いつになったら抜けられるのだろう。
 そんなことを思いながら、必死にもがく。暗闇を出られるかどうかもわからないまま、懸命に上へと向かっていく。
 とうの昔に腕の感覚は無くなった。それでも手は止めず、休むことだってしない。なにかに導かれるように、これしかできなくなったかのように、ひたすらに進んでいく。
 僕は今日、何年も暮らしてきたこの世界を、後にする。
 後悔なんてしたくない。だから目に映るすべてを焼きつけながら、今までのたくさんに感謝しながら、前だけを見据えている。
「あとすこし、あとすこし……」
 上へと向かうと決めてから、何度もこの言葉を呟いて、僕は自分を奮い立たせた。
 あと少しで光の届く世界に行ける。
 あと少しで世界を自由に羽ばたける。
「あとすこし」に続く言葉は、無限に広がった。そんな想いは、僕を前へと導いた。
 輝く未来を想像していながらも、世の中の厳しさは襲い掛かった。目の前にある土をかきわけても、かきわけても、新しい土が、僕の行く手を阻んだ。
 僕は今、本当に上へと向かっているのか。本当は外の世界なんて存在せず、この暗闇だけが、世界のすべてなのではないだろうか。
 そんなことだって、考えずにはいられなかった。
 それなのに、必死に腕を、身体を、動かしていくしかない。夢にまで見たあの世界を目指すには、こうする他はないのだから。
 たぶんこれが、本能というやつなのだと思う。
 やることが一つしか与えられないことは、窮屈に感じることもある。だけど、僕にとっては幸せ以外の何物でもない。それだけで生きていることを実感したし、すべてが報われる、そんな気持ちにさえなったからだ。
 きっと何かが変わると思わせてくれる――これ以上、心が希望を抱くこともないのだろう。
 不意に指先が、微かに優しく温かな温度に触れた。
「も、もしかして……」
 僕は初めて動くことを止めて、伸ばした腕をゆっくりと引いた。地面に小さな穴が開いていて、そこには見たことのない、明るさを纏った暗闇が存在していた。
 心が躍った。
 高ぶる気持ちを抑えることもしないまま、一掻き、もうひと掻き腕を動かし、さらに上へと向かっていく。
「う、うわぁ……。なんて綺麗なところなんだろう」
 初めての感情だった。目に飛び込む全てが、僕に感動を与えた。
 地面から身体を出し、そのまま大きな木を登っていく。木の「足」しか見たことのない僕は、木の「身体」に触れただけでも涙が出そうだった。
 力強く土をかき分けたこの腕で、今度は優しく、木の身体に触れる。
 僕の呼吸でみんなを起こしてしまいそうなほど、あたりはとても静かだった。
 さっきまでいたはずの地面が、もうあんなにも遠くにある。
 とうとう、ここまで来たんだ――喜びが身体中を支配する。
「この気持ち、わけてあげるね」
 胸の内でそう呟いて、僕はそっと木の身体を抱きしめた。そして、決めた。
 ここで、姿を変えよう。
 殻を破るたび、開放感に包まれる。身体が外の空気に触れるたび、高揚感で身体が震えた。
 ゆっくり、ゆっくりと身体を伸ばす。気が付けば、自然の光が朝を告げていた。
「う、動く……。身体が、軽い……!」
 僕は自分の身体を、見たことのない光に照らされる身体を、この目で眺めた。何時間、何日、何年も土を掘り続けたあの腕も、もう僕のものでは無くなっていた。
 代わりに、自分のものとは思えない逞しい羽が、僕の身体になっている。
 動かしてみよう――興奮に身を任せ、神経を背中に巡らせる。初めての羽は、僕の意思のままに動いてくれた。
「う、浮いた……。僕、飛べたんだ!」
 今までの僕が、木の身体にしがみついている。今まで、本当にありがとう。
 風を切るように、空気の波に載るように、僕は飛ぶ。
 燦燦と煌めく光の中に、僕は今、生きている。
 これからは行きたい時に、行きたいところへ自由に行くことができる。僕はやっと、夢を掴むことができたのだと、そう思っていた。
「それにしても、やけに静かだな……」
 外に出たらたくさんの友達と会って、仲良くなって、たくさん話して、たくさん思い出を作る。力いっぱいに鳴いて、元気いっぱいの恋愛をして、自由な世界の素晴らしさを謳歌する――そう思って、いたんだけどな。
 僕はたくさん飛んだし、たくさん鳴いた。色んなところを見たし、色んなところを探し回った。
 だけどまだ、僕は友達に会えてはいない。みんなどこかで眠っているのだろうか。
 少しだけ寂しさを感じていると、僕はとうとう見つけた。木の身体で休んでいる、友達の姿を。
 僕は急いで羽を動かし、友達の元へと飛んだ。
「やぁ、きみ! 元気かい?」
 彼の隣に、僕は止まった。彼は視線を僕に向けると、とても驚いた表情を浮かべた。
「お、おまえ……。今、出てきたのか?」
「ううん。僕が出てきてからこの光を見たのは、今日で三回目かな」
「そうか、そうか……」
 彼は身体を小刻みに震わせて、呟くように言った。
「実は僕、ぜんぜん友達に会えなくてさ。今日もずっと鳴いて、飛びまわっていたんだけど、どこに行っても僕以外の声も聞こえてこなくて」
 初めて出会えた友達に興奮する僕とは対照的に、彼はとても落ち着いている。きっと彼は、たくさんの友達に会っているのだと思った。
「遅すぎたんだ……」
 彼はこの距離でなんとか聞こえるくらいの小さな声で、そう呟いた。
「遅い? 遅いって、何がだい?」
 思わず聞き返した。
「俺も外に出てきたばかりの時にな、友達に聞いたんだ。その友達は、その前から出てきていた友達に聞いたって言っていた」
「聞くって、何を?」
 彼は空を見上げた。「俺らの友達はもう、とっくに星になったんだって」
「みんなが……星に?」
「もうこの辺も、すっかり肌寒くなっちまった。俺らはもっと暖かく……いや、暑い時に鳴かなきゃいけないんだ。暑いからこそ、友達ができるんだ」
 彼はなにを言っているのだろう。そう思いながらも、言葉が喉に突っかかる。
 僕は震える彼を、ただ見つめることしかできなかった。
「夏が……終わったんだよ」
 静寂が、冷たい空気に溶けていく。それは、彼の吐息のような声をも包んでいった。
「ありがとうな。最後の最後に、もう諦めていた友達に会うことができた。俺は、幸せものだ……!」
「ちょ、ちょっと待って。せっかく出会えたばかりじゃないか。もう少し、もう少しだけ、話をしようよ」
「悪いけど、もうそんな力は残ってないんだ。俺はこれから、一足先に星になるよ。お前も綺麗な……星になってくれよ」
 そう言い残し、彼は静かに、木の身体から落ちていった。
 また地面に落ちて、また空へと昇って行くの?
 その質問に、彼は答えてくれなかった。
 僕は泣いた。光が消えても、ずっとずっと、僕は泣くように鳴いていた。


 あれから何度目の光だろう。
 僕は木の身体を離れ、上へ上へと飛んでいる。この羽が千切れようとも休むことなく、涙が流れようとも拭うこともせず、ただ懸命に空を飛ぶ。
 土の中にいた時と、なにも変わっていないように。
 僕の本能が叫んでいる。

 綺麗な星に、なるのだと――。