慌ただしく夏帆の荷物を車に押し込んでいると、陽葵も一緒に見送りに行きたいと言うので三人で駅へ向かった。

 乗車予定の電車が来るまであと八分。私は改札の前で改めて夏帆に礼を述べた。

「ほんっと助かった、ありがと。店が無事にオープンしたらまた連絡する」

「オープンしたらじゃなくて、なんでもないときにも連絡ちょうだいよ? 飲み友達が一人減って寂しい思いをしてるんだからさ」

 夏帆は白い歯を見せて私の背中を叩いた。夏帆のこういうさっぱりとした優しさを、私は昔からとても好ましく思っている。

「店が軌道に乗ったら、売上金で酒を奢るよ。期待して待ってて」

 忙しい中わざわざ笹森まで来てくれた夏帆の恩に報いたいという想いは、私の新たな活力となった。

「せっかく仲良くなれたのに寂しいよおー! 夏帆もこっちに引っ越してくればいいのに!」

 たった一日の付き合いなのに陽葵はとても寂しがり、夏帆から離れようとしなかった。前から思っていたけれど、陽葵は人との距離の詰め方が急すぎる気がする。

「また近いうちに遊びに来るって! それじゃそろそろ行くね! 二人とも元気で!」

 名残惜しそうな陽葵の手をあっさりと引き剥がした夏帆は、手を振りながら颯爽と改札口に吸い込まれていった。

「……じゃ、私らも帰るか」

 夏帆の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、私と陽葵は駐車場まで歩き出した。

 思えば、陽葵と二人で肩を並べて歩くなんて初めてだ。私は歩くのが速いと自覚しているが、陽葵は異様に遅い気がする。だが陽葵に歩幅を合わせるのもなんだか癪で、私はいつものペースを変えることなく歩いていた。

「……曜ちゃんってさ、凄いよね」

 足を止めて振り向くと、陽葵は穏やかな笑みを顔に貼りつけながら言った。

「やりたいことを見つけて、掲げた目標に向かって直進していくんだもん。わたしなんか無職だし、なんの資格も持ってないし、人生でやりたいことがなんにもない。どうやったら夢って持てるの? どうやったら頑張れるの?」

 陽葵が零した言葉は私への称賛や羨望というよりも、嫉妬のようだった。

 目標を見つけられずに焦る気持ちは理解できる。だけど、現状に不満を持ちながらも努力をしない気持ちは私にはわからなかった。

 私に嫉妬するくらいなら、そのエネルギーを就活や資格取得のために使うとか、自分に有意義になることに充てればいいのにとしか思えない。

「陽葵に自分を変える行動力が伴わないのは、自信がないから?」

 だから、私は彼女の顔から笑みを消してしまった。

 数秒――真顔で見つめ合ってから、陽葵はまたへらっとした笑顔を作って小首を傾げた。

「……えー、曜ちゃん、なんでわかったの? わたし、そんなにわかりやすいかなあ?」

「無理に笑う必要なんてないでしょ。まあ、いろいろ言いたいことはあるけど、先にこれだけは言わせてもらう。さっき、私『なんか』って言ったよね? 『なんか』と『どうせ』は、私の前ではNGワードだから。次に使ったらデコピンするよ」

 過去に廣瀬に対して何度も口にした訓戒を、陽葵にも言うことになるとは思わなかった。

 一見適当に生きているように見える陽葵と神経質な廣瀬は正反対に見えるが、仮制作したホームページについて意見を求めたときに発言しなかったことからも推測できるように、どうやら陽葵もまた自己評価の低い人間らしい。

「……曜ちゃんは格好いいなあ。わたしはねー、男がいないと生きていけないもん。精神的な意味でも、経済的な意味でも」

 私の自分勝手なルールになんの反論もしなかった陽葵は、雑踏に紛れ込ませるかのように小さな声で呟いた。

「だからね、わたしはすぐに男に付け込まれるの。常にわたしの承認欲求を満たしてくれる誰かを欲しているのが、男からもわかるんだろうね。余裕かました男たちが下心丸出しで寄ってくるの。ずっとそんな感じで生きてきたんだ、わたし」

 陽葵はどこか寂しそうに空を見上げた。

「わたしに中身がないからなのかなあ……ろくでもない男ばっかり引き寄せちゃうんだよね。すぐに手を上げてくるDV男とか、奥さんがいるのに体を求めてくる不倫男とか、わたしのやることなすこと全部否定してくるモラハラ男とか。……わたしも優しくされるとすぐ好きになっちゃうし、どうしようもないんだけど。あ、もちろん太ちゃんは違うよ?」

 私が今抱いているこの気持ちに、名前をつけることは難しい。

「わたしって、今はまだ若いし可愛いじゃん? だから男からチヤホヤされているけど……このまま歳を取っていったら、本当に中身が空っぽなおばちゃんになっちゃう。わたしだって、曜ちゃんみたいに何か目標を持って頑張りたい。男に頼らない生き方をしてみたい。でも、できない。どうすれば頑張れるのかわかんないんだもん」

 端から「わたしにはできない」と甘ったれたことを口にする陽葵にデコピンしたくなったものの、たとえ行動に移せていなくとも「頑張りたい」と思っている陽葵のことを少しだけ応援したい気持ちもまた、心の中で芽生えていた。

「陽葵が私に夕食を作ってくれる理由がわかった。……人に、認めてもらいたいんだ?」

「うん。わたし、料理が好きなの。何もないわたしでも、誰かの役に立っているって実感できるから。……まあ、料理なんて誰にでもできることだと思うんだけどね」

「陽葵が『誰にでもできる』って言い切った料理だけど、私は全然できないから。自信持っていいところでしょ」

 人の生き方は十人十色だ。男に頼らなければ生きていけない人生を悪いとは断言できないし、夢を持って仕事をする女が偉いと言い切れるはずもない。

 だけど陽葵は改革を望んでいる。ならば私はどうする? 自称じいちゃんの恋人であり、私の仮の同居人に何を言ってやればいい?
友達でもない、限りなく他人に近い女に何をしてやればいい?

「……っていうか……自己評価は低いくせに、よくなんの躊躇いもなく自分のことを可愛いって言えるね」

「だって、それだけはどう考えても事実だし。曜ちゃんもそう思うでしょ?」

 面と向かって肯定をするのが嫌で目を逸らした。陽葵はなんだかんだ言いつつも、自己分析はしっかりできているらしい。

「……陽葵って、そこまで馬鹿じゃないのかもね」

「やった、曜ちゃんに褒められちゃった! なになに? わたしのこと好きになった?」

「前から言おうと思ってたんだけど、そうやって誰にでもすぐにベタベタして好意をぶつけるのはやめな。いつか刺されるよ」

「誰にでもなんてしてないよ? 曜ちゃんにしかやらないもーん」

 そう言って顔を覗き込んでくる陽葵の頬を掴んで、ひょっとこ口にさせてやった。陽葵は笑いながら「やめてよぉー」と言いながら私から離れて、まだ笑みの残る顔を向けた。

「わたしはだらしない女だけど、曜ちゃんのことは本当に素敵だなって思ってるよ。だからわたしは曜ちゃんに憧れるし、羨ましいと思うし、嫉妬もする。ね? 面倒臭いでしょ?」

 ゆっくりと歩き出した陽葵を今度は私が追いかける形になった。陽葵の身長はそれほど高くないが、小顔で手足が長くスタイルがいい。

 だけどいくら外見のことを褒められても、それ以外の要素で自分に自信が持てない陽葵は男にちやほやされる高揚感以上の何かを得られない限り、同じことを繰り返すのだろう。

「だったら、私と一緒にいればいいじゃん」

 それは自分でも驚くほど自然に出てきた提案だった。足を止めて振り返った陽葵は、きょとんとした顔で私を見ていた。

「……いや、別に陽葵を養うってわけじゃないよ? 陽葵がやりたいことを見つけるための手助けをするだけ。まあ具体的には、その……同居? ルームシェア? よくわかんないけど……正式に一緒に暮らそうって、言ってる」

 笑っているくせにどこか寂しそうな陽葵を放っておけなかった。なんとかしてあげたいと思ってしまったのだ。

 予想していた反応とは違って鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする陽葵を見ていたら、最初は意識していなかったのに段々と恥ずかしくなってきた。

「いや、だからさ……ば、馬鹿みたいな劣等感抱いて、いじけている暇があったら行動しようよ。私はこれまで通り夢に向かって一生懸命行動するから、私への嫉妬をバネにしてもいいし、真似したいと思うのでもなんだっていい。陽葵が行動を起こすために私を利用して、頑張ってみなって」

 偉そうなことを言ってはいるが、私だって自分が大層な人間だとは微塵も思っていない。だけど、自分の夢に向かって頑張っているという自負はある。

 私の頑張りが誰かに影響を与えることができるなら、それは私にとって最高の誉れであり、手を差し伸べる十分すぎる理由になると思った。

「そ、それに……陽葵が作ってくれるごはんは、かなり美味しい。だからこの提案は私のためでもあって、優しさなんかじゃないわけで。無理強いはしないし、遠慮も感謝もいらない。どうする?」

 ここまで何も言わずに話を聞いていた陽葵は、嬉しそうに目を細めた。

「……やっぱり太ちゃんと曜ちゃんって、血が繋がってるんだね」

「? 当たり前じゃん。急になに?」

「ううん、なんでもなーい。顔だけじゃなくて、中身も似ているなって思っただけ!」

 陽葵には彼氏としての顔を見せるじいちゃんは、私に祖父として接するじいちゃんとは少し違うのだろう。それでも似ていると言われたことは、じいちゃん子の私にとって不快になる要素は一つもなかった。

「……ふふ、それにしても、『私と一緒にいればいいじゃん』だなんて、曜ちゃんってばイケメンだね?」

 私の羞恥心はここで限界点を突破した。

「ぐ……からかうなっつーの!」

「別にからかってないよ? 抱かれたいって思っただけー!」

 そう言って駆け寄ってきた陽葵は、人目も憚らずに私の腕に絡みついてきた。

「だからあ! そういうのやめろって言ったよね!? 離れて! 誤解されるでしょうが!」

 人の往来の多い駅へと続く道中で蛇のように離れない陽葵を剥がそうとしながら、これから正式に始まる同居生活に早くも胃が痛くなってきた。

 ――ねえ、じいちゃん。私のやっていることは間違いじゃないよね?

 空を見上げて胸中で問いかけてみると、笑ってサムズアップするじいちゃんの姿がはっきりと見えた気がした。