◇

「ただいまー」

「おかえり。曜、ちょっと時間ちょうだい」

 実家に帰宅すると居間に顔を出すようお母さんに促された。

「なんかこうやってお母さんと向かい合っていると、じいちゃんの通帳を渡されたときの衝撃を思い出す」

「ちなみに、今日もじいちゃんのビックリ話だから覚悟して聞きなさい。……遺品整理でじいちゃんの漁船を売ったでしょう? 三ヵ月くらい前にね、買い取った業者の人から連絡があって、運転席の近くに隠されていましたよってこれを渡されたのよ」

 お母さんはテーブルの上に小さなSDカードを置いた。

「中身を確認したら、身内に宛てた遺言動画だったんだけどね……ねえ曜、あんた陽葵って子のこと知ってる?」

 心臓が止まりそうになった。

「し、知らない。その子がどうしたの?」

 別にやましいことなどないというのに、思わず嘘を吐いてしまった。

「なんかね、動画の中でじいちゃんが陽葵って子にもメッセージを伝えているんだけど、お母さんその子のことわかんなくて困ってるのよ。家をあげるとかなんとか言ってるけど、じいちゃん、愛人か隠し子でもいたのかしら? あの人、結構モテていたらしいし……」

「ふ、ふーん? そうなんだ? なあ、そのSDカードの中って私も見ていい?」

 妙に鋭いお母さんの推理を邪魔したくて食い気味に尋ねた。

「もちろんいいわよ。まあいずれにせよ、動画での遺言って法的に無効らしいから陽葵って子のところに家が渡ることはないし、あんたは安心して住み続けなさいね」

 手渡されたSDカードを持って自室に戻った私は、持ってきたノートパソコンを立ち上げて緊張しながら差込口にカードを挿入した。映し出されたのは、ドアップでピンボケしているじいちゃんの姿だった。

『おし! 俺のカッコイイ顔がちゃんと映ってるな? おほん、あー、皆見てるか? いやー、なんだかユーチューバーにでもなった気分だなこりゃ!』

 懐かしい顔と相変わらずの大声に笑みが零れた。

『これは所謂、遺言ってやつだ! 手紙を書くっていうのはどうにもこう、性に合わんから動画を残すことにした。あ? 老人が無理するなって? 馬鹿言うな! 文句があるなら俺にフリック入力の速さで勝ってから言え! まあお前らには無理だろうけどな! がっはっは!』

 動画の日付は今からおよそ二年前だった。以前より痩せたとはいえ画面の中にいるじいちゃんは元気そうで、この時点で余命宣告をされているだなんて想像もできなかった。

 青い空と青い海を背景に、漁船の上で波に揺られながら撮影された動画は常に動いていて視聴環境は最悪だったけれど、私は画面を食い入るように見つめた。じいちゃんが動いている姿を見られて本当に嬉しかったのだ。

『まず、俺の遺産が思っていた以上の金額で驚いたと思う。なんでこんなに金があるのかっていうとだな……お前たちには信じてもらえんかもしんねえが、俺はすげえモテるんだよ! 数年前に資産家の女性と恋愛関係になってな……彼女が亡くなる前に金を少しもらったんだよ。あ、別に俺からせびったワケじゃねえぞ? だからなんつうか……悪いことして手に入れた黒い金じゃねえんだ。安心して受け取ってくれるとありがたい』

 じいちゃんがモテるだなんて、この動画を見るのが笹森に行く前だったら信じられなかっただろうが今は素直に受け止められる。

 それからじいちゃんは自身が侵された病魔の話をして、お父さんとお母さんに今までの感謝を告げ、自分が亡くなった後にやってほしいことを伝えていた。だが死後大分経ってから見ることになったため叶えられなくなってしまった要望も多く、じいちゃんの性格上、恥ずかしがって家族に直接渡さないのはまだ理解できるが、こんなに見つかりにくい場所にこの遺言動画を隠していたのは不可解だった。

 小首を傾げているとついに名前を呼ばれ、心臓が大きな音を立てた。

『曜、仕事頑張っているみたいだな? 最近はちっとも遊びに来てくれなくなって寂しいが、とにかくお前が選んだ道を突き進め。じいちゃんはいつだって、お前の味方だからな!』

 あまりにもじいちゃんらしいメッセージに、反射的に目頭が熱くなった。

 じいちゃん。私、頑張ってるよ。これからもめちゃくちゃ頑張るから、見てて。

『迷うこともあるよな。辛いこともあるよな。でもまあ、曜なら大丈夫だ! 根拠? それはお前が俺の孫だからだ!』

 満面の笑みで断言するじいちゃんの言葉を、鼻を啜りながら真剣に受け取った。じいちゃんが私を信じてくれるなら私も自分を信じようと、力をもらえた気がした。

 笑っていたじいちゃんは一つ咳払いを零した後で、少しだけ照れ臭そうな顔つきになった。

『……あー……最後に、陽葵。まだやりたいことは見つかっていないか? 急かしているわけじゃないぞ? ゆっくり探せばいい。帰る場所があるっていうのは、それだけで安心するだろ? だから、俺の家はお前にやる。俺の家族が権利がどうのこうのって騒いでお前を追い出さないように、ちゃんと手続きに必要なモンは渡してあるんだから、手続きは面倒臭がらずにちゃんとやれよ?』

 ここで初めて、陽葵は本当にじいちゃんから家を貰う話をされていたことを知った。

『だから陽葵よ、この先何があっても投げやりになるな。後悔はしてもいいが絶望はするな……って、こんな説教臭えこと言ってたら老害扱いされちまうな? カットカット! 俺は若いぞ! いろいろとな!』

 顔をくしゃっとさせながら、じいちゃんは豪快に笑った。

『というわけで、金は俺の愛する家族が、家は俺の大事な陽葵が相続してくれ! 俺はあと三十年は生きる予定だったんだが、どうもこの病魔はかなりせっかちなヤツらしくてな、一年後には俺はもうあの世にいるって話だ。だからまあ、こういう形で遺志を伝えておくことにする。この俺の貴重な生前の動画だ、ユーチューブにアップして広告収入を得てもいいぞ!』

「……ジジイの遺言動画なんか、どこに需要があるんだよ……」

 そうツッコミを入れながら、私は頬を伝っていた涙を拭った。この世界にいる大多数の人間には需要も興味もない動画だろうけれど、私にとっては値千金、笑っているじいちゃんが見られただけで十分に価値のあるものだった。

 動画の終わりを確認した私はSDカードを抜き出し、小さな記憶媒体を眺めた。

「……陽葵に家をあげる気満々だったくせに、動画での遺言は法的に無効とか……じいちゃんアホすぎるでしょ……」

 もし陽葵があの家を相続したいと言っていたら大騒動になっているところだった。溜息を吐きながら、家の相続に必要な書類が一ヵ所に纏めて保管されていたことを思い出す。

 整理整頓が得意ではないじいちゃんにしては珍しいと思っていたが、きっとじいちゃんが死んでから陽葵がこっそりと戻しておいたのだろう。

 じいちゃんの家を相続するための書類をもらっていたのにもかかわらず、陽葵はあの家から出て行った。要らなかったから? 面倒臭くなったから? それとも……じいちゃんとの思い出が詰まった家に、一人でいるのが辛かったから?

 ……私は陽葵のことを端から怪しいやつだと疑って、飄々とした態度や明るい笑顔で隠していたあいつの気持ちを、全然考えようとして来なかった。

 スマホに手を伸ばし、着信履歴からその名前を見つけて眺めた。

 同居している最中、くだらない言い争いはしょっちゅうだった。冷凍庫のハーゲンダッツを勝手に食べて怒られたり、ビール缶はゴミ袋に入れる前に一度濯いでおけと責めたり、ポケットにティッシュを入れたまま洗濯してどっちが犯人かを詮索して揉めたりと、今思えば些細なことで頻繁に喧嘩した。

 それでも、振り返ってみればどれも笑いながら話せるエピソードだし、二人で一緒に食卓を囲んでいろんなことを語り合った時間は、私にとって本当に大切な思い出だ。

 自責の念に駆られて唇を噛んだ。羨望や嫉妬を口にしながらも、陽葵は最初から一貫して仕事に励む私を応援してくれていた。それなのに、プライドばかり高くて余裕のなかった私は、陽葵の思いやりを酷い言葉で踏みにじって傷つけてしまったのだ。

 陽葵に謝りたいと思い電話をかけたが、出てもらえなかった。三十分後にかけ直したけれど、聞き飽きたコール音だけが私の鼓膜に響いた。

 まだ二十時だし、寝ているということはないだろう。外に出ていて電話に出られる状況ではないか、あるいは無視されているか。現状を考えてみれば後者の可能性も大いに考えられるわけで、私は枕に顔を埋めて唸った。

 メッセージを送ってみようかと悩んだものの、すぐにかぶりを振った。三十分毎に電話をかけるという迷惑行為を試み、電話が繋がったのは七回目のことだった。

『……まだ荷造りは終わってないよ。ごめんね』

「陽葵、ごめん。荷造りはもういいよ。聞いてほしいことがあるんだ」

 緊張で手汗を滲ませながら、私は息を吸った。

「酷いこと言って、ほんっとーに、ごめん! 陽葵の優しさを突っぱねてしまって、ごめん! 私……陽葵と、その……な、仲直りしたいんだ」

『……出ていけって言ったのは曜ちゃんなのに……すごく自分勝手だね。曜ちゃんはわたしの気持ちなんて、何も考えてないのかな?』

 静かに淡々と紡がれる言葉には、確かな怒りが込められているように聞こえた。

「陽葵が怒るのは当然だと思う。でも、陽葵が私のことをどれだけ嫌いでも……私は、陽葵とこれからも一緒にいたいって思った」

『……それって、わたしが何度振ってもしつこく付きまとってくる水野さんみたいな男の人と一緒だよ? わたしにその気がなければ、それはただの自己満足の迷惑行為』

「わかってる。……自分のことばっかりで、陽葵の気持ちなんて全然わかっていないって……この間も陽葵に言われたばかりだっていうのに、ごめん」

 受話口の向こう側から盛大な溜息が聞こえてきた。顔は見えずとも陽葵が呆れている様子が伝わってくる。それでも、何度も想いを伝える術しか知らない私が再び口を開こうとした瞬間、

『……でも、困ったことにね……わたしにもその気があるから……揺らいじゃうんだよね』

 急に甘く入ってきた変化球だったので見事に見逃してしまった。動揺で私が言葉を発せない間に、さっきとは違って柔らかく息を吐く音が聞こえた。

『……やっぱり曜ちゃんって、わたしのこと口説いてるよね? この歳で普通、そういうこと言うかなあ?』

「べ、別に変じゃなくない? それを言ったら陽葵だって、今までに何度も私に好きだの抱いてだの誤解を与えそうなこと言ってきたじゃん!」

『わたしも謝らなきゃって、ずっと思ってたの……曜ちゃんの気持ちも考えないで、勝手なことをしてごめんなさい』

「い、いや……私の方が酷いこと言ったんだし……謝らないでよ」

 本気の喧嘩をして許し合った私たちは、やっと本当の友達になれる。これからは友達として、楽しいことも悲しいことも一緒に共有していける。

 そう信じて疑わなかった私に、陽葵は穏やかな声色で悲しい宣告をした。

『でも……ごめんね。わたしはもう、この家にはいられない。曜ちゃんが戻ってくるまでには出ていくね』

 頭が真っ白になってしまった私は、狼狽えながら問いかけた。

「な、なんで? やっぱり、私のこと許せない?」

『ううん、違うよ。……わたしが自立しない限り、曜ちゃんと一緒にいたらまた同じようなことが起きると思うの。わたしは、曜ちゃんと対等になりたい。だからね、今は一緒にいない方がいいと思うんだ』

「……それはもう、決めたことなの?」

『うん。わたしはこの家を……笹森を出て、自分のことを見つめ直してみるよ』

 私の脳裏にはいろいろな角度からの説得の言葉が浮かんでいたけれど、「友達」ならば陽葵の意思を尊重しなければならない。

「そっか……頑張れ、応援してるから」

 寂しい気持ちは強いけれど、口から出た言葉は決して嘘なんかではなかった。

『ありがとう。あのね、最後にこれだけは言わせてね。……曜ちゃんと一緒に暮らすのは嫌だったって言ったのは、嘘だから。……あのときは頭に血が昇っちゃって、曜ちゃんを傷つけることしか考えてなかったの。でも、口にした直後からずっと後悔していて……本当にごめんなさい……』

 その言葉を聞いて心から安堵した。私との思い出が陽葵にとって辛いものではなくて、本当に良かった。

「じゃあ……陽葵は私と一緒にいて、楽しかったって思っていい?」

『うん、もちろんだよ。毎日一緒に夕食を食べて、仕事の話をして、男の話をして、テレビの話をして、笑って……こんなの、楽しくないわけないじゃん。だからね、曜ちゃんのお店が成功するように、ずっと祈っているからね。……それじゃあ、バイバイ』

 嬉しい言葉を反芻する余韻もなく、通話を一方的に切られた受話口からは、無機質な不通音だけが聞こえていた。



 ベッドの上に寝転んで天井を見上げながら、静かに息を吐いた。

 今までの私だったら不貞寝するか、健康を全く顧みないヤケ酒でもしていただろう。

 だけど自分の「やりたいこと」と「やらなければならないこと」が明確になっている私は、二つの強く太い芯が足となって私を支えているためか、すぐに次の行動に移ることができた。

 体を起こして、リュックサックの中から廣瀬から駄目出しを食らった際に使用した靴図鑑を取り出した。

 そう。私の「やるべきこと」はもう、決まっている。

 ――ねえ、じいちゃん。私に力を貸して。