案内してくれた女中に礼をいって、紗依は書庫に足を踏み入れた。
日光のあまり入らぬ書庫は薄暗く、古びた紙の匂いが漂う落ち着いた空気を湛えていた。
どこか懐かしいような感じは玖瑶家の書庫と似ている、と紗依は思う。
玖瑶家にも、代々の歴史を記した書物や貴重な文献を収めた書庫があった。
幼い頃は古い知識や家の歴史が詰まった書庫を、宝の蔵のように感じて目を輝かせたのを覚えている。
けれど、母と共に小屋に追いやられた後。
古い書物などあっても何の足しにもならない、と声高に訴える美苑の意向で大部分が売り払われ、彼女達の衣や装飾品に姿を変えてしまったのだ。
書庫はしっかりと手を入れ整頓されており、何処に何の書物があるかすぐに分かるようになっていた。
一覧に記された内容を見て、紗依の好奇心や向学心は大いに刺激されたものの、それは一先ず我慢、と自分に言い聞かせる。
紗依が書庫にきたのは矢斗について知る為だ。
蔵書一覧から求める情報が記された書物のある場所を探り、一冊ずつ手にとり、目を通していく。
そこには、かつて祭神として在りし日の矢斗の姿が記されていた。
人の姿を為した破邪の弓は、北家の人々に加護を与え、守り導いたという。
祭神は北家の者を慈しみ、北家の者は祭神を敬っていた。怒れる時は苛烈であるが、平素は慈悲深く寛大な神であり、きさくなところもあり多くの者に慕われていた……。
そこまで読み、紗依の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
人々に囲まれ嬉しそうに笑う矢斗と、矢斗を慕う多くの人々の姿が自然と脳裏に浮かぶ。
きっと幸せで穏やかな日々だったのだろう。
けれど、それならば何故矢斗は北家を去ったのか。
何の理由もなく務めを投げ出すとは到底思えない。余程のことがあったのだろうと思う。
それを求めて幾つかの書物を紐解いたけれど、理由については分からない。
矢斗について触れられていたのは『鵺退治』と呼ばれる事件に関する資料が最後だった。
「鵺……?」
その文字を見た瞬間、紗依の胸が跳ねた。
知らぬうちに、一筋冷たい汗が背筋を伝う。
理由もわからぬ禍々しさを感じると共に、既視感めいた感覚に、不思議な程胸が騒めく。
どこかで聞いたことがあっただろうか。もしかしたら、昔話などで耳にしたことがあるのかもしれないが、思い出せない。
早くなりかけていた呼吸を整える為に、深く息を吸って吐き、紗依は改めてその書物をめくった。
鵺退治は、矢斗が関わった怪異討伐であり、彼が人前に姿を現した最後であるとのこと。
事件の詳細としては、こうだ。
とある傾きかけた名家が、家門の再興を計って『鵺』と呼ばれていた怪異を呼び出した。
鵺と契約を結び、大きな力を得ようとしたらしい。
けれども制御を失い怪異は現世に解き放たれかけてしまう。
死を与えること容易ならざる鵺に対し、その家門の巫女と破邪の弓たる北家祭神……矢斗が討伐に当たった。
怪異を討伐することには成功した。だが、巫女は帰らぬ人となってしまったという。
そして矢斗も北家に戻ることはなく、人々の前から姿を消してしまった。
事件を機に、北家から祭神は失われた……。
「一体、その時に何があったの……?」
矢斗に務めを放棄させるほどの何かが、怪異討伐の際に起きたとういうことはわかった。
けれど、淡々と起きた出来事だけを語る文面には、それ以上は記されていない。
何かあったと分かるのは、鵺を呼び出した家門の巫女が命を落したということだけ。
何故に命を落したのか。死を与えることが容易ではなかったという怪異を、如何にして討伐したのか。
知りたくても、古書は何も答えてくれない。
「巫女が、亡くなった……」
共に務めに当たった相手が命を落したならば、優しい矢斗はさぞ悲しんだだろう。
哀しみに満ちた表情も、声も、何故かありありと想像できる気がして。脳裏に何かが過りかけた瞬間、紗依は険しい表情で胸元を抑えて蹲ってしまう。
心臓のあたりに痛みが生じたような気がした。まるで何かに射抜かれでもしたような、妙に生々しく鮮明な痛みが。
それと共に、胸を突くほどの哀しみがこみあがってくる。
伝えたい。せめて、最後に。
どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
だから、どうか……――。
その場に膝をついた紗依は、何とか落ち着こうと荒くなりかけた息を整えようとする。
せめてこの手にある書物だけは元に戻さないと、とふらつきながらも立ち上がりかけた時……その『声』は聞こえた。
『その棚は二重底になっている』
紗依は愕然として顔色を変える。
聞こえるはずのない声が、はっきりと聞こえたのだ。紗依の裡に響くようにして聞こえる、低く暗い声に血の気が引いていくのが分かる。
紗依を苦しめる『悪夢』の由来である、あの声が……。
紗依は夢の中にいるわけではない。今は確かに起きているのに、何故。
戸惑い顔色も言葉も無くす紗依に構うことなく、声は嗤いを含んだ声で尚も続ける。
『そこを開いて、真実を見つけるといい。お前が何より知りたがっていたことだ』
悪しき意図すら感じる声のいう通りになどしたくない。
けれども、知りたいという思いに抗うこともできない。
何故か感じるのだ。確かに、そこには紗依が知りたかったこと……矢斗が祭神であることを捨て、姿を消した理由があると。
期待して待つように黙した声に唇を噛みしめながら、紗依は棚の底を探るように触れる。
底は、声のいう通りに二重床の仕掛けがあった。
そこに隠されるようにして仕舞われていたのは……一冊の日記だった。
名から察するに過去の北家の主の一人だろう。何代前の方なのかは、時嗣達に確かめるしかないのだが。
他者の日記を垣間見ることに多少の後ろめたさはあったが、紗依は震えかける指で必死に頁をめくる。
――矢斗が姿を消して、もう一月になる。まだ心が癒えるには早すぎる。いや、永久に癒えぬかもしれない。
当主は、消えた矢斗を心配する心を綴っていた。
矢斗を慮り、その心の傷を憂う文面からは、当主と矢斗が良き関係を築いていたことが伺える。
真剣な表情で心情の記された文を追っていた紗依は、あるところで凍り付いたように動きを止める。
目を見張り、唇を震わせ。その箇所を……知りたいと願っていた、矢斗が姿を消すことになった理由に関わる記述を見つめた。
――矢斗は弦音を愛していた。唯一人と想う者を、自らの手で失ったことが耐えきれなかったのだろう。武具としての自らを呪う程に……。
弦音、とは亡くなった巫女の名だろうか。
それならば、矢斗は共に鵺討伐に当たった巫女を、愛していたということ……。
自らの手で、というのがどういうことなのかまでは知りようがない。
けれど、矢斗は目の前で愛する女性を失った。そして人々の前から消えた。
消えかけた小さな光となって紗依と出会うまでは、自らが何者であるかすら分からなくなっていた。
矢斗が北家からも、人々の前からも姿を消したのは。愛する女性を失ったから。
そして、哀しみゆえに武具である自らを呪い。否定して、否定し続けて、存在を保てなくなったから?
だからこそ矢斗はあのような姿……消えかけた儚い存在に……。
紗依の脳裏に、紗依を優しく慈しんでくれる矢斗の姿が蘇る。
私の天乙女と呼んでくれた小さな光だった矢斗。
紗依が驚き、或いは喜ぶたびに嬉しそうに微笑んでくれた矢斗。
どこか子供のように紗依に甘えてみせる矢斗。
紗依の『願い』を叶えられぬかと問い、見定める時間を願い、真摯に見つめた矢斗……。
いつしか、思うようになっていた。矢斗が、自分を想ってくれているのだろうかと。
けれど、ここに記されていたことが本当ならば。矢斗には唯一人と愛した女性がいる。その人の為に存在すら失いかける程に愛したひとが。
その女性……愛する巫女を亡くした悲しみで、自らを失いかけた矢斗。矢斗の愛が、今もなお亡き女性にあるというのなら。
ならばあの優しい弓神は、消えかけた己を救った恩義を返そうとしているだけなのではないだろうか。
矢斗が紗依に対してあれほど優しいのは。慈しみ、大切にしてくれるのは。
誰に対しても優しいであろう祭神が、不遇にあった小さな存在にむける、ただの――。
紗依の裡に生じた、認めたくないと思うその疑念を悟ったらしい声は低く笑いながら決定的な『事実』を告げた。
『破邪の弓が愛しているのは、今も昔も。巫女ただ一人だ』
紗依は力を失い、崩れるようにしてその場に膝をついてしまう。
嘘だと思いたい自分と、やはりと納得するどこか冷めた自分。
何時から、自分が偉大な存在に愛されるほどの人間であると錯覚していたのだろう。
矢斗には、唯一人と愛する女性がいる。
自分に向けられる情は、疑うべくもない。温かな慈しみは、確かなものだ。
けれどそれは人を恋うる気持ちでも愛でもなく、不遇にあった小さな者への……存在を繋ぎとめた友への情けでしかなかったのだ。
裡に響いていた声は、いつの間にか消えていた。
しかし紗依は、暫くの間言葉なく、その場にて俯き座り込んでしまっていた……。
日光のあまり入らぬ書庫は薄暗く、古びた紙の匂いが漂う落ち着いた空気を湛えていた。
どこか懐かしいような感じは玖瑶家の書庫と似ている、と紗依は思う。
玖瑶家にも、代々の歴史を記した書物や貴重な文献を収めた書庫があった。
幼い頃は古い知識や家の歴史が詰まった書庫を、宝の蔵のように感じて目を輝かせたのを覚えている。
けれど、母と共に小屋に追いやられた後。
古い書物などあっても何の足しにもならない、と声高に訴える美苑の意向で大部分が売り払われ、彼女達の衣や装飾品に姿を変えてしまったのだ。
書庫はしっかりと手を入れ整頓されており、何処に何の書物があるかすぐに分かるようになっていた。
一覧に記された内容を見て、紗依の好奇心や向学心は大いに刺激されたものの、それは一先ず我慢、と自分に言い聞かせる。
紗依が書庫にきたのは矢斗について知る為だ。
蔵書一覧から求める情報が記された書物のある場所を探り、一冊ずつ手にとり、目を通していく。
そこには、かつて祭神として在りし日の矢斗の姿が記されていた。
人の姿を為した破邪の弓は、北家の人々に加護を与え、守り導いたという。
祭神は北家の者を慈しみ、北家の者は祭神を敬っていた。怒れる時は苛烈であるが、平素は慈悲深く寛大な神であり、きさくなところもあり多くの者に慕われていた……。
そこまで読み、紗依の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
人々に囲まれ嬉しそうに笑う矢斗と、矢斗を慕う多くの人々の姿が自然と脳裏に浮かぶ。
きっと幸せで穏やかな日々だったのだろう。
けれど、それならば何故矢斗は北家を去ったのか。
何の理由もなく務めを投げ出すとは到底思えない。余程のことがあったのだろうと思う。
それを求めて幾つかの書物を紐解いたけれど、理由については分からない。
矢斗について触れられていたのは『鵺退治』と呼ばれる事件に関する資料が最後だった。
「鵺……?」
その文字を見た瞬間、紗依の胸が跳ねた。
知らぬうちに、一筋冷たい汗が背筋を伝う。
理由もわからぬ禍々しさを感じると共に、既視感めいた感覚に、不思議な程胸が騒めく。
どこかで聞いたことがあっただろうか。もしかしたら、昔話などで耳にしたことがあるのかもしれないが、思い出せない。
早くなりかけていた呼吸を整える為に、深く息を吸って吐き、紗依は改めてその書物をめくった。
鵺退治は、矢斗が関わった怪異討伐であり、彼が人前に姿を現した最後であるとのこと。
事件の詳細としては、こうだ。
とある傾きかけた名家が、家門の再興を計って『鵺』と呼ばれていた怪異を呼び出した。
鵺と契約を結び、大きな力を得ようとしたらしい。
けれども制御を失い怪異は現世に解き放たれかけてしまう。
死を与えること容易ならざる鵺に対し、その家門の巫女と破邪の弓たる北家祭神……矢斗が討伐に当たった。
怪異を討伐することには成功した。だが、巫女は帰らぬ人となってしまったという。
そして矢斗も北家に戻ることはなく、人々の前から姿を消してしまった。
事件を機に、北家から祭神は失われた……。
「一体、その時に何があったの……?」
矢斗に務めを放棄させるほどの何かが、怪異討伐の際に起きたとういうことはわかった。
けれど、淡々と起きた出来事だけを語る文面には、それ以上は記されていない。
何かあったと分かるのは、鵺を呼び出した家門の巫女が命を落したということだけ。
何故に命を落したのか。死を与えることが容易ではなかったという怪異を、如何にして討伐したのか。
知りたくても、古書は何も答えてくれない。
「巫女が、亡くなった……」
共に務めに当たった相手が命を落したならば、優しい矢斗はさぞ悲しんだだろう。
哀しみに満ちた表情も、声も、何故かありありと想像できる気がして。脳裏に何かが過りかけた瞬間、紗依は険しい表情で胸元を抑えて蹲ってしまう。
心臓のあたりに痛みが生じたような気がした。まるで何かに射抜かれでもしたような、妙に生々しく鮮明な痛みが。
それと共に、胸を突くほどの哀しみがこみあがってくる。
伝えたい。せめて、最後に。
どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
だから、どうか……――。
その場に膝をついた紗依は、何とか落ち着こうと荒くなりかけた息を整えようとする。
せめてこの手にある書物だけは元に戻さないと、とふらつきながらも立ち上がりかけた時……その『声』は聞こえた。
『その棚は二重底になっている』
紗依は愕然として顔色を変える。
聞こえるはずのない声が、はっきりと聞こえたのだ。紗依の裡に響くようにして聞こえる、低く暗い声に血の気が引いていくのが分かる。
紗依を苦しめる『悪夢』の由来である、あの声が……。
紗依は夢の中にいるわけではない。今は確かに起きているのに、何故。
戸惑い顔色も言葉も無くす紗依に構うことなく、声は嗤いを含んだ声で尚も続ける。
『そこを開いて、真実を見つけるといい。お前が何より知りたがっていたことだ』
悪しき意図すら感じる声のいう通りになどしたくない。
けれども、知りたいという思いに抗うこともできない。
何故か感じるのだ。確かに、そこには紗依が知りたかったこと……矢斗が祭神であることを捨て、姿を消した理由があると。
期待して待つように黙した声に唇を噛みしめながら、紗依は棚の底を探るように触れる。
底は、声のいう通りに二重床の仕掛けがあった。
そこに隠されるようにして仕舞われていたのは……一冊の日記だった。
名から察するに過去の北家の主の一人だろう。何代前の方なのかは、時嗣達に確かめるしかないのだが。
他者の日記を垣間見ることに多少の後ろめたさはあったが、紗依は震えかける指で必死に頁をめくる。
――矢斗が姿を消して、もう一月になる。まだ心が癒えるには早すぎる。いや、永久に癒えぬかもしれない。
当主は、消えた矢斗を心配する心を綴っていた。
矢斗を慮り、その心の傷を憂う文面からは、当主と矢斗が良き関係を築いていたことが伺える。
真剣な表情で心情の記された文を追っていた紗依は、あるところで凍り付いたように動きを止める。
目を見張り、唇を震わせ。その箇所を……知りたいと願っていた、矢斗が姿を消すことになった理由に関わる記述を見つめた。
――矢斗は弦音を愛していた。唯一人と想う者を、自らの手で失ったことが耐えきれなかったのだろう。武具としての自らを呪う程に……。
弦音、とは亡くなった巫女の名だろうか。
それならば、矢斗は共に鵺討伐に当たった巫女を、愛していたということ……。
自らの手で、というのがどういうことなのかまでは知りようがない。
けれど、矢斗は目の前で愛する女性を失った。そして人々の前から消えた。
消えかけた小さな光となって紗依と出会うまでは、自らが何者であるかすら分からなくなっていた。
矢斗が北家からも、人々の前からも姿を消したのは。愛する女性を失ったから。
そして、哀しみゆえに武具である自らを呪い。否定して、否定し続けて、存在を保てなくなったから?
だからこそ矢斗はあのような姿……消えかけた儚い存在に……。
紗依の脳裏に、紗依を優しく慈しんでくれる矢斗の姿が蘇る。
私の天乙女と呼んでくれた小さな光だった矢斗。
紗依が驚き、或いは喜ぶたびに嬉しそうに微笑んでくれた矢斗。
どこか子供のように紗依に甘えてみせる矢斗。
紗依の『願い』を叶えられぬかと問い、見定める時間を願い、真摯に見つめた矢斗……。
いつしか、思うようになっていた。矢斗が、自分を想ってくれているのだろうかと。
けれど、ここに記されていたことが本当ならば。矢斗には唯一人と愛した女性がいる。その人の為に存在すら失いかける程に愛したひとが。
その女性……愛する巫女を亡くした悲しみで、自らを失いかけた矢斗。矢斗の愛が、今もなお亡き女性にあるというのなら。
ならばあの優しい弓神は、消えかけた己を救った恩義を返そうとしているだけなのではないだろうか。
矢斗が紗依に対してあれほど優しいのは。慈しみ、大切にしてくれるのは。
誰に対しても優しいであろう祭神が、不遇にあった小さな存在にむける、ただの――。
紗依の裡に生じた、認めたくないと思うその疑念を悟ったらしい声は低く笑いながら決定的な『事実』を告げた。
『破邪の弓が愛しているのは、今も昔も。巫女ただ一人だ』
紗依は力を失い、崩れるようにしてその場に膝をついてしまう。
嘘だと思いたい自分と、やはりと納得するどこか冷めた自分。
何時から、自分が偉大な存在に愛されるほどの人間であると錯覚していたのだろう。
矢斗には、唯一人と愛する女性がいる。
自分に向けられる情は、疑うべくもない。温かな慈しみは、確かなものだ。
けれどそれは人を恋うる気持ちでも愛でもなく、不遇にあった小さな者への……存在を繋ぎとめた友への情けでしかなかったのだ。
裡に響いていた声は、いつの間にか消えていた。
しかし紗依は、暫くの間言葉なく、その場にて俯き座り込んでしまっていた……。