◇
私はかねてからサイズもデザインも色もすべてお客様一人ひとりの希望に沿った靴を提供できる、いわゆるオーダーメイドシューズの専門店を持ちたいと思ってきた。
既製品を売って利益を得ることがメインとなる商売ではないため、オープン前に大量にオリジナルシューズを製作しておく必要はないとはいえ、店内にある程度のサンプルは置いておかないと営業にならない。オーダーメイドシューズは既製品よりもずっと値の張る靴だ。参考として見た靴サンプルが酷い出来なら、購入する人なんているはずがない。
だから私は退職してからの三ヵ月間、スクールに通ってもう一度靴作りを学び直し、授業以外の時間はすべて靴作りの勉強と製作のために充てた。
専門学校で靴作りを学んで以降、一足の靴を最初から最後まで自分の手で製作するのはおよそ四年のブランクがあった。最初の方に作った靴はとても売りに出せるような代物ではなく相当落ち込んだが、三ヵ月が経とうとする頃に作った靴は概ね満足のいく仕上がりとなり、私の自信を強めてくれた。
そして今日は私にとって運命の日、新たな人生の一歩をいよいよ踏み出す日だ。
コットンと山羊革で作った自作のコンビスニーカーと共にやって来たのは、じいちゃんの家がある宮城県笹森市だ。笹森市は仙台市からローカル線に乗り継いで三十分の距離にある、およそ十二万人が居住する海沿いの町である。自然豊かな土地で、第一次産業を中心に発展してきたと聞いている。
冬の寒さは厳しいらしいが、季節は夏真っ盛りだ。じっとしているだけで汗が滲むよく晴れた七月のこの日、私は生まれ育った東京を離れて笹森市に移住してきたのだった。
引っ越し業者のトラックを見送り、段ボールだらけのだだっ広い古い木造の平屋の中を改めて見渡した。
日に焼けた濡れ縁、古い台所、煙草のヤニで黄ばんだ居間の壁。それらはじいちゃんがいた頃と何も変わらない佇まいで、新しい家主となる私を出迎えてくれた。
私は両手で頬を叩いて、顔を上げた。初っ端からしんみりとしている場合ではない。今日はまだまだやることがたくさんある。和室にある仏壇の前に座り、遺影に向かって手を合わせた。
「じいちゃん……私、ここで頑張るから。応援してよね」
決意を宣言すると、気のせいかもしれないがじいちゃんが笑ったような気がした。
早速菓子折りを持って外へ出た。今日は挨拶回りをしようと決めているのだ。
家と家の間隔の広さに田舎を感じながら、近所を一軒ずつ訪ねて回った。今日挨拶をした人は皆、私がじいちゃんの孫だと知ると好意的な反応を示してくれた。生前のじいちゃんの人柄や人望の厚さを知ることができて嬉しかった。
近所を一周し、残りは隣家の高久さんだけとなった。最初に訪問したときは不在だったけれど、さすがにお隣さんには今日中に挨拶を済ませておきたい。まあ、高久さんご夫妻は私が笹森に遊びに来る度に顔を合わせていたから、顔見知りで気が楽だ。
ご夫妻はじいちゃんより一回り若く、お子さんたちが巣立ってからは二人暮らしをしている。
『高久』と彫られた表札を掲げる一軒家のインターホンを押して反応を待っていると、家の中からドタドタと足音が近づいてきた。「はーい」という高い声と開かれた引き戸から現れたのは、高久さんの奥さんだった。
「ご無沙汰しております、曜です。先日こちらに越してくることは伝えておりましたが、今日無事に引っ越しが終わりましたので、改めてご挨拶に伺わせていただきました」
顔見知りとはいえ、挨拶は真面目にやるべきだ。丁寧に頭を下げると、おば様は笑いながら私の両腕をペタペタと触った。
「曜ちゃん! 曜ちゃんが越してくるのアタシ、楽しみにしてたのよぉ! でもねえ、東京の若い女の子がこんな田舎に来たら刺激が足りなくて飽きちゃうんじゃないかって、心配だわあ。あ、そうそう! 来年この近くにコンビニができるらしいから、今よりちょっとだけ便利になるわよ! ゴミの日はわかる? 今日のごはんは準備してあるの? なにか困ったことがあったら言ってね?」
相変わらずのマシンガントークに圧倒されてしまったものの、歓迎してもらえるのはとても幸せなことだ。
「気にかけてくれてありがとうございます。あのこれ、お口に合えばいいのですが」
持参した菓子折りを差し出すと、おば様は頬に手を当てて嬉しそうに受け取った。
「あらー、ありがとう! 東京のお菓子? お父さんといただくわあ。でも本当、岸谷さんも幸せ者よねえ! こおんな可愛くてしっかり者のお孫さんに慕われて、数多くの女から好かれて、男として理想の人生を謳歌して旅立ったんだから本望でしょうねえ」
岸谷というのはじいちゃんの苗字だ。……いや、そんなことよりも、聞き返さずにはいられない言葉を耳にしたような気がした。
「……あのー、じいちゃんってモテたんですか?」
「あら、知らなかった? そうよお? 端正な顔立ちで、とびっきり優しくて、気が利いていて、知識が豊富でお話も上手だったからねえ。岸谷さんのことを嫌いな女は笹森にはいないんじゃないかしら?」
「そ、そうなんですか。なんだか意外です……」
おば様は昔を懐かしんで目を細めながら、
「ふふ……女ったらしでねえ、顔のいい成人女性なら息をするように口説いちゃうのよ。アタシも当然大好きだったわ! 見向きもされなかったけどね! あはははは!」
「あ、ははは……そ、そうですか……」
身内は少なく、ばあちゃんにも先立たれて寂しい思いをしているだろうなとじいちゃんに同情していたっていうのに。それなりに楽しんでいたのならまあ、良かった。……と、いうべきだろうか?
◇
おば様の世間話は本当に長くて、挨拶回りの順番が最後で正解だったと心から思った。
「ただいまー……」
実家暮らしの癖が抜けず、誰もいない家なのについ帰宅の挨拶を口にしていた。転がっている段ボールを足で除け、居間の電気を点けて床の上に寝転んだ。
溜息を吐くと同時に、腹の虫が鳴いた。来年は近くにコンビニができるとは聞いたが、問題は今どうするかだ。元々料理が不得意な私にとって、コンビニやファミレスが遠いというのは致命的だった。
車は必需品だなと考えながらスマホで近隣の飲食店を検索していると、玄関の引き戸が開く音が聞こえて飛び起きた。
なんだ? 誰か入ってきた? ……いや、警戒するのはまだ早い。田舎の人は勝手に玄関に入ってきて、食べ物やら回覧板やらを置いていくとじいちゃんは言っていた。でも鍵はかけたはずだよね? 合鍵? 泥棒?
途端に血の気が引いていった。男勝りだと言われている私だが一人暮らしの経験はないし、こんな事件性の高い出来事に遭遇するなんて初めてなのだ。手に持っていたスマホですぐに警察に電話が繋がるように準備して、何かあったら逃走できるように忍び足で窓際まで移動した。
近づいてくる足音に息を吞む。その人影を私の目が視認した瞬間、
「あ、家の中が明るいと思ったら、やっぱり人いたあ。こんばんはー」
人懐こい笑顔を見せながら、女性は私に一礼した。
予想とは大きく異なる登場人物と爽やかな挨拶に、私の脳は容易く混乱した。
「えっ……こ、こんばんは。……あの、私はこの家の家主ですが、どちら様ですか?」
まだ不法侵入の疑いが晴れていない相手に対して、随分と淑女な対応をしたものだと自分でも驚く。丁寧に身元を尋ねた私に対して、彼女は信じられない返答を口にした。
「わたし、太ちゃんの彼女です。生前の太ちゃんがこの家をくれる約束をしてくれたんだけど、あなたが家主? ってことは、あなたも太ちゃんの彼女なんですか?」
眩暈を起こしてぶっ倒れそうになりながら、私は女の顔をしっかりと確認した。年は私と同じくらいだろうが、私とは違って引力のある大きな目が印象的な、華やかな容姿をした美人だった。
彼女が手に持っているのは間違いなくこの家の鍵だった。合鍵を持っているということは、じいちゃんとそれなりに親しい仲だったのは嘘ではないらしい。
私は眉根を揉んでから天井を仰いで、冷静になるために深呼吸をして、
――ねえ、じいちゃん。いや……このエロジジイ! 身辺整理くらいちゃんとやってから逝きやがれ!
珍しく、いや、もしかしたら初めてかもしれない。
私は胸中で親愛なるじいちゃんに暴言を吐いたのだった。
私はかねてからサイズもデザインも色もすべてお客様一人ひとりの希望に沿った靴を提供できる、いわゆるオーダーメイドシューズの専門店を持ちたいと思ってきた。
既製品を売って利益を得ることがメインとなる商売ではないため、オープン前に大量にオリジナルシューズを製作しておく必要はないとはいえ、店内にある程度のサンプルは置いておかないと営業にならない。オーダーメイドシューズは既製品よりもずっと値の張る靴だ。参考として見た靴サンプルが酷い出来なら、購入する人なんているはずがない。
だから私は退職してからの三ヵ月間、スクールに通ってもう一度靴作りを学び直し、授業以外の時間はすべて靴作りの勉強と製作のために充てた。
専門学校で靴作りを学んで以降、一足の靴を最初から最後まで自分の手で製作するのはおよそ四年のブランクがあった。最初の方に作った靴はとても売りに出せるような代物ではなく相当落ち込んだが、三ヵ月が経とうとする頃に作った靴は概ね満足のいく仕上がりとなり、私の自信を強めてくれた。
そして今日は私にとって運命の日、新たな人生の一歩をいよいよ踏み出す日だ。
コットンと山羊革で作った自作のコンビスニーカーと共にやって来たのは、じいちゃんの家がある宮城県笹森市だ。笹森市は仙台市からローカル線に乗り継いで三十分の距離にある、およそ十二万人が居住する海沿いの町である。自然豊かな土地で、第一次産業を中心に発展してきたと聞いている。
冬の寒さは厳しいらしいが、季節は夏真っ盛りだ。じっとしているだけで汗が滲むよく晴れた七月のこの日、私は生まれ育った東京を離れて笹森市に移住してきたのだった。
引っ越し業者のトラックを見送り、段ボールだらけのだだっ広い古い木造の平屋の中を改めて見渡した。
日に焼けた濡れ縁、古い台所、煙草のヤニで黄ばんだ居間の壁。それらはじいちゃんがいた頃と何も変わらない佇まいで、新しい家主となる私を出迎えてくれた。
私は両手で頬を叩いて、顔を上げた。初っ端からしんみりとしている場合ではない。今日はまだまだやることがたくさんある。和室にある仏壇の前に座り、遺影に向かって手を合わせた。
「じいちゃん……私、ここで頑張るから。応援してよね」
決意を宣言すると、気のせいかもしれないがじいちゃんが笑ったような気がした。
早速菓子折りを持って外へ出た。今日は挨拶回りをしようと決めているのだ。
家と家の間隔の広さに田舎を感じながら、近所を一軒ずつ訪ねて回った。今日挨拶をした人は皆、私がじいちゃんの孫だと知ると好意的な反応を示してくれた。生前のじいちゃんの人柄や人望の厚さを知ることができて嬉しかった。
近所を一周し、残りは隣家の高久さんだけとなった。最初に訪問したときは不在だったけれど、さすがにお隣さんには今日中に挨拶を済ませておきたい。まあ、高久さんご夫妻は私が笹森に遊びに来る度に顔を合わせていたから、顔見知りで気が楽だ。
ご夫妻はじいちゃんより一回り若く、お子さんたちが巣立ってからは二人暮らしをしている。
『高久』と彫られた表札を掲げる一軒家のインターホンを押して反応を待っていると、家の中からドタドタと足音が近づいてきた。「はーい」という高い声と開かれた引き戸から現れたのは、高久さんの奥さんだった。
「ご無沙汰しております、曜です。先日こちらに越してくることは伝えておりましたが、今日無事に引っ越しが終わりましたので、改めてご挨拶に伺わせていただきました」
顔見知りとはいえ、挨拶は真面目にやるべきだ。丁寧に頭を下げると、おば様は笑いながら私の両腕をペタペタと触った。
「曜ちゃん! 曜ちゃんが越してくるのアタシ、楽しみにしてたのよぉ! でもねえ、東京の若い女の子がこんな田舎に来たら刺激が足りなくて飽きちゃうんじゃないかって、心配だわあ。あ、そうそう! 来年この近くにコンビニができるらしいから、今よりちょっとだけ便利になるわよ! ゴミの日はわかる? 今日のごはんは準備してあるの? なにか困ったことがあったら言ってね?」
相変わらずのマシンガントークに圧倒されてしまったものの、歓迎してもらえるのはとても幸せなことだ。
「気にかけてくれてありがとうございます。あのこれ、お口に合えばいいのですが」
持参した菓子折りを差し出すと、おば様は頬に手を当てて嬉しそうに受け取った。
「あらー、ありがとう! 東京のお菓子? お父さんといただくわあ。でも本当、岸谷さんも幸せ者よねえ! こおんな可愛くてしっかり者のお孫さんに慕われて、数多くの女から好かれて、男として理想の人生を謳歌して旅立ったんだから本望でしょうねえ」
岸谷というのはじいちゃんの苗字だ。……いや、そんなことよりも、聞き返さずにはいられない言葉を耳にしたような気がした。
「……あのー、じいちゃんってモテたんですか?」
「あら、知らなかった? そうよお? 端正な顔立ちで、とびっきり優しくて、気が利いていて、知識が豊富でお話も上手だったからねえ。岸谷さんのことを嫌いな女は笹森にはいないんじゃないかしら?」
「そ、そうなんですか。なんだか意外です……」
おば様は昔を懐かしんで目を細めながら、
「ふふ……女ったらしでねえ、顔のいい成人女性なら息をするように口説いちゃうのよ。アタシも当然大好きだったわ! 見向きもされなかったけどね! あはははは!」
「あ、ははは……そ、そうですか……」
身内は少なく、ばあちゃんにも先立たれて寂しい思いをしているだろうなとじいちゃんに同情していたっていうのに。それなりに楽しんでいたのならまあ、良かった。……と、いうべきだろうか?
◇
おば様の世間話は本当に長くて、挨拶回りの順番が最後で正解だったと心から思った。
「ただいまー……」
実家暮らしの癖が抜けず、誰もいない家なのについ帰宅の挨拶を口にしていた。転がっている段ボールを足で除け、居間の電気を点けて床の上に寝転んだ。
溜息を吐くと同時に、腹の虫が鳴いた。来年は近くにコンビニができるとは聞いたが、問題は今どうするかだ。元々料理が不得意な私にとって、コンビニやファミレスが遠いというのは致命的だった。
車は必需品だなと考えながらスマホで近隣の飲食店を検索していると、玄関の引き戸が開く音が聞こえて飛び起きた。
なんだ? 誰か入ってきた? ……いや、警戒するのはまだ早い。田舎の人は勝手に玄関に入ってきて、食べ物やら回覧板やらを置いていくとじいちゃんは言っていた。でも鍵はかけたはずだよね? 合鍵? 泥棒?
途端に血の気が引いていった。男勝りだと言われている私だが一人暮らしの経験はないし、こんな事件性の高い出来事に遭遇するなんて初めてなのだ。手に持っていたスマホですぐに警察に電話が繋がるように準備して、何かあったら逃走できるように忍び足で窓際まで移動した。
近づいてくる足音に息を吞む。その人影を私の目が視認した瞬間、
「あ、家の中が明るいと思ったら、やっぱり人いたあ。こんばんはー」
人懐こい笑顔を見せながら、女性は私に一礼した。
予想とは大きく異なる登場人物と爽やかな挨拶に、私の脳は容易く混乱した。
「えっ……こ、こんばんは。……あの、私はこの家の家主ですが、どちら様ですか?」
まだ不法侵入の疑いが晴れていない相手に対して、随分と淑女な対応をしたものだと自分でも驚く。丁寧に身元を尋ねた私に対して、彼女は信じられない返答を口にした。
「わたし、太ちゃんの彼女です。生前の太ちゃんがこの家をくれる約束をしてくれたんだけど、あなたが家主? ってことは、あなたも太ちゃんの彼女なんですか?」
眩暈を起こしてぶっ倒れそうになりながら、私は女の顔をしっかりと確認した。年は私と同じくらいだろうが、私とは違って引力のある大きな目が印象的な、華やかな容姿をした美人だった。
彼女が手に持っているのは間違いなくこの家の鍵だった。合鍵を持っているということは、じいちゃんとそれなりに親しい仲だったのは嘘ではないらしい。
私は眉根を揉んでから天井を仰いで、冷静になるために深呼吸をして、
――ねえ、じいちゃん。いや……このエロジジイ! 身辺整理くらいちゃんとやってから逝きやがれ!
珍しく、いや、もしかしたら初めてかもしれない。
私は胸中で親愛なるじいちゃんに暴言を吐いたのだった。