「……わかりました」
「ミエさん」

気遣わしげに黄昏さんが呼ぶ。その声に答えるようにミエは小さく微笑んだ。

「しばらく何も食べていない状態だったでしょ?いきなり固定物は無理だと思う。そうね、ゼリーとかどう?」
「……嫌」
「どうして?」
「食べようとしたことある。けど、だめだったの」

はあ、と少女のため息が漏れる。

プリンやアイスクリームなど軽い口当たりのものを全て試したが、口に運ぶ直前で躊躇いが生まれてしまい断念したという。おそらくお菓子だからだろう。太りやすいイメージと直結して、心が拒否してしまうのかも。
どうしたものか、と悩む。

「やっぱりないのよね」

諦めたような乾いた笑い声とともに、少女は寂しげに俯いた。

「もう、食べたって嘘ついちゃおうかしら」
「ばれてしまうよ」

優しく慰めるような声色で、黄昏さんは首を振る。

「どうせママとはお別れなんだもの。いっそ喧嘩して別れた方が清々するかも。ママだって、新しい子があたしよりもいい子なら嬉しいでしょ」
「そんなことないよ。お母さんはあなたのために、わざとそう言っているんだよ、きっと」
「優しいのね、人間のくせに」

ミエに向かってちょっと口角を持ち上げる。もっと頬が丸ければ、もっと幸せそうに笑える子なのに。今は顔色が悪くて、愛想もあまりないけれど。

「顔色が悪くて、愛想がない女の子……」

ぽつりと呟く。どこかで覚えがある。前に会ったことがある?違う。では見たことが?ちょっと違う。何だろう。ミエは頭の中にある輪郭のない印象をなぞり、形を思い出そうとする。

「あっ」

そう言ったのは、ミエと黄昏さん。ほとんど同時だった。二人は顔を合わせる。お互いの中にある印象を目で確かめ合うと、本棚からそれを探った。

「何?何なの?」

少女は訝しげに様子を窺う。なんだかわからないが、大人しくイダテンは黙って二人を見守っていた。
その本は『ピーター・パンとウェンディ』の並びに納まっていた。

『秘密の花園』。バーネットの児童文学だ。

両親に先立たれたメアリーは、顔も知らない親戚のおじさんに引き取られ田舎のイギリスに移り住むことに。今まで何不自由なく過ごし、わがままに育ったメアリーは、見知らぬ屋敷で思い通りにいかない生活をするはめに。顔色も悪く愛想のよくない彼女を楽しませたのは、屋敷に眠る秘密の庭園だった。メアリーはその庭園を花園に造り替えていくうちに、だんだんと少女らしい朗らかさを手に入れていく。

ざっくりしたあらすじはこんな感じだ。今の妖精の少女は、置かれている立場は異なるがメアリーのようにままならない自分を持て余している状態。

「ミエさんが苦労して運んできた甲斐があったね」

黄昏さんは楽しげに笑った。

「こんなに早くお役にたてるなんて、光栄です」

わざとらしく胸を張るミエ。『秘密の花園』を手にカウンターに戻る。

「何?」

不思議そうに首を傾げる少女に、ミエはそのページを見せた。ちょっと前かがみになって覗き込み、少女の目が文字をなぞる。イダテンも額を寄せた。

「乳がゆか!」
「断食明けの僧侶か。ライスプディングって言え」

黄昏さんはイダテンの額をもすっと指で押しのける。

「ライスプディング?って、何?」
「簡単に言うと、甘いおかゆかなあ」
「甘いの?おかゆが?」

うえっと少女の顔が苦くなる。それもそうだ。言葉だけだと相性が悪そうに思えるだろうから。

「お米と牛乳にはちみつを加えて煮詰めるの。ほら、お米って噛み続けると甘く感じられるじゃない?意外とおいしいんだよ」
「……あんまり、おいしそうじゃない」
「作ってみるから、食べてみて」

少女はまだ文句を言いたげだったが、渋々頷いた。
米と牛乳を先に火にかけ、沸騰しないよう煮る。とろっとしだしたのを確認してから、はちみつとバニラエッセンスを一滴、お好みでシナモンパウダーなどスパイスを入れて再び煮詰める。プディングというのだから、最後はオーブンに入れて表面がこんがりするまで焼いて出来上がり。
四つのカップを並べて、その上にレーズンを乗せた。

「どうぞ、召し上がれ」

そう言って、ミエは一つ、少女の前に置く。
口を閉じたまま少女は躊躇う表情を隠さずにそれを見下ろす。
食べられるだろうか。また口に運ぶ前に拒否してしまうかも。もしそんなことしたら、自分をますます嫌いになってしまう。
そんな少女の心がありありと読める。

急かしてはいけない。彼女が食べようという気持ちになるまで、ミエはじっと待った。少女はスプーンを手にする。道に迷ったように上げたり下げたりふらふらと頼りない動きを見せたあと、スプーンの丸い先端でプディングの硬い表面をつついた。硬い膜に少女は少し顔をほころばせる。やや力を込めると、ぱりっと軽い音が鳴って砕けた。
スプーンの先にちょっぴりプディングを乗せる。乳白色のとろっと柔らかくなめらかそう。
ごくり、と息をのんだのがわかる。
震える手で、少女が少し口を開いた。緊張がミエや黄昏さんにも伝わり、思わず固唾をのんで見守ってしまう。見られていると食べづらいんじゃないか、などという計らいを考えてやれる余裕はなかった。
スプーンの先端に口をつける。味を確認するように舌ですり潰すように噛んで、ごくりと喉が動いた。少女の表情が硬く強張ったまま。

「……どうかな」

おそるおそる、ミエは訊ねる。少女の瞳が持ち上がって、ミエを捉えた。
琥珀の瞳が揺れている。そしてぼろっと涙が零れた。流れる間に少女の怒ったような顔は一変して崩れた。

「大丈夫?口に合わなかった?ええと、何か拭くもの……」
「ああ、ティッシュあるよ、ほら」

黄昏さんが箱ごと少女の前に置く。少女は一枚抜き取り、思い切り鼻をかんだ。

「ち、違うの……」
「え?」

少女の目が持ち上がる。同時にまた一筋涙が流れ落ち、頬を伝う。手の甲で拭って、一緒に鼻のあたりも擦ってから、少女は嗚咽交じりに息を吐いた。

「これ、とってもおいしい……」

表面の割れたプディングに目を落とす。もう一度スプーンで一口分、さっきより多くすくい上げた。

「あたし、食べられたのね」

口に運び、今度はより深く味わってから飲み込む。すくっては食べ、すくっては食べ。
そうしているうちに、とうとう器は空になった。
少女はほっと息を吐いて、鼻をずびっとすすった。つられてミエも安堵の息を吐く。

「吐き気とか、大丈夫?」

少女は頷いた。

「甘くてお菓子みたいだけど、どこか違って不思議な味ね、これ。安心する味っていうか」
「体がびっくりしないように、あんまり濃い味つけにはしなかったの」
「ありがとう」

少女は恥じらいを隠してはにかむ。唇の色はもう灰色ではなくなっている。児童文学でよく表現されるような、バラ色の唇に染まっていた。顔を少し落とし、机の上で組んだ指先をもじもじと弄んでいる。

「それから、ごめんなさい。失礼なことばっかり言って」

ミエはそんなことない、と顔の前で手を振った。

「馬鹿みたい、あたし。太るからって怖がって、食べ物全部をまるで敵みたいに拒否してた。食べるのが悪いことだと思って、食べたいっていう自分の気持ちを無視してたの。このままだったらきっと、おいしいものをおいしいって感じられなくなってたはず」

ほんの少し自虐的な笑みを浮かべる。けれど憂鬱さの抜けたからっとした表情。

「よかったねえ、これで取り替えられずに済むね」

黄昏さんはのんきに言った。恐ろしいことと背中合わせだったというのに、やはり母親の愛情ゆえの脅しだと気づいていたのだろうか。
取り替えられる、という言葉に少女の顔が引きつる。

「ママは信じてくれるかしら、あたしがちゃんと食べられるってことを」
「一緒に何か食べられれば信じてくれるんじゃない?」
「一緒に食べる?」
「好きな食べ物とかないの?それか、小さいころよく作ってもらっていたものとか」

黄昏さんの言葉に、少女は黙って考え込む。あっと思い出して表情を明るくさせた。

「アップルパイ!」

小さいころ、ママにせがんで作ってもらっていた。マフィンやシフォンケーキのようなふんわりしたお菓子もいいけれど、どっしりと実の詰まったパイが無性に恋しくなる。とろとろに煮詰まった多めのフィリング。甘くてシナモンが利いていて、じんわり体が暖かくなる。きっと少量の生姜が入っていたのかも。

「食べることは生きるためにとっても大切だし、生きることは思い出を作ることだよ。君にも思い出があるだろう」

黄昏さんの言葉に、少女はうっとりしたように思い出を語った。

「あたし、子どものころちょっと太ってたの。でも全然気にしなかったわ。だってあたしが食べていると、ママが幸せそうに笑うんだもの。ママが笑うと、あたしも嬉しい。ママは世界で一番きれいな妖精なの。でも最近は全然ママも笑ってくれなくて悲しかったけれど、あたしに原因があったのね」

いつからだろうか、食べることを恐れて見た目ばかり気にしだしたのは。食事をまるで悪いことのように拒否しだしたのは。
少女の頬に滲む微笑に、ミエはますますやる気になった。

「アップルパイかあ」
「ミエさん、本当にタイミングいいね。昨日のまだ残ってるよね?」

ミエはこくりと頷いた。

「しかもちょうど、アップルパイかパウンドケーキにしようかと思ってたの」
「なんということだ。ミエは天才に違いないな」
「あー、うるさいうるさい」

ひょこっと首を出したイダテンの頭を抑えつけるようにして、黄昏さんがあしらう。褒められて悪い気はしないがイダテンの褒め方には苦笑を零すしかない。
それからミエは少女に向かって、今度はにっこりと微笑んだ。

「作ろうか、アップルパイ」

ぱっと花が咲いたように、妖精は表情いっぱいに喜びを表した。花よりも美しく健やかな笑顔だった。