよ、召使いさん」

渋々イダテンが荷物をカウンター脇の椅子に置く。表情には、自分が持っているのが一番なのに、と丸々書いてあるが、ミエは気づかないふりをした。
エプロンをつけ終えたミエに、黄昏さんは手紙を小さな包みを手渡した。

「何ですか、これ?」
「この前の妖精から」

手紙を開くと、きれいな藍色の細い文字で丁寧に感謝の言葉がつづられていた。簡潔だけれど喜びの詰まった、思わず少女の喜びがペン先から溢れ出しそうな言葉の連なり。

「なんて?」

黄昏さんが横から顔を近づける。その距離にちょっとびっくりして、ミエは手紙で顔の半分を隠してしまう。気がつかない黄昏さんの目元は、まだその手紙に注がれたまま。うっかり早まった鼓動を落ち着かせなければ。こん、とわざとらしく咳をした。

「“アップルパイをお母さんと一緒に食べました。お母さん、泣いて喜んで一人で一気に三切れも食べてしまい、びっくりしました。それほど心配かけていたのだと思うと、申し訳ないです。もちろん、パイがおいしかったというのが一番の理由ですが。おかげで取り替えっ子にならずにすみました、ありがとう。”」
「おお、よかったよかった。アップルパイも喜んでくれたようで」

黄昏さんは微笑む。言葉で言い尽くされるより、そうして笑顔一つを向けられることが何よりもミエにとっては嬉しい。
ミエは続きを読もうと、目を落とした。が、そこに書かれていることは声に出してはいけないと知り、慌てて口を閉じる。きょとんとした黄昏さんと、イダテンの目。ミエは首を振った。

「その、秘密にしてほしいって」
「秘密?」

首を傾げた黄昏さんだが、深くは追及せず「わかった」と言うと、あっさり引き下がった。ややしぶとかったのがイダテンだが、年ごろ少女からの手紙だからどうしてもだめだとミエが言い募ると、ようやく折れてくれた。
一旦ミエは店先に出て、ハーブの周辺に腰を下ろす。それから手紙と、包みを開いた。

“お礼といってはなんですが、『魔法の粉』を差し上げます。私を信じてくれれば、それは効力を発揮します。必ずつなぎとめてくれる人が傍にいないうちは使ってはいけません。でも、あなたにはもういるようですね。あの人は私には少し怖いお兄さんに感じられましたが、あなたにとってはきっとそうでもないのでしょう。だから使っても大丈夫。私を信じてね。”

名前が最後に記されて、手紙は終わっていた。
ミエは嘘をついてごまかしてしまった。最後の部分が、どうしても一緒には読めないと感じたから。何でもない一文だと思えばいいのだが、意識してしまうとなおさら自分だけに留めておきたくなる。

―――それにしても、お兄さん、かあ。

この際『怖い』という一言は見なかったことにして、というか弱り切った少女に割と辛辣な言葉を吐いていたのだから仕方ないとして。『お兄さん』とは。ミエはもうどちらなのかはっきりわからないまま、一緒にいるうちに慣れてしまっていた。けれどマスターは女の子と思い、少女はお兄さんと。イダテンに訊ねれば、別の回答が待っているのかもしれない。
傍にいるのに触れられないもどかしさというのは、ある。それは触って確かめたいとか下心ゆえではない。いつも笑顔で自分に対して優しい。その優しさが、一種の線引きのような気がしてならない。これ以上踏み込ませないように。
心に触れたいというと、大それたことの気がしてくる。だからせめて、手で触れて存在を感じてみたい。

―――でも。

これが特別な感情の芽生えなら、やはりはっきりさせるべきじゃないだろうか。無為に枯れさせる前に。あるいは、自分が傷つく前に。
考えているうちに収拾がつかなくなりそうなので、ミエは首を振った。今さらどっちなんて訊けないし、訊いたところで返ってこないだろうし。そもそも人なのかどうかも怪しいし。
ミエは包みを取り出した。

海辺の砂を小瓶に詰めて販売しているのを見たことがあるが、あれとよく似ている。中身は砂よりも細かく、きらきらと輝いて眩しい。星の輝きを砕いて詰めたのだろうか。空にかざしてくるくると回しながら眺める。光の当たり具合で瞬くその儚さ。

―――使うって、書いてあったよね。

ということは、何か料理に?それかお茶とか。
小瓶をじっと見つめてから、意を決してコルク栓を開けた。においを確認してすぐに閉めるつもり。けれどそれは叶わず、開けた途端にふわっと砂粒が舞い上がった。

「あっ!」

思いがけず大きな声を上げて、慌てて蓋を閉める。中身は半分ほど残った状態だったが、ひとまず全滅は免れた。安堵の息を吐きつつ、ミエは消えたもう半分に思いを馳せる。
どこへ行ってしまったのか。無臭だったし、小瓶から出て言った瞬間に霧のように掻き消えてしまったのだから、もうわからない。知らず知らずのうちに吸い込んでしまったのかとも考えたが、それにしたって無味だったのが味気ない。

―――何だったんだろ。

そう思いながら立ち上がる。普通に腰を浮かせただけ。そのつもりだったのだが。

「わあっ!」

今度は悲鳴に近い驚きの声を上げてしまった。無理もない。ミエの足は大地から離れ、宙に浮いていたのだから。

「えええっ、だ、誰かーっ!助けてーっ!」

両手を右往左往に振り回し、どこかに掴まろうと必死にもがく。が、何もない。あっても草くらいだから、全然当てにならない。これはちょっと、というかかなりマズい。

そういえば、手紙で『つなぎとめてくれる人が傍にいないとだめ』だと書いてあった。まさか物理だとは。

ミエの叫びに気がついたのか、店から黄昏さんとイダテンが飛び出してきた。二人の丸く驚いた目が頭上近くまで舞い上がったミエに注がれている。

「ミエさん!」
「『妖精の粉』だ!あの娘、お礼にそんなものをミエにくれたのか。それにしてもどんどん高くなるぞ!ミエ、一体いくら振りかけたんだ?」
「わ、わかりません!というか、『妖精の粉』⁉」
「妖精を信じる心を持てば効力を発揮する、魔法の粉のことだ。普通は子どもにしか効果がないのだが、ミエは実際に会っているからだろうな」
「解説はいいから、引っ張って!」

今時点でミエの体は二メートル程度。このままではもっと高く飛びそう。体が地面と平行になっているから高く感じるが、水の中にいるようにコントロールがうまくいかない。飛ぶというより、不格好に浮いている状態に近い。
みっともないと自覚しつつも、ミエは両腕を犬かきのようにばたばたさせてこれ以上地面から離れないようにもがいた。
その手が宙を掻いた時、はしっと手首を掴まれた。と思う間に強く引き寄せられ、叫ぶ暇を与えずに気づくとミエは膝を地面に擦りつけていた。
肩を強く掴まれている。押さえつけるような重みのある腕だが、案じるように優しく引き寄せられていた。

―――あれ、もしかして……。

倒れかけた体が妙に熱い。驚きと緊張で早まる鼓動が、自分のもの以外にもう一つ身近に感じられた。

「……ミエさん」

耳の傍で名前とともに息が漏れた。はっとして体を離そうとする。風船が浮力に逆らえずに飛び上がろうとするように、自分の体が言うことを聞かなくなるのを感じた。

「だめだよ、今離れるとまた浮くよ」

慌ててミエは黄昏さんの体にしがみつき直す。今度は背中まで手を回してくれた。おかげでさらに体が密着する。浮かないためを思えば安心すること間違いなしだが、それ以上に恥ずかしさが上回る。顔を上げられず、ミエは黄昏さんの腕越しにあらぬ方向を見るしかできない。

「いつまで……」
「効力が切れるまでこうしてないと……」

いつものように穏やかな声だったが、控えめながら戸惑いが感じられる。うっかり触れ合って気まずくなる時のあの、相手に悟られたくない羞恥のような。
体を預けた相手の、というか黄昏さんの鼓動が自分と重なる。思いがけず宙を飛んだミエの驚嘆と遅れてきた恐怖と、引き寄せられてほっとした安堵の心拍数。向こうも同じだろうか、わからない。ミエは自分の鼓動の中に、触れた喜びと恥じらいが混じっているのを自覚していた。

妖精の言う言葉の意味がわからないほど、自分は鈍感ではない。
自分は嬉しかったのだ。こうして、妖精の言葉通り黄昏さんがつなぎとめてくれて。だから。

―――同じ気持ちだと、嬉しいんだけど……。

少なくとも、心臓の高まりは同じに感じる。ただ人が宙に浮いていることに驚きを覚えた鼓動なだけかもしれないが。いや、そういう悪い方向に考えてはいけない。

今、どんな顔をしているんだろう。
背中に回っている腕の力が少し緩んだ。時間が経ったからだろうか。意外と短いんだな、と残念がる自分にまた恥ずかしさを覚えつつ、ミエはとりあえずお礼を言おうと顔を上げた。
目が合う。その目の中に、これまでとは違う感情が感じ取れる。笑みはなかったが、強張っているためではない。見下ろす瞳にはもう躊躇いも恥じらいも感じられなかった。言うなれば、呆気にとられたような顔。まるで遠い昔に失せたものが思いがけない拍子に見つかった時の、感情が高ぶる手前の凪に似ている。
なんだろう、いつもの飄々とした雰囲気とは違う。内側に眠っていた何らかの揺らぎのような、淡いものを。

「……た、黄昏さん」

向こうも口を開く。ミエの名を呼ぼうと。が、それは間に急に現れたイダテンによって阻まれた。顔をミエの方、お尻を黄昏さんのほうに向けて。

「ミエ、大丈夫か?」
「あ、うん。大丈夫」
「ちょっと、邪魔なんだけど」

低い不機嫌な調子で黄昏さんはイダテンを押しのけた。再びミエの前に現れた表情に、先ほどの形容しがたいものは残っていない。
黄昏さんはゆっくりと用心しながら、ミエから手を離した。また浮くかと思ったが浮かずに留まり、二人はほっと息を吐く。先に立ち上がった黄昏さんは、ミエに手を伸ばす。

「ごめんね、急に引っ張っちゃって」

ミエはその手を取って立ち上がった。

「私も何も考えずに『妖精の粉』の蓋を開けてしまったから。重かったですよね、寄りかかってしまってすみません」

謝り頭を下げようとするミエを、イダテンが遮った。

「いや、ミエは重くないぞ。重かったら浮くもんか」
「足元ちょろちょろしてるしかできなかったくせに、何言ってるんだか」

黄昏さんがため息を吐く。

「でもこいつの言う通りだよ。気にしないで」
「あ、はい……」
「じゃあ、僕は先に中に戻ってるから」

足早に、黄昏さんは店に戻っていった。ミエとイダテンはそこに取り残されたまま、扉の内側に消えた黄昏さんを目で追う。

「それにしても、『妖精の粉』で飛んだのを見るのは久しぶりだな」

感心したようにイダテンは短い腕を組んだ。

「『妖精の粉』を欲しがるやつは大勢いるが、大人は冗談半分で使うから効果はないし、子どもは最近は飛ぶよりもほしいものを願うことが多いからなあ」
「どういうこと?『妖精の粉』って、飛ぶための道具じゃないの?」

だって、ピーター・パンはそうだったし。ウェンディたちはティンカーベルが放つ輝きを頭から浴びて飛んでいた。ミエの疑問に、イダテンは愉快そうに手を叩いた。

「おとぎ話の上ではそうだろうが、実際は違う。自分の願望を叶えることができるんだ。といっても、無謀なものは叶えられんがな。ミエは飛びたいと願ったのか?」

その問いに、ミエは素直に首を傾げる。

「では深層心理で、妖精から貰った粉は空を飛ぶものだと思い込んでいたんだろうな。だから飛べたんじゃないか?」
「そういうものかな……」
「ほかに何か願いがあれば、飛ぶことは目的ではなく手段になるが。あるのか?」
「……わからない」
「次回使う時は、願い事を切に思ってから使うほうがいいぞ。『妖精の粉』は滅多に手に入らないのだから。だが一度味を占めると、歯止めが利かなくなるからご用心」

ミエは頷いた。けれど、心の中ではイダテンの質問への答えがわかっていた。
つなぎとめてくれる人とは、物理的な意味合いではなく自制の効かなくなった己を引き止めてくれる人のこと。おそらく妖精はその意味合いでミエに忠告したのだろう。それをミエが勘違いしただけだ。自分が、触れたいからと。

そう、飛ぶことはただの手段だった。目的は別にあった。そしてそれは成就した。
けれどミエの気持ちは喜びよりも、後からやって来た決まりの悪さから後悔へと変貌した。

―――引かれたんだ、きっと。急に近づきすぎたから……。

そうでなければ、あんなに足早に店に戻るだろうか。
また顔を合わせた時、ちゃんと目を合わせてくれるだろうか。最後に自分を見た時。いつもと違う表情だった。
まるで友だちだと思っていた人から不意に好意を感じた時に見せる顔。
一番しっくりくる例えだと思う。相手からすれば、それは裏切りに近い。嫌われるよりも、ある意味いたたまれない。
そして一人、ずしりと気持ちが沈んだ。ミエにはもう、黄昏さんがどちらの性別であっても自分の感情を認めざるをなくなっていた。それほどに心が鈍く痛み続けていたから。



*出てくる本
『ピーター・パンとウェンディ』作:ジェームス・バリー
『秘密の花園』作:フランシス・ホジソン・バーネット