バスを降りた卓登と響は傘も差さずに石像のごとく微動だにしない。
 もしここで本当に石像と化してしまったのならば、卓登と響は永遠の愛を誓い合い結ばれて、いつまでも幸せに暮らしましたと街の象徴となり伝説となるのだろうか。
 なんてくだらないお伽噺で笑えない冗談だ。
 あの成人男性は卓登と響が降りたこのバス停では降りなかった。
 もし、あの成人男性もここで一緒に降りていたら卓登はいったいどんな行動にでていたのだろうか。
 卓登は自分で自分が怖くなり、今日の自分は何を仕出かすのかわからなくて想像したくもなかった。
 ここに立っているのはまぎれもなく卓登本人なのに、普段の卓登とは別人のようだ。
 まるで本物の卓登が別の視点から偽物の卓登を傍観しているみたいだと、そんな非現実なことを卓登は思っていた。
 いったい卓登に成りすましているのはどこの誰なのだろうかと卓登は自問自答を繰り返す。
 もしかして今まで気がついていなかっただけで、これが本当の自分自身であると思うと卓登は己の心が腹黒すぎて吐き気がした。
 響は卓登が動き出すのを待っていた。
 けれども、待てども待てども卓登からは一歩も動く気配がない。
 おそらくは、響のとった行動を問いつめて理由を訊きだすまでは動かないつもりなのだろう。
 いや、もしかしたら卓登は響のことを一発殴りでもしないと気がすまないのかもしれない。
 それならば、響も卓登のした行動を問いつめて理由を訊きだすまでは一歩も動かないと決め込む。
「さっきのはいったい、どういうつもりなんですか?」
 バスの中で問いつめてこなかっただけでも利口と言うべきかと、響は感謝の気持ちを示すのではなく苦笑いをした。
 卓登と響は体を同じ方向に向けたままの状態で、お互いの顔を見合わそうとはしなかった。
 だけど魂はしっかりと向かい合っていた。慟哭と焦燥という名の魂が──。
「それはこっちの台詞だ。卓登、いったい何を考えているんだ?」
 響は突き刺してくるような冷たい雨よりも冷酷な態度で卓登のことを突き放し、辛辣な言葉をも浴びせる。
「響先輩のほうこそ何を考えているんですか? なんで俺の手は取らないで、あの男の手を取ったんですか?」
 卓登が握り拳を作り、それをふるわせている。
 ムシャクシャして、とりあえず手頃なものを殴り飛ばしたい。
 殴りたい相手は卑劣な行いをした自分自身なのか、最低な選択をした愛する年上の恋人なのか、それとも紳士的な対応をしたあの成人男性なのか、それは卓登本人にもわからなくて、答えを明確に導いてほしくもなくて、卓登は無回答のまま闇の中へと葬った。
「あの人は倒れたオレに親切に手を差し伸べてくれた」
 何が親切だと卓登は声には出さずに罵倒する。
 あの成人男性はただ響に触りたかっただけの自分と同じ色欲魔ですよと、卓登は己の振る舞いを棚に上げて響のことを責めたてた。
「俺だって響先輩に手を差し伸べました。それなのに響先輩は俺の手じゃなくてあの男の手を取りました。俺を選んではくれませんでした」
「選ぶ。選ばないの問題じゃないだろう?」
「嘘です。響先輩はわざと俺の手を取りませんでした」
「そうだよ。わざとだ」
 響はあえて弁解しなかった。
 嘘をついても本当のことを言っても、響があの一瞬だけ卓登を裏切ったのはまぎれもない事実なのだから。
 だったらいっそのこと、本当のことを言おうと思った。
 あっさりと認めた響に卓登は呆れ果ててしまった。
 せめて嘘でも良いから否定や言い訳くらいして慰めてほしかった。
「わざとだなんて……開き直るなんてずいぶんとひどい言い草ですね!」
「卓登が自分で言ったことだろ!」
「響先輩はバスの中で俺と手を繋いでいたときは必死に隠そうとしていたくせに、あの男の手はなんの躊躇(ためら)いもなく取るんですね!」
「卓登、みんなから見られているぞ」
「さっきからずっと見られてますよ!」
 響と卓登の周囲には野次馬とまではいかないが、チラホラと人だかりができはじめていた。
 男同士の口喧嘩だ。
 響と卓登が罵りあうだけではなく、このまま殴り合いにでも勃発して大騒ぎになり、とばっちりを食らいたくはないと逃げていく人もいた。
「こんな大声で喧嘩していれば大勢の人が集まってきて見るよな。喧嘩ならまだいい。でも手を繋ぐとか抱き合うとか、キスしているところまで見られたらどうするんだ?」
「べつにどうもしませんよ。俺と響先輩は恋人同士なんだから良いじゃないですか」
 卓登はたとえ怒号をぶつけ合う口論だとしても響との仲を周囲の人たちに見せつけてやろうと試みる。
 卓登は自分は間違ったことなど何一つ言ってはいないと、これは正論なのだと大々的に主張する。
「卓登、ちょっとこっちに来い」
 バスの中ではあれほど人の視線を気にしていた響が、今は乗客以上の人数から注目を浴びている公共の場所にもかかわらず堂々とした振る舞いをしている。
 そんな見世物扱いされている雰囲気のなか、少しも臆することなく、
 風のように、風よりも速く、
 響は卓登の手首を強く掴むと、そのまま強引に連れ去った。