◇

「……できた……」

 淹れ立てを飲んだときには熱かったコーヒーがすっかり冷めていることから、あれから飲まず食わずのまま夢中になって完成させたことに気づく。

 現時刻は七時四十七分。誰もいない店内で一人、思わず大声を上げていた。

「よっし! 間に合ったあああ!」

 ギリギリ間に合ったとはいえ、一息つく暇は一秒もない。幸いにも脳からはアドレナリンが大量放出しているため、体は間違いなく疲れているはずなのに全く眠くない。

 用意してあった桐箱に完成した靴を梱包して、弾かれたように店を飛び出した。

 店から車を走らせること二十五分、瀬川夫妻の式が執り行われる式場に到着した。両家の親族だけが集まりつつある時間帯の中、駐車場から式場内まで走って息を荒らげながら受付の人に事情を話す私は、悪い意味で浮いていた。

 少し経ってから恵梨香さんを担当しているスタイリストがやって来て、新婦控室に入れてもらえることになった。恵梨香さんはメイクもドレスアップも済ませていて、まさに靴だけを待っている状態らしい。

 恵梨香さんの待つ控室の前で深呼吸をして、ノックする。そして一言「失礼します」と告げて扉を開いた私の視界に飛び込んできたのは、純白のウエディングドレスに身を包んだ綺麗な花嫁の姿だった。

「……このたびはご結婚おめでとうございます。お綺麗です、恵梨香さん」

 私の姿を認めた恵梨香さんは、安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。この日のために、ダイエットしてきた甲斐がありました」

「大変お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした。世界でたった一つの、恵梨香さんのウエディングシューズをお持ちしました。……どうぞ、お召しになってください」

 椅子に座ったまま足を差し出す恵梨香さんに、桐箱の中から取り出した靴をゆっくりと履かせた。

 セミオーダーとはいえ、サイズはほぼ完璧に合致している。いつもの手順だと次に私は、恵梨香さんに履き心地を尋ねなければならない。

 しかし私の喉は張りつき、上手く声を発することができなかった。どうやら私は未だかつてほど緊張しているらしい。

 若輩者とはいえ、私にだって靴作りへの自信と矜持がある。このウエディングシューズは恵梨香さんの要望を可能な限り詰め込み、私の持つ技術を注ぎ込んで作り上げたと自負している。

 だけど評価をするのは私ではなく、いつだってお客様なのだ。

 果たして恵梨香さんは、この晴れの日を共に歩くのに相応しい靴になったと喜んでくれるだろうか。私は怖くて、恵梨香さんの顔を見ることができなかった。

「……綺麗……」

 判決を待つ罪人のように俯いていた私の頭上に降ってきた声に、ゆっくりと顔を上げた。

 そのとき私が見たのは、口元を両手で覆って瞳をきらきらと輝かせながら、自身の足にあてがわれた靴に魅入る恵梨香さんの嬉しそうな表情だった。

「凄い……! 本当に注文通り……あたしの理想の靴です! ……あたしの夢の中から、飛び出してきたみたい……!」

 胸の奥から熱いモノが込み上げた。初対面では不機嫌な顔を隠そうともせず、足の採寸や打ち合わせの際には私に品定めの目を向けてきた彼女が初めて、噓偽りなどないであろう心からの喜びを見せてくれたのだ。

 私にとってこれ以上の誉れはない。

 お客様にとって満足のいくものを作れたという達成感と安堵感が一気に溢れ出し、立ち上がることも適わなかった。

「新婦様のご希望通りの靴を作るなんて、まさに職人技ですねー!」

「オーダーメイドシューズって聞いたことはあるけど、実物を見たのは初めてです。個人的に興味が沸いてきたので、お名刺いただけます?」

 スタッフさん方から拍手と称賛の声をいだだいても、私はまだ脳味噌が現実に追いつかずにふわふわした気持ちのままだった。

「新郎様にも見てもらいましょうか。お呼びしますね」

 新郎様、という単語でようやく私は現実に戻ってきた。

 なにせ最初にウエディングシューズ製作の相談してくれたのは瀬川さんだ。「この店になら花嫁の靴を任せられるかもしれない」と期待して『サン・メイド』に足を運んで来てくれた彼の信用を裏切りたくはなかった。

 やがて扉が開き、タキシードを着た瀬川さんが入室した。一礼はしたものの、彼の視界に私やスタッフさんが入っていないことは明白だった。

 瀬川さんは今、愛する妻の姿しか見えていない。

 可愛らしく小首を傾げた恵梨香さんがドレスの裾をたくし上げ、足先に誂えられたウエディングシューズを瀬川さんに見せると、彼は顔を綻ばせて頷いた。

「恵梨香。よく、似合っているよ」

 瀬川さんの恵梨香さんを見つめる瞳は本当に慈愛に満ちていて、履く人だけではなく周りの人にもこんな表情をさせられる靴を作れたことに、私は心からの喜びを覚えた。

 今回の注文後の仕様変更について、私の対応が正しかったのかどうかはわからない。今は注文数自体が少ないから辛うじて対応できただけであって、毎回はとても不可能だ。

 しかしお客様にどんな事情があったとしても、特別対応に応じるか否かの対応は一貫しなければならない。お客様を選ぶなんて不公平で不誠実な対応は、店の評判を最悪なものにしてしまうからだ。

 反省すべき点も改善しなければならない点もたくさんあるけれど、それでも。

 今回の仕事は、私をとても幸せな気持ちにさせてくれたことは間違いなかった。

「瀬川様。完成が遅れてしまい、式当日までご迷惑をおかけする形となってしまったことをお詫びいたします。申し訳ありませんでした」

 いくら着地に成功したとはいえ、本来であれば昨日納品しなければならなかったのだ。

 納期に間に合わなかったことと、忙しい中時間を割かせてしまったことを謝罪するために、私は二人の前で深く腰を折った。

「顔を上げてください。こんな素敵な靴を履いて一生に一度の日を迎えられるなんて、あたし本当に幸せです! 夏目さんにお願いして良かったです! ありがとうございました!」

 これまでの苦労も苦悩も全部吹っ飛ぶくらいのとびっきりの笑顔と言葉をもらえた私は、ある種の想いが目頭まで到達して、ついに我慢できずに主役である花嫁より先に涙ぐんでしまった。

「……お喜びいただけて光栄です! 瀬川様、恵梨香様、ご結婚おめでとうございます! 末永くお幸せに!」

 肩を寄り添って微笑み合う二人は本当にお似合いで、とても幸せそうだった。

 そんな二人の新しい人生のスタートラインを飾る靴を私が作ったことを、恵梨香さんの足元で煌めくシンビジウムの花を見ながら、心から誇らしく思った。

          ◇

 大切な式の邪魔にならないよう早々に退散し、式場を出た。今日は本当に雲一つない快晴で、晴れの日に相応しい天候だった。

 私にとって一生忘れられないお客様がこの先ずっと、幸せでいられますように。

 あのウエディングシューズを見る度に、今日の幸せを二人が思い出してくれますように。

 なんて、二人の幸せオーラにあてられている私は、夏帆あたりに聞かれたら指を差して笑われそうなポエムを胸中で呟いていた。

 メッセージを受信したスマホがポケットの中で震えた。取り出してみて初めて、陽葵からメッセージと着信が鬼のようにきていることに気がついた。

『間に合った?』『心配だよ』『今どこ?』

 怒涛の連続メッセージから陽葵の心配が伝わってくる。すぐに電話をかけると、一コールも鳴らないうちに繋がった。

『もしもし曜ちゃん!? 大丈夫!?』

「心配かけてごめん。無事に納品したよ。これから店に戻る」

 今日は日曜日だ。たとえ前日に徹夜して肌も髪もボロボロでも、『サン・メイド』は通常営業日なのである。

『今日くらい休めばいいのに……って言うと、曜ちゃんに怒られるからやめとくね。間に合って良かったー! 花嫁さん、綺麗だった?』

 背筋の伸びた恵梨香さんの美しい花嫁姿と、そんな彼女を誇らしげに見つめる瀬川さんの優しい眼差しが瞼に焼きついていて、しばらくは忘れられそうにない。

「綺麗だったし、幸せそうだった。赤ちゃんが産まれたら今度はファーストシューズの製作をお願いするつもりだって言ってくれてさ、本当に嬉しかった。……いつか私も、ウエディングドレスを着る日が来るのかな。今は想像もできないけど」

『曜ちゃん、男っ気ないからなあー。正直、今はウエディングドレスを着ている姿は想像できないかも。……でもね、誰かと喜びや苦労を分かち合いたいって思ったときには、わたしが曜ちゃんの側にいるからね!』

 陽葵は私が無意識のうちに望んでいた言葉を、あっさりと口にした。

「……同居してるわけだから、嫌でも一緒にいるしかないでしょ。じゃあ、もう切るね。そろそろ店に戻らないと時間がやばい」

 照れ臭さから感謝の言葉を言えず、結局はいつものように素っ気ない返事になってしまった。

「今日は早く帰る。おでんと、祝杯の準備をお願い」

『……うん! 任せて! 自分で言うのもアレだけど、わたしの作るおでんは絶品だよ?』

 二月の冷たい空気に、熱い息が白く溶けていく。

 受話口から聞こえる陽葵の嬉しそうな声が、私の口元を緩ませた。