二百年前の大きな戦争の後――
 巨大な湖を中心に、その周囲に街が造られた。
 それが、現在の人類が住まう世界。

 三百六十五箇所あるそれぞれの街の経済状況や人口管理、犯罪などを取り締まっているのが"セントラル"――古い言い方をすれば、中央政府だ。

 セントラルは各街に出張所を設けているけれど、それを統括する本部が別に存在する。
 世界の中心である湖のさらに中心。そこに浮かぶ人工的に造られた島が、セントラルの本部だそうだ。

 母さんとリヒトさんは、十数年前にそこで研究者として働いていた。
 戦争後、大きく変わってしまった動植物の生態系の研究をしていたらしい。

 しかしある時、母さんは突然仕事を辞めた。
 仲の良かった同僚にも、何も言わずに。
 そのため、移住先も、子どもがいることも、教師として働いていることも、リヒトさんは先日母からの連絡を受けて初めて知ったらしい。それくらい、何の前触れもなく突然離職したのだ。

 おそらく僕の父親にあたる人と何かあって、僕を身籠って辞めることになったのだろうが、その父親の心当たりすらリヒトさんにはないと言う。
 リヒトさんは半年ほど前にセントラルでの仕事を辞め、今はクレイダーの運転手をしながら新しく住む街を目指しているそうだ。

 
「――お前の母ちゃんから連絡を受けたのが二週間前。向こうも俺が今クレイダーに乗っていることなんて知っているわけがなかったから、本当にたまたまタイミングが合って、引き取ることが決まったんだ。お前にとっちゃ最悪のタイミングだったかもしれないがな」

 リヒトさんは、言葉とは裏腹に悪びれる様子もなくそう言う。

 僕は、あのまま家を明け渡すことになって、僕の存在が街の住人に露見していたらどうなっていたのかと考えてみる。
 あの街の詳しいルールは知らない。けれど、嘘をつくことに対する住民の過剰な反応は、先ほど目の当たりにした通りだ。
 母親が嘘をつき続け、僕を――黒い羽の悪魔を隠していたことがバレていたら……

『死ぬよりひどい目に合わされる』

 リヒトさんの言葉と、街の人々の異様な雰囲気を思い出し、身体が震える。
 それがどういうことなのか、聞く勇気すらなかった。

 母さんと離れることは悲しい。本当は、側にいたい。
 例え嘘つきでも、僕を閉じ込めていた存在だったとしても、母さんは母さんだから。
 だけどこうすることで、母さんを『死ぬよりひどい目』に合わせずに済んだかと思うと……こうするより他になかったのかもしれないと思えた。

「さぁて、そういう訳で。不本意かもしれないが、お前は晴れて自由の身だ。これからどうするか、だが……」

 リヒトさんは、僕の方へ身を乗り出して言う。

「俺はもう降りる街を決めている。ここから一月ほど進んだ先にある街だ。だから、お前との付き合いはそこまでになる。それまでに世間のことを一通り教えておいてやるから、自分で生きる力を身に付けろ。いいな」

 そう真っ直ぐに言われたので、僕は首を縦に振るしかなかった。
 リヒトさんは再び気怠げな様子で、椅子の背もたれに身を預け、

「にしてもなぁー。お前の母ちゃんは、なんであんな街に住んだんだろうなぁ? 本当に謎だぜ」

 天井を仰ぎ見ながら、そう言った。
 それは、僕も抱いている疑問だった。母さんの過去はほとんど知らないけれど、あの街で生まれ育った人ではないことは、なんとなくわかっていた。

 リヒトさんは天井を向いたまま、目を細めて、言う。

「……俺な、正直、お前の母ちゃん見てるとムカついてくるんだよ。いっつも相手の顔色を伺って、ヘラヘラ調子を合わせて……何を考えているのかわかりゃしねぇ。あいつの口から本心っていうのを聞いたことがない気がするんだ。そんでそのまま、誰にも何にも言わずにセントラルを離れちまった……」

 どうやら僕が思っていた母さんの性格と、リヒトさんの中での母さんの印象は、重なる部分があるらしい。
 だからこそ……

「……だからこそ、なんであんな奴が、よりによって"嘘は禁止"の街に住むことにしたのか……まったく理解ができねぇ。結局お前を産んだことも、その存在すらも隠して、嘘をついて生きてきたんだろ? 本当に、何考えてんだかね……」

 リヒトさんは手で頭を押さえながら、呆れ顔でそう言った。


 僕も、この時はまだ、どうして母さんがあの街に住んで、どうしてリヒトさんに僕を託したのか、わからなかった。
 だけど……現在(いま)ならわかる。

 母さんは、常に相手の顔色を伺っている人だった。
 嫌われたり、否定されたりすることを、極端に怖がる人だった。
 そんな人が何故、嘘が罪にさえなるあの街に住むことにしたのか。

 嘘つきな自分を変えるため?
 自分の意見をはっきり言える人間になるため?

 最初はそうだったのかもしれない。
 けれどきっと、本当の理由は――

 ――自分が、嘘だらけだから。

 相手も同じように、上辺だけの言葉を言っているのではと、疑いながら生きるのが怖かったんだ。

 あの街なら、建前やお世辞ではない、相手の本音が聞ける。
 リヒトさんのように、思ったことをそのまま言ってくれる人の方が信用できる。
 そうすれば……自分だけが、安心して嘘をついていられる。

 そしてそれは、現在(いま)の僕と同じだった。
 リリアのように、純粋で真っ直ぐな……
 ポックルのように、飾らずさっぱりとした……
 そんな二人だったからこそ、僕は安心して嘘をつき続けることができた。

 誰の為でもない、ただ、自分が傷付くことを恐れただけの"嘘"。

 ……ああ、もう。
 現在(いま)なら本当に、痛いほどわかるんだ。
 母さんは、僕のためなんかじゃなく……

 自分が『悪魔を生んだ女』と蔑まれることを恐れて、僕を隠し続けていたのだということが。