今日は10月31日。
わたしの43歳の誕生日である。
今日の夜は、部長が選んでくれたお店で外食することになっていた。
午前中、突然部長に会議室にひとり呼び出される。
きゅっと心臓が縮んだ。
あまりいい予感はしない。
会議室に入って、開口一番部長はこう言った。
「白川さん、正社員になる気はない?」
「え?」
「会社としては、来年一月から白川さんを正社員として登用したいと考えているの」
「はあっ?!」
変な声しか出せなかった。
「定年の近づいている私がまだ会社にいるうちに、白川さんに色々教え込みたいと思ったから」
部長が微笑みながら続ける。
信じられなかった。
気持ちが一気に急上昇して、ふわふわと落ち着かない。
「悪い話じゃないと思うから、少し考えてみて。
ただし、このことはまだ、他の人に口外しないようにね」
「分かりました」
何食わぬ顔で会議室を出る。
「白川さん、大丈夫だった?」
同じ課の人が心配して声をかけてくれたが、
「トイレに、行ってきます!」
大声でトイレに行くことを宣言してごまかすことしかできなかった。
トイレから帰ってきても浮遊感は消えなくて、気持ちは落ち着かないままだ。
正社員か……。
それに選ばれることがどんなに大変なことか、もちろん知っている。
なりたくてもホイホイ簡単になれるものではない。
しかも、こちらから望んだわけではなくて、会社からの打診だったということがとりわけうれしかった。
もちろん、あえて契約社員を選んでいた理由はいくつかあったが、それでも自分がこれまで頑張っていたことが会社から認められたような気がして、その事実だけで心が満たされる。
思いがけず素晴らしい誕生日プレゼントをもらった気分だった。
昼休みに、この部署の契約社員が何人いるのか、ふと思いついて数えてみる。
片手では数え切れず、結局9人いることが分かった。
契約社員は全員女性だった。
課は違うが、どの人も顔と名前は分かるし、どんな仕事をしているのかもある程度は把握している。
その中で、正社員になりたいと言っている人がいたことも思い出した。
契約社員だけで飲み会をしたときのことだった。
その人は、この会社に入りたくて、でも新卒では採用試験に落ちて、一旦は別の会社に入ったがその間に家庭の事情で色々あり、中途採用も難しく、ようやく契約社員としてこの会社に何とか入ることができたのだということを言っていた。
部長からは聞いていないが、様子からしておそらく、この部署から正社員登用を打診されたのはわたしだけだろう。
わたしは正社員なんて、はなからなるつもりはなかった。
なりたくてこの会社に入ったわけでもないし、別の会社でもそんなことを考えたこともない。
正社員登用制度の有無を確認していないくらいだ。
継続した同じ場所での人間関係の煩わしさから、こちらから契約更新を断ったことも過去にはあった。
そんなわたしが正社員登用を打診されてそれを受けた場合、他のもっとなりたかった人が正社員になるチャンスを自分が奪ってしまうことになるのではないか。
その考えに至った途端、急に浮遊感が消え、逆に重しのような重さが身体にのしかかってきたように感じた。
部長と二人だけの誕生日会でも、気分が晴れない。
せっかくの誕生日なのに。
せっかく部長が選んでくれたお店なのに。
自分の心の中にだけ理由を留めて暗い顔を見せるよりも、部長にいっそぶちまけて理解してもらった方がいいかもしれないとわたしは考えた。
「部長、正社員登用の話ですけど」
「ええ、どうかしら?」
「本当によかったんでしょうか、わたしで。
この部署にもっと正社員になりたがっていた人もいたのになと思うと、心苦しくて」
部長は少し厳しい顔になって、こう言い放った。
「あのさ、それってあなたを選んだ私たちにセンスがなかったとか見る目がなかったとかそういうことを言いたいわけ?」
ハッとする。
自分を選んでくれた部長たちに、あまりにも失礼な態度だったと遅まきながら間違いに気づく。
「すみませんでした」
「もっと自分に自信を持ちなさい。
あなたは選ばれたの。
それは、あなたが頑張ってきた姿を周りが見ていたから。
もちろん、あなたに正社員登用を打診するにあたって、人事部とも部署の全課長とも上層部とも話し合って決めたことだし、他の候補者もいた。
私ひとりの独断で決めたわけでもない。
だから結局はあなた自身の成果なの。
降って湧いたように見えるけど、自分でたぐり寄せた幸せは責任を持ってきちんと受け取れる自分にならないとね」
部長の言葉が胸に響く。
自分に自信がなくて、なぜ選ばれたのかだけに囚われてしまっていた。
今、わたしが大事にするべきは、自分が主体的に関わったわけではない選考プロセスではなくて、選ばれたという結果だ。
その事実だけは動かない。
これまでは正社員という立場から自分で無意識に逃げて、本当は欲しいと思っているのに、わたしには受け取る価値がないからと、自己否定の気持ちから契約社員を選んでいたのかもしれない。
他人から否定され続けて苦しかった最初の会社の経験があったから。
でも、今の会社は違う。
わたしの表立っていない頑張りをこうやってきちんと評価してくれるような場所だ。
何より、部長の下で、もっと長くしっかり働きたい。
そんな場所でもう一度頑張れるチャンスをもらえたのだから、せっかくだし勇気を出して飛び出してみようかな。
ダメならダメでまた契約社員に戻ればいい。
失うものなんてない。
「わたしを選んでくださってありがとうございます」
心から感謝を述べた。
「じゃあ、打診を受ける決意は固められた?」
「はい、選んでいただいたことに誇りを持って、やってみたいと思います」
「そう、よかった!
安心したわ」
ほっとしたような部長の表情を見て、わたしも心が緩む。
「大丈夫よ、これから馬車場のように働いてもらうから、期待してる」
「えーっ、それは!」
部長は慌てるわたしを見て、笑いながら赤ワインの入ったグラスに口をつけた。
家に帰ると、初めてニイちゃんがわたしの目の前に姿を見せてくれた。
「ニイちゃんだ!」
駆け寄ると瞬時に逃げられ、どこに行ったのか分からなくなった。
「ニイも、白川さんの誕生日と正社員登用をお祝いしてくれたのかもね」
「ありがとう、ニイちゃん」
ハッピーバースデイ、わたし。
おめでとう、わたし。
わたしは、欲しいものを欲しい形で受け取っていい。
わたしの43歳の誕生日である。
今日の夜は、部長が選んでくれたお店で外食することになっていた。
午前中、突然部長に会議室にひとり呼び出される。
きゅっと心臓が縮んだ。
あまりいい予感はしない。
会議室に入って、開口一番部長はこう言った。
「白川さん、正社員になる気はない?」
「え?」
「会社としては、来年一月から白川さんを正社員として登用したいと考えているの」
「はあっ?!」
変な声しか出せなかった。
「定年の近づいている私がまだ会社にいるうちに、白川さんに色々教え込みたいと思ったから」
部長が微笑みながら続ける。
信じられなかった。
気持ちが一気に急上昇して、ふわふわと落ち着かない。
「悪い話じゃないと思うから、少し考えてみて。
ただし、このことはまだ、他の人に口外しないようにね」
「分かりました」
何食わぬ顔で会議室を出る。
「白川さん、大丈夫だった?」
同じ課の人が心配して声をかけてくれたが、
「トイレに、行ってきます!」
大声でトイレに行くことを宣言してごまかすことしかできなかった。
トイレから帰ってきても浮遊感は消えなくて、気持ちは落ち着かないままだ。
正社員か……。
それに選ばれることがどんなに大変なことか、もちろん知っている。
なりたくてもホイホイ簡単になれるものではない。
しかも、こちらから望んだわけではなくて、会社からの打診だったということがとりわけうれしかった。
もちろん、あえて契約社員を選んでいた理由はいくつかあったが、それでも自分がこれまで頑張っていたことが会社から認められたような気がして、その事実だけで心が満たされる。
思いがけず素晴らしい誕生日プレゼントをもらった気分だった。
昼休みに、この部署の契約社員が何人いるのか、ふと思いついて数えてみる。
片手では数え切れず、結局9人いることが分かった。
契約社員は全員女性だった。
課は違うが、どの人も顔と名前は分かるし、どんな仕事をしているのかもある程度は把握している。
その中で、正社員になりたいと言っている人がいたことも思い出した。
契約社員だけで飲み会をしたときのことだった。
その人は、この会社に入りたくて、でも新卒では採用試験に落ちて、一旦は別の会社に入ったがその間に家庭の事情で色々あり、中途採用も難しく、ようやく契約社員としてこの会社に何とか入ることができたのだということを言っていた。
部長からは聞いていないが、様子からしておそらく、この部署から正社員登用を打診されたのはわたしだけだろう。
わたしは正社員なんて、はなからなるつもりはなかった。
なりたくてこの会社に入ったわけでもないし、別の会社でもそんなことを考えたこともない。
正社員登用制度の有無を確認していないくらいだ。
継続した同じ場所での人間関係の煩わしさから、こちらから契約更新を断ったことも過去にはあった。
そんなわたしが正社員登用を打診されてそれを受けた場合、他のもっとなりたかった人が正社員になるチャンスを自分が奪ってしまうことになるのではないか。
その考えに至った途端、急に浮遊感が消え、逆に重しのような重さが身体にのしかかってきたように感じた。
部長と二人だけの誕生日会でも、気分が晴れない。
せっかくの誕生日なのに。
せっかく部長が選んでくれたお店なのに。
自分の心の中にだけ理由を留めて暗い顔を見せるよりも、部長にいっそぶちまけて理解してもらった方がいいかもしれないとわたしは考えた。
「部長、正社員登用の話ですけど」
「ええ、どうかしら?」
「本当によかったんでしょうか、わたしで。
この部署にもっと正社員になりたがっていた人もいたのになと思うと、心苦しくて」
部長は少し厳しい顔になって、こう言い放った。
「あのさ、それってあなたを選んだ私たちにセンスがなかったとか見る目がなかったとかそういうことを言いたいわけ?」
ハッとする。
自分を選んでくれた部長たちに、あまりにも失礼な態度だったと遅まきながら間違いに気づく。
「すみませんでした」
「もっと自分に自信を持ちなさい。
あなたは選ばれたの。
それは、あなたが頑張ってきた姿を周りが見ていたから。
もちろん、あなたに正社員登用を打診するにあたって、人事部とも部署の全課長とも上層部とも話し合って決めたことだし、他の候補者もいた。
私ひとりの独断で決めたわけでもない。
だから結局はあなた自身の成果なの。
降って湧いたように見えるけど、自分でたぐり寄せた幸せは責任を持ってきちんと受け取れる自分にならないとね」
部長の言葉が胸に響く。
自分に自信がなくて、なぜ選ばれたのかだけに囚われてしまっていた。
今、わたしが大事にするべきは、自分が主体的に関わったわけではない選考プロセスではなくて、選ばれたという結果だ。
その事実だけは動かない。
これまでは正社員という立場から自分で無意識に逃げて、本当は欲しいと思っているのに、わたしには受け取る価値がないからと、自己否定の気持ちから契約社員を選んでいたのかもしれない。
他人から否定され続けて苦しかった最初の会社の経験があったから。
でも、今の会社は違う。
わたしの表立っていない頑張りをこうやってきちんと評価してくれるような場所だ。
何より、部長の下で、もっと長くしっかり働きたい。
そんな場所でもう一度頑張れるチャンスをもらえたのだから、せっかくだし勇気を出して飛び出してみようかな。
ダメならダメでまた契約社員に戻ればいい。
失うものなんてない。
「わたしを選んでくださってありがとうございます」
心から感謝を述べた。
「じゃあ、打診を受ける決意は固められた?」
「はい、選んでいただいたことに誇りを持って、やってみたいと思います」
「そう、よかった!
安心したわ」
ほっとしたような部長の表情を見て、わたしも心が緩む。
「大丈夫よ、これから馬車場のように働いてもらうから、期待してる」
「えーっ、それは!」
部長は慌てるわたしを見て、笑いながら赤ワインの入ったグラスに口をつけた。
家に帰ると、初めてニイちゃんがわたしの目の前に姿を見せてくれた。
「ニイちゃんだ!」
駆け寄ると瞬時に逃げられ、どこに行ったのか分からなくなった。
「ニイも、白川さんの誕生日と正社員登用をお祝いしてくれたのかもね」
「ありがとう、ニイちゃん」
ハッピーバースデイ、わたし。
おめでとう、わたし。
わたしは、欲しいものを欲しい形で受け取っていい。