――明くる日の夕方。

 荷物を新しい住居に運び終えたリヒトさんと、運転手の帽子を被った僕は、列車の前で向かい合う。

「リヒトさん。この一ヶ月、本当に……ありがとうございました」

 僕は帽子を取りながら、深々と頭を下げた。
 リヒトさんは鼻の頭を掻き、困ったように笑う。

「いや、なんつーか……悪いな。お前を母親から引き離した癖に、中途半端にまた放り出しちまって」
「いいえ。僕、あの時リヒトさんに引き取られてよかったです。でないと、外の世界を知らないまま、一生あの部屋に閉じ込められていたかもしれませんから。それに、生きる為に必要なことは十二分に教わりました。僕、もう大丈夫です」

 そう言って、精一杯の笑顔を見せる。これ以上、この人に心配をかけないように。
 そんな僕の思いとは裏腹に、リヒトさんは腕組みをして、

「いやー、心配だなぁ。こないだ外に出たばかりの、まだ十一歳のガキんちょを一人で行かせるなんて」
「もうすぐ十二歳になります」
「そういう問題じゃねーよ。はぁ……ま、俺の人生は俺の人生、お前の人生はお前の人生だからな。考えたって仕方ない」

 リヒトさんは屈んで、僕に目線を合わせると、

「……クロル。お前は賢い。要領も良いし、勘もいい。だからこそ、傷付く前に先回りをして、本心を隠してしまうことがある。……本当の自分を否定するなよ。誰が何と言おうと、お前の生き方を決めるのは他でもない、"お前自身"だからな」

 瞳の奥まで見つめられ、僕は瞬きすらできずにそれを聞いた。
 リヒトさんは立ち上がり、

「ほら、やるよ。中古で悪いが、早めの誕生日プレゼントだ」

 言いながら、左手に着けていた腕時計を取り、僕に差し出した。ベルト部分が青い、文字盤の大きな、大人用の時計だ。

「え……いいんですか?」
「よく見ろ。もう午後五時になるぞ」

 言われて見れば、時計の針は今にも発車時刻を指しそうだった。

 出発は時間厳守であることを散々刷り込まれていた僕は、慌てて列車に乗り込んだ。
 二両目のドアの横にある開閉ボタンを押す前にリヒトさんの方を見ると、「早く行け」と言いながらシッシッと手を振られた。

 僕は……意を決して、ボタンを押す。
 ぷしゅーっと音を立て、僕とリヒトさんを隔てる客室のドアが閉まった。

 そのまま僕は、一両目の運転席へと向かう。
 そして、首から下げた笛をピィーッと鳴らし、ゆっくりと発進レバーを……

「………………」

 不安と、戸惑いと、名残惜しさに胸が締め付けられ。
 僕は、左側の窓……列車の外のリヒトさんに目を向ける。
 するとリヒトさんが、こちらに向かって叫んだ。


「何やってんだ! お前の列車だろ? お前以外、誰が動かすんだよ!」


 僕は、喉の奥がぎゅっと詰まって。
 それを吐き出すように、レバーをガコンと引いた。
 列車が、ゆっくりと動き出す。

 後ろに流れて行くリヒトさんを追って、僕は二両目に駆けた。
 ベッドの横の窓に張り付いたけれど、リヒトさんが見えたのは一瞬だった。

 だけど最後に、確かにその唇が、笑いながらこう動いたのがわかった。

「――上出来だ」

 そうして、クレイダーの運転手としての、僕の旅が始まった。



 * * * *



 ――リヒトさんと別れ、最初に訪れた街で。

 運転手になる手続きをしに、セントラル出張所へ向かうため……
 僕は、羽を隠していたリュックを、外した。
 リヒトさんが言うように、この羽を隠さずに生きてみようと思ったから。

 地図を確認する。出張所は、歩いて十分ほどの場所にあるようだった。
 午前十時。意を決して列車を降りると、たくさんの人が通りを行き交っていた。
 その中を俯きながら歩いていくけれど、黒い羽が視線を集めているのを感じる。

「なんだアレ……」
「あんなの初めて見た」
「なんでこの街に来たのかしら……」

 そんな声が聞こえてきて、僕はキャスケット帽を両手でギュッと掴んだ。鼓動が加速する。

 こんなこと、わかりきっていたじゃないか。
 それでも、乗り越えなきゃ。

 たった十分が永遠に感じられるくらい、長い長い距離に思えた。

 出張所に着いてからは、スムーズに手続きをすることができた。
 対応した職員さんも僕の姿に少し顔をしかめたが、何も言わなかった。

 運転手の登録手続きを終え、今度は列車に帰らなければならない。また、鼓動が速くなる。
 さっきの道は人が多くて、もう一度歩いて帰る勇気が出なかった。

 出張所で着替えたつなぎのポケットからガイドブックを取り出し、再び地図を確認する。
 少し遠回りになるけれど、人通りの少なそうな狭い路地があるようだ。そっちの道を使って、列車へ戻ろう。

 僕はキャスケット帽を目深に被り、列車を目指して歩き始めた。
 予想通り、選んだ道にはほとんど人がいなかった。

 よかった。このまま目立つことなく帰れそうだ。
 初めてにしては『上出来』じゃないか。
 そうでしょう? リヒトさん。

 そんなことを思った……直後。

「……わっ」

 ドン、と右側から、何かがぶつかってきた。
 僕は堪らず尻餅をつく。
 その弾みで、帽子が地面に落ちてしまった。

 見上げるとそこには、五歳くらいの男の子が立っていた。右の路地から走ってきて、僕にぶつかったらしい。向こうも驚いたように、ぽかんと立ち尽くしていた。

「だ……大丈夫?」

 僕は起き上がり、声をかける。
 男の子は相変わらず呆けた顔で僕を見つめていた。
 ……けれど、

「う……うわぁぁああん!」

 突然、堰を切ったように男の子が泣き出した。
 どうすればいいのかわからず、慌てふためいていると、

「きゃぁあああっ!」

 後ろから、叫び声が聞こえた。
 そちらを振り返るより早く、女性が駆け寄ってきて、男の子をひったくるように抱き締めた。どうやらこの子の母親らしい。
 その女性はキッと僕を睨み付けると……金切り声で、こう言った。

「うちの子に何をしたのよ! この悪魔!!」

 ――ドクン。
 心臓が、大きく跳ねるのを感じる。

 そして、思い出す。
 リヒトさんに連れ出された、あの日のことを。
 
 僕を囲む子どもたちの「悪魔だ!」と叫ぶ声。
 街の人々の異様な雰囲気。
 追い詰められた母さんの表情。
 それから――


『……こんな子………………私、知りません』
 

「はぁっ……はぁっ……」

 呼吸が上手くできず、胸を押さえる。
 冷や汗が止まらない。

 僕は足元に落ちたキャスケット帽を掴むと、逃げるように走り出した。
 振り返らず、とにかくがむしゃらに、走って、走って、走って……

 ひたすらに地面を蹴っていたら、いつの間にかクレイダーまで戻ってきていた。
 僕は車両に飛び乗り、客室のドアを閉める。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 床に膝をつく。
 身体がガクガクと震えている。
 頭もぐわんぐわん揺れている。

 ――ぱた。
 と、何かが床に落ちる音がして。

 それが自分の涙だということを認識するまでに、少し時間がかかった。
 


 ――それから僕は、リヒトさんからもらったリュックを手放せなくなった。
 羽を隠した僕には、やっぱりみんな優しい。
 僕も堂々と人に接することができる。

 これでいいじゃないか。
 傷付かないために、自分を偽ることの何が悪いんだ。

 どうせ独りなんだ。誰も裏切ってなんかいない。
 そう思っていたのに。
 そう思っていたかったのに――

 
 ――君に、出会ってしまった。