ファーストフード店で一杯百円のコーヒーを啜りながら、手元のプリントに大きく「×」と書き込んだ。
今日内見した物件の三つ目、梅山のテナントビルは人通りの多さや広さは申し分なかったのだが、大幅に予算オーバーしてしまう。
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。靴の魅力を十分に伝えられるように靴作りの勉強はしてきたけれど、個人店の開業準備についての知識や経験は私には全くない。無事に開店までこぎ着けられるのか不安に苛まれるがもう後には引けないし、引く気もない。足りない面は根性と行動力でカバーしてやるととうに覚悟は決めている。
このまま別の不動産会社に足を運ぼうと決めて顔を上げた瞬間、見ないようにしていた『ハルキィ』という名前のパチンコ屋が視界に入ってしまい思わず顔を顰めた。
私はパチンコはやらないし、この店で大損をしたとか恨みがあるわけでもない。本当に自分勝手な理由なのだが、ただその店名が気に入らなかっただけだ。
じいちゃんの彼女を名乗る女――桜井陽葵と初めて会った夜が思い出された。
◆
常に動きやすさ最優先のパンツスタイル。一年中変化のない黒髪ボブ。女らしさと女子力は似て異なるものだが、その両方を心身から排除した女がこの私、夏目曜だ。
そんな私とは対照的に、桜井陽葵は容姿だけでも女らしい魅力に溢れていた。
長い睫毛に守られた平行型二重の大きな瞳に、完璧なバランス比で構成された美しい鼻。並びのいい白い歯に、艶のある唇。茶色い長髪をかける耳朶の形までもが完璧に創られていて、私は生まれて初めて同性に見惚れそうになった。
正反対の雰囲気を持つ私たちは、じいちゃん家のテーブルを挟んで向かい合った。見惚れていた己を反省し、主導権を握られまいと警戒心を全開にした私は、相手の一挙手一投足を観察しようと心がけた。
「状況を整理するためにも、まずは互いにちゃんとした自己紹介をしましょう。私は夏目曜といいます。岸谷太志のたった一人の孫です。思い入れのあるじいちゃんの家を売るのが嫌で、東京から越して来て相続しました。で、あなたの名前は?」
冷静に話そうとしても、口調はどうしても刺々しくなってしまう。それでも陽葵は微笑を崩さないまま、甘ったるい声を発した。
「わたしは『大島詩織』っていいます。さっきも言ったけれど、太ちゃん……ううん、あなたのおじいちゃんの彼女です!」
いくらじいちゃんがモテたとはいえ、こんな美人が靡くわけがないだろと思いながらも、あの遺産の額を考えると金に物を言わせて口説き落とした可能性もある。真っ向から否定できないのがもどかしい。
「大島さんですか。歳はいくつですか? じいちゃんの彼女とのことですが、じいちゃんとは一体どこで知り合ったんですか?」
「曜ちゃんと同じ二十四歳だよ。太ちゃんから聞いてたんだぁ、『陽葵と同い年の孫娘がいる』って……あ、大島詩織って源氏名だった。あはは、ごめんねいつもの癖で! 本名は桜井陽葵っていうの。太陽の陽に葵で、はるき。最近だとひまりって読み方が主流みたいなんだけど、わたしはハルキ」
陽葵と名乗った女は、持参していたエコバッグの中から缶ビールを取り出した。私の常識では考えられない行動に唖然としていると、
「わたしのことは陽葵って呼び捨てにしていいよ。わたしも曜ちゃんって呼ぶね! ねえ曜ちゃん、そんな尋問みたいな真似はやめて早くわたしたちの出会いに乾杯しようよ!」
「まだ話は終わってない! っていうか、こんな怪しい相手と酒が飲めるわけないし!」
出会って十分も経たないうちに、私は完全に陽葵のペースに呑まれていた。
陽葵の非常識な態度に説教を試みたものの暖簾に腕押し状態で、気がつけば缶ビールを握らされていた。
「……あなた、私と真面目に話をする気がないよね!?」
「あるよーあるある。源氏名って時点で察していると思うんだけど、わたしはキャバ嬢だったんだよねー。太ちゃんとはお店で出会ったの。紳士的で羽振りが良くて、最高のお客様だったなー」
缶ビールを片手に思い出を語る陽葵には、訝さしか感じなかった。
「……あんたがキャバ嬢だろうが、じいちゃんの彼女だろうが別にどうでもいい。ただ、じいちゃんがあんたにこの家を贈与する話をしていた証拠がないのが問題なんです。物的証拠がない限り、この家は正式な手続きをして相続した私のものになるので出て行ってください」
「ええー? 愛し合っていた二人に証拠を求めるとか、曜ちゃんって太ちゃんの孫娘とは思えないくらい堅いんだね?」
「胡散臭い見ず知らずの女に家を渡すわけがないでしょうが!」
陽葵がいちいち人の神経を逆撫でしてくるので、私の忍耐も限界を迎えようとしていた。
「でも困ったなあ。わたし、曜ちゃんに出ていけって言われたら行くところないんだよね。今日は漫画喫茶か、ビジホか……ううん、お金もないし公園で野宿でもしようかな」
「はあ!? ……まさかあなた、住んでいた家を引き払ってきたの?」
「そうだよー。キャバも辞めてきちゃったから、曜ちゃんに追い出されたら路頭に迷ってのたれ死んじゃうかもしれないよぉー」
わざとらしく泣き真似をする陽葵に苛々しながら頭を掻いた。たとえこの発言が嘘だったとしても、女に一人で野宿するなんて言われたら出ていけなんて言えるはずがない。
「後先考えられないタイプかよ……わかった。じゃあ今すぐにとは言わないから、一週間以内に住む家を見つけて出て行って。いい?」
私はつい悪癖である高圧的で乱暴な口調になってしまったのだが、陽葵は私の態度に言い返すことも怒りを見せることもなく、
「はあい。じゃあ、どの部屋なら使っていい? どこでもいいならわたし、縁側の隣の洋室がいいなー。あそこ、日当たりがいいし隙間風も少ないから好きなんだよね」
穏やかにそう口にしたのだった。冬を見越した発言にこいつは本当に家を探す気があるのかと不安になり、眩暈を起こした。
◆
あの腹黒なのか天然なのか全く読めない笑顔を思い出すと、心に波が立つ。
陽葵に心の中を掻き乱されているのが癪に障り、私は急いでコーヒーを喉の奥に流し込んで席を立った。私がやるべきは陽葵について考えることではなく、自分の店を納得のいく形でオープンさせることだ。そのためにはまず、店舗を構える場所を決めなければ。
ファーストフード店を出た私はパチンコ屋の前を足早に通り過ぎ、駅の方まで歩いた。
◇
くたくたに疲れて家路を辿ると、我が家に近づくにつれて腹の虫を刺激するいい匂いが漂ってきた。負けた気がしなくもないが、つい足早になって帰宅した。
本来一人暮らしになるはずだった私の家で、家族でも友人でも家事代行でもない人間が鼻歌を歌いながら料理をしているだなんて、一週間前の私には想像もできなかっただろう。
「あ、おかえり曜ちゃん。ちょうど炊き込みごはんができたところだよー。筍とか椎茸って食べられるかなあ?」
「……ただいま。私が苦手なのは梅干しとラッキョウ。魚より肉派で、麺より米派」
「おっけーわかった、覚えておくね。すぐ食べられるから着替えてきなよ」
私は素直に陽葵の指示に従って手洗いとうがいを済ませ、部屋着になってから居間の座布団に腰を下ろした。
陽葵を信用していないのも事実。陽葵の態度に腹が立つことも事実。陽葵を追い出したいのも事実。私はこの女が絶対的に好きではない。
しかし困ったことに、陽葵は「自炊なんかできなくたって、食事は男に奢ってもらえるからいいし」とでも言いそうな見た目に反して、本当に料理上手だった。
陽葵と同居を始めて一週間。今思えばこいつの作戦だったのかもしれないが、私が家に帰ると必ず温かい手料理が用意されていた。初めは警戒していた私だが、一口食べてみたときにはもう遅かった。胃袋を掴まれる男の気持ちを身をもって理解してしまった。
日中外にいるときは陽葵には早く出て行ってもらいたいと考えているのに、空腹で帰宅して美味しいごはんが用意されていると、どうにも陽葵に対しての態度が軟化してしまうのだ。
「さっ、食べよ! いただきまーす!」
「いただきます」
具沢山の味噌汁を啜ると、一日中歩き回って汗を掻いた体にちょうどいい塩分が染み渡っていった。ほかほかの炊き込みごはんは咀嚼した瞬間に口の中に旨味が広がって、何杯でもお代わりできてしまいそうだ。
ここ数日のメニューから推測すると、陽葵は洒落た料理よりも家庭料理が得意なようだ。陽葵は夢中で食べ進めている私を見て口角を上げ、顔を近づけてきた。
「ねえ曜ちゃん、やっぱり食器には統一性を持たせたくない? 今度お揃いのお茶碗とかグラス買いに行こうよ!」
「行かない。あなた、本当にここを出ていく気がある? 今日こそは家探しに出掛けた?」
出て行ってもらうために設けた一週間の期限は昨日で過ぎたが、陽葵が出ていく気配は微塵も見られない。美味しいごはんに懐柔され気味だといえども、断じて同居を認めたわけではないと伝え続けなければならない。
「んー……今日は天気が悪かったから行ってない。家探しってやっぱり、テンション高いときじゃないと楽しくないじゃん?」
「言い訳はせずに素直に面倒だったと白状する姿勢は嫌いじゃないけど、ダメ! 明日は絶対に探しに行って!」
「えー! 曜ちゃんがわたしとの同居を認めてくれれば、この家にいられるのにー! 家賃ならちゃんと払うからさあ~」
「無職は馬鹿なこと言ってないで、さっさと物件と一緒に職も探せっての」
陽葵は平日だろうが土日だろうが関係なく、大抵昼過ぎに「おはよお~」だなんて寝ぼけ眼を擦りながら部屋から出てくる優雅なご身分だ。職も金も行く場所もないという陽葵の申告を受けて仕方なく同居を認めたわけだが、一緒に暮らし始めてすぐに一つの疑問が発生した。
食費は陽葵の財布から出ているし、奴の衣服や化粧品を見る限りでは金に困っている様子は別段見られない。どこから金が出てくるのだろう、と。
これは私の勝手な推測だが、その理由は陽葵の交友関係にあると踏んでいる。
陽葵はじいちゃんの彼女を自称しているくせに、しょっちゅう男から連絡が来るようで常にスマホを片手に生活していた。じいちゃんが死んでから随分経ったし、陽葵は美人だから金回りの世話をしてくれる男がいても不思議ではないけれど、じいちゃんも所詮金蔓の一人だったのかと思わされるのでいい気分ではなかった。
そういう背景もあって、元々誰にも言うつもりはないけれど、私がじいちゃんから多額の遺産を相続したことは陽葵にも当然伏せている。
「でもぉ、開業準備中だって言ってるけど、曜ちゃんだって今は無職じゃん? お店をやるって大変なんだし、わたしよりも自分の心配した方がいいと思うよ?」
「……う、うるさい。それより来週の十一日、私の友達がこの家に泊まりに来るから」
「十一日? うん、わかった。腕によりをかけてごはん作るからね! お友達の名前はなんて言うの? 仲良くなれるといいなあー」
「いや、外で食べてくるからいい。っていうか、仲良くしろだなんて言ってない。うるさくして迷惑かけるかもしれないって予告してるだけ。陽葵は友達の家とか男の家に泊まってきて」
「嫌! わたしも曜ちゃんの友達に会いたい! 日中は用事があって外出するけど、夜には絶対家にいるようにする!」
友達が来ることに文句を言われるのではなく、友達を連れてこいと文句を言われるとは。
風味豊かな椎茸を飲み込みながら、陽葵を見つめた。
男にだらしないところは嫌いだが、陽葵が完全な悪人でないことはもうわかっているつもりだ。しかし働きもせずにこの家に居座ろうとする行為は、この四年で培われた私の社畜根性とじいちゃんへの思いが全面に出るせいか認められないのだ。
「なあにー曜ちゃん、わたしのことじっと見つめて。そんなにわたしのことが好き?」
「ち・が・う。……ねえ、炊き込みごはんってお代わり分、残ってる?」
空になった私の茶碗を手に、陽葵は足取り軽く台所へ向かっていった。
私が受け入れてしまう前に、この女の正体と目論見を早めに暴いて正々堂々と家から追い出す理由を見つけなければと思った。
今日内見した物件の三つ目、梅山のテナントビルは人通りの多さや広さは申し分なかったのだが、大幅に予算オーバーしてしまう。
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。靴の魅力を十分に伝えられるように靴作りの勉強はしてきたけれど、個人店の開業準備についての知識や経験は私には全くない。無事に開店までこぎ着けられるのか不安に苛まれるがもう後には引けないし、引く気もない。足りない面は根性と行動力でカバーしてやるととうに覚悟は決めている。
このまま別の不動産会社に足を運ぼうと決めて顔を上げた瞬間、見ないようにしていた『ハルキィ』という名前のパチンコ屋が視界に入ってしまい思わず顔を顰めた。
私はパチンコはやらないし、この店で大損をしたとか恨みがあるわけでもない。本当に自分勝手な理由なのだが、ただその店名が気に入らなかっただけだ。
じいちゃんの彼女を名乗る女――桜井陽葵と初めて会った夜が思い出された。
◆
常に動きやすさ最優先のパンツスタイル。一年中変化のない黒髪ボブ。女らしさと女子力は似て異なるものだが、その両方を心身から排除した女がこの私、夏目曜だ。
そんな私とは対照的に、桜井陽葵は容姿だけでも女らしい魅力に溢れていた。
長い睫毛に守られた平行型二重の大きな瞳に、完璧なバランス比で構成された美しい鼻。並びのいい白い歯に、艶のある唇。茶色い長髪をかける耳朶の形までもが完璧に創られていて、私は生まれて初めて同性に見惚れそうになった。
正反対の雰囲気を持つ私たちは、じいちゃん家のテーブルを挟んで向かい合った。見惚れていた己を反省し、主導権を握られまいと警戒心を全開にした私は、相手の一挙手一投足を観察しようと心がけた。
「状況を整理するためにも、まずは互いにちゃんとした自己紹介をしましょう。私は夏目曜といいます。岸谷太志のたった一人の孫です。思い入れのあるじいちゃんの家を売るのが嫌で、東京から越して来て相続しました。で、あなたの名前は?」
冷静に話そうとしても、口調はどうしても刺々しくなってしまう。それでも陽葵は微笑を崩さないまま、甘ったるい声を発した。
「わたしは『大島詩織』っていいます。さっきも言ったけれど、太ちゃん……ううん、あなたのおじいちゃんの彼女です!」
いくらじいちゃんがモテたとはいえ、こんな美人が靡くわけがないだろと思いながらも、あの遺産の額を考えると金に物を言わせて口説き落とした可能性もある。真っ向から否定できないのがもどかしい。
「大島さんですか。歳はいくつですか? じいちゃんの彼女とのことですが、じいちゃんとは一体どこで知り合ったんですか?」
「曜ちゃんと同じ二十四歳だよ。太ちゃんから聞いてたんだぁ、『陽葵と同い年の孫娘がいる』って……あ、大島詩織って源氏名だった。あはは、ごめんねいつもの癖で! 本名は桜井陽葵っていうの。太陽の陽に葵で、はるき。最近だとひまりって読み方が主流みたいなんだけど、わたしはハルキ」
陽葵と名乗った女は、持参していたエコバッグの中から缶ビールを取り出した。私の常識では考えられない行動に唖然としていると、
「わたしのことは陽葵って呼び捨てにしていいよ。わたしも曜ちゃんって呼ぶね! ねえ曜ちゃん、そんな尋問みたいな真似はやめて早くわたしたちの出会いに乾杯しようよ!」
「まだ話は終わってない! っていうか、こんな怪しい相手と酒が飲めるわけないし!」
出会って十分も経たないうちに、私は完全に陽葵のペースに呑まれていた。
陽葵の非常識な態度に説教を試みたものの暖簾に腕押し状態で、気がつけば缶ビールを握らされていた。
「……あなた、私と真面目に話をする気がないよね!?」
「あるよーあるある。源氏名って時点で察していると思うんだけど、わたしはキャバ嬢だったんだよねー。太ちゃんとはお店で出会ったの。紳士的で羽振りが良くて、最高のお客様だったなー」
缶ビールを片手に思い出を語る陽葵には、訝さしか感じなかった。
「……あんたがキャバ嬢だろうが、じいちゃんの彼女だろうが別にどうでもいい。ただ、じいちゃんがあんたにこの家を贈与する話をしていた証拠がないのが問題なんです。物的証拠がない限り、この家は正式な手続きをして相続した私のものになるので出て行ってください」
「ええー? 愛し合っていた二人に証拠を求めるとか、曜ちゃんって太ちゃんの孫娘とは思えないくらい堅いんだね?」
「胡散臭い見ず知らずの女に家を渡すわけがないでしょうが!」
陽葵がいちいち人の神経を逆撫でしてくるので、私の忍耐も限界を迎えようとしていた。
「でも困ったなあ。わたし、曜ちゃんに出ていけって言われたら行くところないんだよね。今日は漫画喫茶か、ビジホか……ううん、お金もないし公園で野宿でもしようかな」
「はあ!? ……まさかあなた、住んでいた家を引き払ってきたの?」
「そうだよー。キャバも辞めてきちゃったから、曜ちゃんに追い出されたら路頭に迷ってのたれ死んじゃうかもしれないよぉー」
わざとらしく泣き真似をする陽葵に苛々しながら頭を掻いた。たとえこの発言が嘘だったとしても、女に一人で野宿するなんて言われたら出ていけなんて言えるはずがない。
「後先考えられないタイプかよ……わかった。じゃあ今すぐにとは言わないから、一週間以内に住む家を見つけて出て行って。いい?」
私はつい悪癖である高圧的で乱暴な口調になってしまったのだが、陽葵は私の態度に言い返すことも怒りを見せることもなく、
「はあい。じゃあ、どの部屋なら使っていい? どこでもいいならわたし、縁側の隣の洋室がいいなー。あそこ、日当たりがいいし隙間風も少ないから好きなんだよね」
穏やかにそう口にしたのだった。冬を見越した発言にこいつは本当に家を探す気があるのかと不安になり、眩暈を起こした。
◆
あの腹黒なのか天然なのか全く読めない笑顔を思い出すと、心に波が立つ。
陽葵に心の中を掻き乱されているのが癪に障り、私は急いでコーヒーを喉の奥に流し込んで席を立った。私がやるべきは陽葵について考えることではなく、自分の店を納得のいく形でオープンさせることだ。そのためにはまず、店舗を構える場所を決めなければ。
ファーストフード店を出た私はパチンコ屋の前を足早に通り過ぎ、駅の方まで歩いた。
◇
くたくたに疲れて家路を辿ると、我が家に近づくにつれて腹の虫を刺激するいい匂いが漂ってきた。負けた気がしなくもないが、つい足早になって帰宅した。
本来一人暮らしになるはずだった私の家で、家族でも友人でも家事代行でもない人間が鼻歌を歌いながら料理をしているだなんて、一週間前の私には想像もできなかっただろう。
「あ、おかえり曜ちゃん。ちょうど炊き込みごはんができたところだよー。筍とか椎茸って食べられるかなあ?」
「……ただいま。私が苦手なのは梅干しとラッキョウ。魚より肉派で、麺より米派」
「おっけーわかった、覚えておくね。すぐ食べられるから着替えてきなよ」
私は素直に陽葵の指示に従って手洗いとうがいを済ませ、部屋着になってから居間の座布団に腰を下ろした。
陽葵を信用していないのも事実。陽葵の態度に腹が立つことも事実。陽葵を追い出したいのも事実。私はこの女が絶対的に好きではない。
しかし困ったことに、陽葵は「自炊なんかできなくたって、食事は男に奢ってもらえるからいいし」とでも言いそうな見た目に反して、本当に料理上手だった。
陽葵と同居を始めて一週間。今思えばこいつの作戦だったのかもしれないが、私が家に帰ると必ず温かい手料理が用意されていた。初めは警戒していた私だが、一口食べてみたときにはもう遅かった。胃袋を掴まれる男の気持ちを身をもって理解してしまった。
日中外にいるときは陽葵には早く出て行ってもらいたいと考えているのに、空腹で帰宅して美味しいごはんが用意されていると、どうにも陽葵に対しての態度が軟化してしまうのだ。
「さっ、食べよ! いただきまーす!」
「いただきます」
具沢山の味噌汁を啜ると、一日中歩き回って汗を掻いた体にちょうどいい塩分が染み渡っていった。ほかほかの炊き込みごはんは咀嚼した瞬間に口の中に旨味が広がって、何杯でもお代わりできてしまいそうだ。
ここ数日のメニューから推測すると、陽葵は洒落た料理よりも家庭料理が得意なようだ。陽葵は夢中で食べ進めている私を見て口角を上げ、顔を近づけてきた。
「ねえ曜ちゃん、やっぱり食器には統一性を持たせたくない? 今度お揃いのお茶碗とかグラス買いに行こうよ!」
「行かない。あなた、本当にここを出ていく気がある? 今日こそは家探しに出掛けた?」
出て行ってもらうために設けた一週間の期限は昨日で過ぎたが、陽葵が出ていく気配は微塵も見られない。美味しいごはんに懐柔され気味だといえども、断じて同居を認めたわけではないと伝え続けなければならない。
「んー……今日は天気が悪かったから行ってない。家探しってやっぱり、テンション高いときじゃないと楽しくないじゃん?」
「言い訳はせずに素直に面倒だったと白状する姿勢は嫌いじゃないけど、ダメ! 明日は絶対に探しに行って!」
「えー! 曜ちゃんがわたしとの同居を認めてくれれば、この家にいられるのにー! 家賃ならちゃんと払うからさあ~」
「無職は馬鹿なこと言ってないで、さっさと物件と一緒に職も探せっての」
陽葵は平日だろうが土日だろうが関係なく、大抵昼過ぎに「おはよお~」だなんて寝ぼけ眼を擦りながら部屋から出てくる優雅なご身分だ。職も金も行く場所もないという陽葵の申告を受けて仕方なく同居を認めたわけだが、一緒に暮らし始めてすぐに一つの疑問が発生した。
食費は陽葵の財布から出ているし、奴の衣服や化粧品を見る限りでは金に困っている様子は別段見られない。どこから金が出てくるのだろう、と。
これは私の勝手な推測だが、その理由は陽葵の交友関係にあると踏んでいる。
陽葵はじいちゃんの彼女を自称しているくせに、しょっちゅう男から連絡が来るようで常にスマホを片手に生活していた。じいちゃんが死んでから随分経ったし、陽葵は美人だから金回りの世話をしてくれる男がいても不思議ではないけれど、じいちゃんも所詮金蔓の一人だったのかと思わされるのでいい気分ではなかった。
そういう背景もあって、元々誰にも言うつもりはないけれど、私がじいちゃんから多額の遺産を相続したことは陽葵にも当然伏せている。
「でもぉ、開業準備中だって言ってるけど、曜ちゃんだって今は無職じゃん? お店をやるって大変なんだし、わたしよりも自分の心配した方がいいと思うよ?」
「……う、うるさい。それより来週の十一日、私の友達がこの家に泊まりに来るから」
「十一日? うん、わかった。腕によりをかけてごはん作るからね! お友達の名前はなんて言うの? 仲良くなれるといいなあー」
「いや、外で食べてくるからいい。っていうか、仲良くしろだなんて言ってない。うるさくして迷惑かけるかもしれないって予告してるだけ。陽葵は友達の家とか男の家に泊まってきて」
「嫌! わたしも曜ちゃんの友達に会いたい! 日中は用事があって外出するけど、夜には絶対家にいるようにする!」
友達が来ることに文句を言われるのではなく、友達を連れてこいと文句を言われるとは。
風味豊かな椎茸を飲み込みながら、陽葵を見つめた。
男にだらしないところは嫌いだが、陽葵が完全な悪人でないことはもうわかっているつもりだ。しかし働きもせずにこの家に居座ろうとする行為は、この四年で培われた私の社畜根性とじいちゃんへの思いが全面に出るせいか認められないのだ。
「なあにー曜ちゃん、わたしのことじっと見つめて。そんなにわたしのことが好き?」
「ち・が・う。……ねえ、炊き込みごはんってお代わり分、残ってる?」
空になった私の茶碗を手に、陽葵は足取り軽く台所へ向かっていった。
私が受け入れてしまう前に、この女の正体と目論見を早めに暴いて正々堂々と家から追い出す理由を見つけなければと思った。