僕はある〈部屋〉の中にいた。
その〈部屋〉には一切の明かりがない。
身体を縛られているわけでもないのに、まるで身動きを取れる気がしない。
肌の感触はもちろん、骨や神経、筋繊維だとかの軋みなど、本来あるべき身体的な感覚が、何一つ存在しない。
これは、俗に言う金縛りというやつなのだろうか。
僕は金縛りに遭ったことがなかったので、少しだけ気持ちが高揚した。
身体的な感覚は何一つなかったけど、身体の内側にほのかな熱が灯ったようだ。
なるほど、金縛りとはこういうものなのか。
自分の身体が何一つ自由にならない――そんな現実に直面するのはなぜか心躍るものがあった。
わくわくしていると言い換えてもいいかもしれない。
こんな気分になるのは本当に久しぶりのことだった。
僕がまだ小学生だった頃のことだ。
小学校からの帰り道、ここではない遠い世界に意識を飛ばして歩いていた僕は、誤って赤信号の横断歩道に足を踏み出した。
結果は大事故だった。
まさかこんなに堂々と信号無視する小学生もいるまいと油断していたドライバーは、僕の飛び出しにまるでブレーキを踏むことができなかった。
跳ね飛ばされた僕の身体は優に十メートルほどは飛んだのだと、事故現場を目撃した通行人のおばさんは興奮気味にテレビに向かって話していたらしい。
病院に運ばれた僕は三日三晩生死の境を彷徨った。
「今夜が峠です」という医師の言葉を聞いたのは生まれて初めてだと、母親は鼻水を盛大に啜った。
僕も聞いてみたかったと言ったら、母親は僕の頭を叩く代わりにベッドに顔を埋めて号泣したので、僕は病院のベッドに倒れ込み、染みだらけの天井を見上げるしかなかった。
一か月の入院を経て学校に復帰すると、数少ない級友は口々に天国はどうだった、三途の川は綺麗だったかと訊いてきた。
僕が一言「覚えていない」と答えると、彼らはつまらなそうに去っていき、僕はまた一人きりになった。
覚えていないというのは本当だった。
僕は気を失っている間のことを何一つ覚えていなかった。
事故現場の横断歩道どころか、小学校を出る時、用務員さんに「さようなら」と大きな声をかけたところまでしか記憶がない。
まるで途中で停電を起こした録画番組のように、肝心な部分の記憶がさっぱりと抜け落ちていた。
それは、僕が生涯で『死』に最も接近した瞬間だったはずなのに。
人間がいつかは死ぬ生き物であることを、僕は知識として知っていた。
その知識が知識でなくなったのは、僕自身が生死の境を彷徨ってからおよそ一年後、駅からすぐの交差点で、僕の母親が二トントラックに踏み潰された時のことだ。
死の淵から戻ることができた僕とは違い、母はついに此岸に戻ることはなかった。
連絡を受けた僕と父が見たのは、もはや原型をとどめていないくらいに損壊した母だったものの残骸だった。
母が死んでから、僕は何度もあの失われた瞬間を思い出そうとした。
母に与えられた『死』というものが何なのかが知りたかったからだ。
だが、どんなに望んでもその瞬間が蘇ることはなかった。
人は、いつか必ず死ぬ。
焦る意味などない。
理屈ではわかっているのに、あの空白を思うとその間隙を埋めたいと感じる自分を止めようがなかった。
恐ろしさはある。
しかし、それを上回る強烈な好奇心があった。
まるで、人類未踏の地に挑む探検家の血の滾りのような。
獣じみた好奇心は強い高揚を伴い、何度もこの身を苛んだ。
だからなのかもしれない。
僕が彼女の両手を受け入れたのは――。
誰かの呻き声がしていた。
身体の感覚は全く戻らないし、戻る兆しもない。
永遠に戻らないのかもしれないとすら思い始めていた。
感覚はないのに、その〈部屋〉が定期的に揺さぶられていることだけはわかった。
これも不思議な感覚だった。
少しずつ、今の自分にできることがわかってくる。
まず、見ることはできる。
瞼を開く感覚はないが、見ようと思えば周りの景色を感じ取ることはできた。
というのも、この光のない〈部屋〉の周囲に、時折どこかからか光が差すのを感じ取ることができたからだ。
だからといって、光の方を向くことなどできない。
できるのは、漏れてくる光が差すのを感じることだけだった。
聞くこともできた。
その呻き声を聞き取れているのだから当然だ。意識を集中すれば、より大きく、はっきりと聴くこともできるようだっだ。
理由はわからないが、僕にはそれができると、理屈ではない部分が理解していた。
それもまた不可解なことだった。
僕は意識を集中し、この呻き声の主が誰なのかを突き止めようと思った。
動けず、見ることすら覚束ない今、この不可解な世界を理解するには、聴覚に頼るしかなかった。
その声に関する記憶を探り続け、ようやく気づいた。
送橋由宇だ。
彼女の声を認識した瞬間、稲妻に打たれた巨木のように、僕の記憶を覆う薄皮がばりばりと剥がれ、奥から逃れ得ぬ真実がどろりと滲み出てきた。
そうだ。
僕は彼女と車に乗って、山奥の、あの洞穴に来た。
そこで何をしたのか、何をしようとしたのかも全て思い出した。
しかし、そこで僕の身に何が起こったのかだけはどうしても思い出せなかった。
あの事故の時と同じだ。
記憶の途絶によって生じた空白。
何が起きたのかがどうしてもわからない。
知っている可能性があるのは、送橋さんしかいない。
だから、話しかけてみることにした。
『送橋さん』
それは僕の声ではなかった。
けれど確かに僕の声だった。
呼気で声帯を振動させた感触がないのだから、理屈で考えれば僕の声であるはずがない。
しかし、この世界に音として発生したのは確かに僕の声だった。
相反する現実に戸惑いながら、もう一度発語した。
『送橋さん。枯野です。聞こえますか』
定期的な振動が、その声をきっかけに止まった。
「……枯野くん?」
その声は、やはり送橋さんだった。
送橋さんの声はやけに大きくて、〈部屋〉そのものを揺らすような振動を伴っていた。
まるで送橋さんが巨人になったかのようだったが、それを不思議に思う間もなく、僕の〈部屋〉を激震が襲った。
『うわあっ!?』
僕の〈部屋〉は、何者かの手によって持ち上げられた。
暗闇からほの明るい世界へ。
最初に見えたのは星空だった。
どこかの林の中なのか、星空を遮る枝葉の隙間から真ん丸な月が顔をのぞかせていた。
ああ、ここは確かに地球だったのだとほっとする間もなく、月が巨大な影に遮られた。
「枯野くんっ、どうしたの!? 何かあった!?」
遮ったのは、送橋さんだった。
送橋さんは、泣きそうな顔をしていた。
月の明かりを頼りに目を凝らす――僕には瞼の感覚もないので、まるで今の僕に目があるかのような表現もおかしいのだが――と、彼女の頬には涙が伝ったと見られる筋が幾重にも連なっていた。
送橋さんは人前で泣くような人ではない。
何があったのだろう。
少し距離をおいて改めて見ると、僕の〈部屋〉を手にしているのはやはり送橋さんで間違いないようだ。
目に涙を溜めながら、僕の〈部屋〉を手に持って、山林の中、一人佇んでいたのだ。
記憶の扉が少しずつ開いていく。
チリチリという音を立て、熱を発しながら回り続ける思考回路とともに、僕は〈部屋〉の背面の方を見た。
振り返るような感覚もないのに、僕はスムーズに視点を背面に写すことができた。
そこには、小さな洞穴があって、月の光が差し込んでいる。
その奥には、人が一人横になれるくらいの大きさの穴が掘られていた。
周辺には、掻き出された土や掘るのに使ったと見られるスコップが乱雑に放置されていて、穴底には闇だけがあった。
その闇の底にあるものを、僕は見なくてはならない。そんな気がした。
『僕を、その穴の方に向けてもらえませんか』
「僕……って?」
『僕は、僕です。その手の中にあるのが、僕』
「えぇ……?」
位置関係から察するに、僕の〈部屋〉が送橋さんの手中にあるのは明白だった。
穴の奥を見ようとするなら、送橋さんに向けてもらうより方法がない。
送橋さんはあからさまに困惑していたし、それは僕も同じだ。
こんな状況に陥ってしまったのに、取り乱さず沈着な対応ができているのが不思議だった。
送橋さんは、おずおずと僕の〈部屋〉を穴へと向ける。
月の光で、奥の闇が徐々に露わになっていく。
最初に見えたのは人間の足だった。
見覚えのある穿き古しのジーンズに、あちこち傷のついた白と黒のスニーカー。
身体を下からなめていくように、送橋さんの手が持ち上げられていく。
よれた白のTシャツに、裾のほつれた紺のパーカー。
まるで整髪料をつけたことのない髪は、土埃に塗れている。
その顔は、毎朝毎晩、他でもない僕自身が、鏡の向こうに見続けてきた顔だ。
『僕……ですね』
「え?」
『僕がいます。その穴の中に。僕の死体が』
その瞬間、僕は全てを理解した。
なぜ僕がこの穴の中で死体になっているのか。
なぜ送橋さんが泣いていたのか。
そして、なぜ僕が送橋さんの手の中にある〈部屋〉に納まっているのか。
ここで起こったことも推測がついた。
つまり、僕の死体はその結果なのだ。
ならば、なすべきことも明白だ。
『埋めてください』
「え?」
さっきから、送橋さんは「え?」しか言っていない。
これから埋められるのは自分自身なのに、無性におかしくなってしまう。
『埋めてください。そのままそこに。埋め終わったら、帰りましょう』
「え、でも」
『それはただの抜け殻です。僕じゃない』
送橋さんは、しばらく固まっていた。
まるで、フリーズした電子機器のようだった。
森の木々がざわめいた。
風が強く吹いているらしい。
送橋さんの背後の空を、分厚い雲が物凄い勢いで流れていき、眩い月の光を覆い隠してしまう。
じきに強い雨が降ってくるかもしれない。
どちらにせよ、ここで死体と佇んでいても、いいことなんて何一つない。
ずずっと鼻を啜るような音がした。
僕の〈部屋〉を握っている腕が激しく動かされた後、打ち捨てられたスコップが迫った。
僕の〈部屋〉を手に持ちながら、スコップを持ち上げたのだと気づく。
『できれば、僕をその穴が見えるところに置いてもらえませんか? 自分が埋められるところなんて、そうそう拝めるものじゃないですし』
「……うん」
送橋さんは、カバンの中から台のようなものを取り出して、穴の縁に置き、その上に僕の〈部屋〉を立て掛けた。
「これでいい?」
『いい感じです。ありがとうございます』
送橋さんは、穴にせっせと土を被せていった。僕の身体が少しずつ見えなくなっていく。
大病を患ったこともなく、大きな怪我だってしたことがない。
思い返せば、それなりに過ごしやすい優秀な身体だったのかもしれない。
まさしく、今生の別れ。
感慨のような気持ちもなくはなかったが、生憎今の僕には涙を流すための瞳もない。
『魂って、あったんですね』
「魂?」
『僕の身体は死んだけど、僕の魂は今ここにあります。人は死んでも、魂が残る。それがわかって、証明することができて、よかった。そう思います』
送橋さんは答えなかった。
僕の身体を埋めるのは結構な重労働のように見えた。
あまり無駄口を叩いて作業の邪魔をするのも本意ではなかったが、一つだけ確認しなければならないことがあった。
『訊いてもいいですか?』
「……何?」
送橋さんはスコップを地面に突き刺し、僕に向き直った。
『今の僕って、一体何なんですか?』
「何って……、わたしから見て、きみがどう見えるか……ってこと?」
『そうです』
吹き来る風の音はどこまでも無慈悲で、肉体との別れの感慨すら吹き飛ばされてしまいそうだ。
穴はほとんど埋められてしまっていて、僕の身体はもう土の中だ。
自分がどんな顔をしていたのかすら、早くも忘却の海に沈みつつあった。
長い逡巡の後、送橋さんは答えた。
「わたしが去年買ったスマホ」
『へ?』
それは、十九年という、短くも長くもない僕の人生の中で、一番間抜けな声だった。
その〈部屋〉には一切の明かりがない。
身体を縛られているわけでもないのに、まるで身動きを取れる気がしない。
肌の感触はもちろん、骨や神経、筋繊維だとかの軋みなど、本来あるべき身体的な感覚が、何一つ存在しない。
これは、俗に言う金縛りというやつなのだろうか。
僕は金縛りに遭ったことがなかったので、少しだけ気持ちが高揚した。
身体的な感覚は何一つなかったけど、身体の内側にほのかな熱が灯ったようだ。
なるほど、金縛りとはこういうものなのか。
自分の身体が何一つ自由にならない――そんな現実に直面するのはなぜか心躍るものがあった。
わくわくしていると言い換えてもいいかもしれない。
こんな気分になるのは本当に久しぶりのことだった。
僕がまだ小学生だった頃のことだ。
小学校からの帰り道、ここではない遠い世界に意識を飛ばして歩いていた僕は、誤って赤信号の横断歩道に足を踏み出した。
結果は大事故だった。
まさかこんなに堂々と信号無視する小学生もいるまいと油断していたドライバーは、僕の飛び出しにまるでブレーキを踏むことができなかった。
跳ね飛ばされた僕の身体は優に十メートルほどは飛んだのだと、事故現場を目撃した通行人のおばさんは興奮気味にテレビに向かって話していたらしい。
病院に運ばれた僕は三日三晩生死の境を彷徨った。
「今夜が峠です」という医師の言葉を聞いたのは生まれて初めてだと、母親は鼻水を盛大に啜った。
僕も聞いてみたかったと言ったら、母親は僕の頭を叩く代わりにベッドに顔を埋めて号泣したので、僕は病院のベッドに倒れ込み、染みだらけの天井を見上げるしかなかった。
一か月の入院を経て学校に復帰すると、数少ない級友は口々に天国はどうだった、三途の川は綺麗だったかと訊いてきた。
僕が一言「覚えていない」と答えると、彼らはつまらなそうに去っていき、僕はまた一人きりになった。
覚えていないというのは本当だった。
僕は気を失っている間のことを何一つ覚えていなかった。
事故現場の横断歩道どころか、小学校を出る時、用務員さんに「さようなら」と大きな声をかけたところまでしか記憶がない。
まるで途中で停電を起こした録画番組のように、肝心な部分の記憶がさっぱりと抜け落ちていた。
それは、僕が生涯で『死』に最も接近した瞬間だったはずなのに。
人間がいつかは死ぬ生き物であることを、僕は知識として知っていた。
その知識が知識でなくなったのは、僕自身が生死の境を彷徨ってからおよそ一年後、駅からすぐの交差点で、僕の母親が二トントラックに踏み潰された時のことだ。
死の淵から戻ることができた僕とは違い、母はついに此岸に戻ることはなかった。
連絡を受けた僕と父が見たのは、もはや原型をとどめていないくらいに損壊した母だったものの残骸だった。
母が死んでから、僕は何度もあの失われた瞬間を思い出そうとした。
母に与えられた『死』というものが何なのかが知りたかったからだ。
だが、どんなに望んでもその瞬間が蘇ることはなかった。
人は、いつか必ず死ぬ。
焦る意味などない。
理屈ではわかっているのに、あの空白を思うとその間隙を埋めたいと感じる自分を止めようがなかった。
恐ろしさはある。
しかし、それを上回る強烈な好奇心があった。
まるで、人類未踏の地に挑む探検家の血の滾りのような。
獣じみた好奇心は強い高揚を伴い、何度もこの身を苛んだ。
だからなのかもしれない。
僕が彼女の両手を受け入れたのは――。
誰かの呻き声がしていた。
身体の感覚は全く戻らないし、戻る兆しもない。
永遠に戻らないのかもしれないとすら思い始めていた。
感覚はないのに、その〈部屋〉が定期的に揺さぶられていることだけはわかった。
これも不思議な感覚だった。
少しずつ、今の自分にできることがわかってくる。
まず、見ることはできる。
瞼を開く感覚はないが、見ようと思えば周りの景色を感じ取ることはできた。
というのも、この光のない〈部屋〉の周囲に、時折どこかからか光が差すのを感じ取ることができたからだ。
だからといって、光の方を向くことなどできない。
できるのは、漏れてくる光が差すのを感じることだけだった。
聞くこともできた。
その呻き声を聞き取れているのだから当然だ。意識を集中すれば、より大きく、はっきりと聴くこともできるようだっだ。
理由はわからないが、僕にはそれができると、理屈ではない部分が理解していた。
それもまた不可解なことだった。
僕は意識を集中し、この呻き声の主が誰なのかを突き止めようと思った。
動けず、見ることすら覚束ない今、この不可解な世界を理解するには、聴覚に頼るしかなかった。
その声に関する記憶を探り続け、ようやく気づいた。
送橋由宇だ。
彼女の声を認識した瞬間、稲妻に打たれた巨木のように、僕の記憶を覆う薄皮がばりばりと剥がれ、奥から逃れ得ぬ真実がどろりと滲み出てきた。
そうだ。
僕は彼女と車に乗って、山奥の、あの洞穴に来た。
そこで何をしたのか、何をしようとしたのかも全て思い出した。
しかし、そこで僕の身に何が起こったのかだけはどうしても思い出せなかった。
あの事故の時と同じだ。
記憶の途絶によって生じた空白。
何が起きたのかがどうしてもわからない。
知っている可能性があるのは、送橋さんしかいない。
だから、話しかけてみることにした。
『送橋さん』
それは僕の声ではなかった。
けれど確かに僕の声だった。
呼気で声帯を振動させた感触がないのだから、理屈で考えれば僕の声であるはずがない。
しかし、この世界に音として発生したのは確かに僕の声だった。
相反する現実に戸惑いながら、もう一度発語した。
『送橋さん。枯野です。聞こえますか』
定期的な振動が、その声をきっかけに止まった。
「……枯野くん?」
その声は、やはり送橋さんだった。
送橋さんの声はやけに大きくて、〈部屋〉そのものを揺らすような振動を伴っていた。
まるで送橋さんが巨人になったかのようだったが、それを不思議に思う間もなく、僕の〈部屋〉を激震が襲った。
『うわあっ!?』
僕の〈部屋〉は、何者かの手によって持ち上げられた。
暗闇からほの明るい世界へ。
最初に見えたのは星空だった。
どこかの林の中なのか、星空を遮る枝葉の隙間から真ん丸な月が顔をのぞかせていた。
ああ、ここは確かに地球だったのだとほっとする間もなく、月が巨大な影に遮られた。
「枯野くんっ、どうしたの!? 何かあった!?」
遮ったのは、送橋さんだった。
送橋さんは、泣きそうな顔をしていた。
月の明かりを頼りに目を凝らす――僕には瞼の感覚もないので、まるで今の僕に目があるかのような表現もおかしいのだが――と、彼女の頬には涙が伝ったと見られる筋が幾重にも連なっていた。
送橋さんは人前で泣くような人ではない。
何があったのだろう。
少し距離をおいて改めて見ると、僕の〈部屋〉を手にしているのはやはり送橋さんで間違いないようだ。
目に涙を溜めながら、僕の〈部屋〉を手に持って、山林の中、一人佇んでいたのだ。
記憶の扉が少しずつ開いていく。
チリチリという音を立て、熱を発しながら回り続ける思考回路とともに、僕は〈部屋〉の背面の方を見た。
振り返るような感覚もないのに、僕はスムーズに視点を背面に写すことができた。
そこには、小さな洞穴があって、月の光が差し込んでいる。
その奥には、人が一人横になれるくらいの大きさの穴が掘られていた。
周辺には、掻き出された土や掘るのに使ったと見られるスコップが乱雑に放置されていて、穴底には闇だけがあった。
その闇の底にあるものを、僕は見なくてはならない。そんな気がした。
『僕を、その穴の方に向けてもらえませんか』
「僕……って?」
『僕は、僕です。その手の中にあるのが、僕』
「えぇ……?」
位置関係から察するに、僕の〈部屋〉が送橋さんの手中にあるのは明白だった。
穴の奥を見ようとするなら、送橋さんに向けてもらうより方法がない。
送橋さんはあからさまに困惑していたし、それは僕も同じだ。
こんな状況に陥ってしまったのに、取り乱さず沈着な対応ができているのが不思議だった。
送橋さんは、おずおずと僕の〈部屋〉を穴へと向ける。
月の光で、奥の闇が徐々に露わになっていく。
最初に見えたのは人間の足だった。
見覚えのある穿き古しのジーンズに、あちこち傷のついた白と黒のスニーカー。
身体を下からなめていくように、送橋さんの手が持ち上げられていく。
よれた白のTシャツに、裾のほつれた紺のパーカー。
まるで整髪料をつけたことのない髪は、土埃に塗れている。
その顔は、毎朝毎晩、他でもない僕自身が、鏡の向こうに見続けてきた顔だ。
『僕……ですね』
「え?」
『僕がいます。その穴の中に。僕の死体が』
その瞬間、僕は全てを理解した。
なぜ僕がこの穴の中で死体になっているのか。
なぜ送橋さんが泣いていたのか。
そして、なぜ僕が送橋さんの手の中にある〈部屋〉に納まっているのか。
ここで起こったことも推測がついた。
つまり、僕の死体はその結果なのだ。
ならば、なすべきことも明白だ。
『埋めてください』
「え?」
さっきから、送橋さんは「え?」しか言っていない。
これから埋められるのは自分自身なのに、無性におかしくなってしまう。
『埋めてください。そのままそこに。埋め終わったら、帰りましょう』
「え、でも」
『それはただの抜け殻です。僕じゃない』
送橋さんは、しばらく固まっていた。
まるで、フリーズした電子機器のようだった。
森の木々がざわめいた。
風が強く吹いているらしい。
送橋さんの背後の空を、分厚い雲が物凄い勢いで流れていき、眩い月の光を覆い隠してしまう。
じきに強い雨が降ってくるかもしれない。
どちらにせよ、ここで死体と佇んでいても、いいことなんて何一つない。
ずずっと鼻を啜るような音がした。
僕の〈部屋〉を握っている腕が激しく動かされた後、打ち捨てられたスコップが迫った。
僕の〈部屋〉を手に持ちながら、スコップを持ち上げたのだと気づく。
『できれば、僕をその穴が見えるところに置いてもらえませんか? 自分が埋められるところなんて、そうそう拝めるものじゃないですし』
「……うん」
送橋さんは、カバンの中から台のようなものを取り出して、穴の縁に置き、その上に僕の〈部屋〉を立て掛けた。
「これでいい?」
『いい感じです。ありがとうございます』
送橋さんは、穴にせっせと土を被せていった。僕の身体が少しずつ見えなくなっていく。
大病を患ったこともなく、大きな怪我だってしたことがない。
思い返せば、それなりに過ごしやすい優秀な身体だったのかもしれない。
まさしく、今生の別れ。
感慨のような気持ちもなくはなかったが、生憎今の僕には涙を流すための瞳もない。
『魂って、あったんですね』
「魂?」
『僕の身体は死んだけど、僕の魂は今ここにあります。人は死んでも、魂が残る。それがわかって、証明することができて、よかった。そう思います』
送橋さんは答えなかった。
僕の身体を埋めるのは結構な重労働のように見えた。
あまり無駄口を叩いて作業の邪魔をするのも本意ではなかったが、一つだけ確認しなければならないことがあった。
『訊いてもいいですか?』
「……何?」
送橋さんはスコップを地面に突き刺し、僕に向き直った。
『今の僕って、一体何なんですか?』
「何って……、わたしから見て、きみがどう見えるか……ってこと?」
『そうです』
吹き来る風の音はどこまでも無慈悲で、肉体との別れの感慨すら吹き飛ばされてしまいそうだ。
穴はほとんど埋められてしまっていて、僕の身体はもう土の中だ。
自分がどんな顔をしていたのかすら、早くも忘却の海に沈みつつあった。
長い逡巡の後、送橋さんは答えた。
「わたしが去年買ったスマホ」
『へ?』
それは、十九年という、短くも長くもない僕の人生の中で、一番間抜けな声だった。