その言葉に困惑されたらしい絢乃さんがすかさず「それは言い過ぎだ」と里歩さんを咎められたが、彼女の言葉は間違っていなかったし、僕には分かっていた。里歩さんはおそらく、僕の覚悟がどの程度なのかを問いたいのだと。絢乃さん思いの彼女らしいと僕は思った。
「いえ、いいんです。もちろん、僕もそのつもりでいますよ。絢乃さんのことは僕が全身全霊お守りすると決めましたから」
なので、僕は里歩さんに気を悪くすることなく、真正面から自分の覚悟を言葉にして伝えた。これで納得してもらえるかどうか自信はなかったが、これが僕の精一杯の覚悟だったから。
「……それならいいんです。ごめんなさい、偉そうなこと言っちゃって。絢乃のこと、これからよろしくお願いします。――絢乃、ホントごめん」
里歩さんは納得して下さったようで、僕に謝られた後、改めて絢乃さんのことを託された。
「ううん、いいよ。ありがと」
親友に謝られた絢乃さんは、これにも笑顔で応じられていたが、彼女のメンタルはきっと壊れるか壊れないかギリギリのバランスを保っていたのだろう。彼女はそれほどタフではないから。というか、父親を亡くしたばかりの十七歳の女の子がそんなに強いわけがないのだ。
だからこそ、僕が秘書として彼女を守らなければ――。平和主義者だし、格闘技なんかやったこともないし、頼りないヒーローで申し訳ないが。メンタルの強さにだけは自信がある。彼女が親族たちから集中砲火を浴びせられた時の盾くらいにはなれるだろう。
――会長の社葬は一般的な献花式で行われた。篠沢家は無宗教だからだそうだ。
出棺前になって里歩さんがお帰りになり、僕は自分の愛車で加奈子さんと絢乃さんを斎場までお連れすることにした。
「うん。桐島さん、よろしくお願いします」
「桐島くん、ありがとう。安全運転でよろしくね」
お二人を後部座席にお乗せすると、僕はハンドルを握って霊柩車のすぐ後ろをついていった。
――斎場まで一緒に来ていたのは他に、村上社長とご家族――奥さまと十四歳のお嬢さん、社長秘書となった小川先輩、篠沢商事を始めとするグループ企業の幹部たち、そして篠沢一族の面々がズラズラと。ちなみに、小川先輩は社長一家のクルマに同乗していた。
一般的な葬儀なら、これだけの大人数になるとマイクロバスを数台チャーターすれば済むのだが。この人たちは黒塗りのハイヤーやら高級車(ではないクルマもあったような……)などでズラズラと何台も連なってついてきていたので、何だか異様な光景に思えた。一族はプライドの高い人が多いので、マイクロバスに乗り合うことをよしとしなかったのだそうだが、後ろからついてこられた僕にとっては威圧感がハンパなかった。
社長たち幹部のみなさんは最後の挨拶もそこそこに引き揚げられ、小川先輩も帰ることになった。
絢乃さんたち篠沢一族のみなさんは火葬中の振舞いの席で親族会議を行うらしく、僕も絢乃さんの秘書としてそこに同席させて頂くことになっていた。
「――じゃあね、桐島くん。あとは頼んだよ」
絢乃さんたちと話した後、タクシーを手配した先輩は僕に話しかけた時涙ぐんでいた。
「先輩……、大丈夫ですか? 泣いてるみたいですけど」
「大丈夫……ではないけど、まぁ何とかね。あたしも気持ち切り替えなきゃ。――あ、そうだ。絢乃さんも何となく気づかれてたみたい」
心配して訊ねた僕に気丈に答えてくれた先輩が、真顔になってポロっと言った。
「気づかれてたって、何にですか?」
「あたしが、お父さまに想いを寄せてたこと。頭のいいお嬢さんだから、もしかしたらとは思ってたけどね」
「うん、なるほど……」
僕もそんな気はしていた。絢乃さんはカンが鋭い人だから、そうだろうなと。でも、彼女はそれと同時に相手への気遣いもすごい人なのだ。小川先輩にそのことを問い質さなかったのは、彼女の優しさからだったのだろう。
「先輩、余計なお世話かもしれないですけど。先輩はこの先、きっといい恋ができると思います。俺のよく知ってる人だと……そうだな、営業二課の前田雄斗さんとかどうですか?」
「前田くん? どうして?」
僕が名前を挙げた前田さんというのは先輩の同期入社組で、僕が見た限りでは先輩に気があるらしい。イケメンだが硬派な人でちょっと近寄りがたい雰囲気を持っているが、もちろん営業マンなので愛想が悪いわけでもない。逆にそういう無骨な感じがいいという女性もいるらしい。
「前田さん、先輩が元気ないの気にしてるみたいでしたから。もしかしたら、先輩にその気があるんじゃないかな、って。いきなり恋愛は難しいかもしれませんけど、お友だちから始めてもいいんじゃないですかね」
「……桐島くん、ホントにお節介だね」
先輩が呆れたようにそうコメントした。もしかしたら僕に怒っているかもしれない、と思ったが、次の瞬間彼女は笑っていた。
「すいません」
「ううん。ありがと。――あ、タクシー来たから、あたし帰るね。桐島くん、絢乃さんのことちゃんとお守りするのよ」
「はい、分かってます。先輩、今日はお疲れさまでした」
こうして、小川先輩はタクシーに乗り込んで帰っていき――。
「桐島さん、いたいた! これから座敷で親族一同の話し合いなの。一緒に来て」
「あ、はい!」
僕のボスである絢乃さんが呼びに来た。横で加奈子さんも「早く早く!」と手招きしていたので、僕はお二人の後をついていった。――ここからが、ヒーロー桐島の出番だ。あまりカッコよくはないかもしれないが……。
* * * *
――葬儀後の振舞いの席とは本来、美味しい仕出し料理などを頂きながら、故人を偲ぶ場のはずである。が、この時の〝振舞いの席〟は違っていた。源一会長の遺言書の内容について話し合う場、といえば聞こえはいいが、その実態は加奈子さん・絢乃さん親子に対して親族が言いたい放題言う場になっていたのだ。
僕も絢乃さんの秘書という立場で、彼女の隣でご相伴にあずかっていたのだが、場の空気が悪すぎて料理の味が分からないどころか胃が痛かった。……胃薬、持ってくればよかったな。
絢乃さんは何の感情も表に出さず、黙々と機械的にお箸を動かしていたが、お父さまの悪口に耐えかねてとうとう爆発してしまった。
「……………………うるさい」
「絢乃?」
「絢乃さん?」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
加奈子さんと僕が呼びかけると、血を吐くようにヒステリックな声で叫んだ彼女は過呼吸を起こしそうになった。こんな状態になるまで、彼女はストレスをご自身の中に溜め込まれていたのか……。俺の出番はここじゃないのか、桐島貢!
このままではいけないと、僕は迅速に動いた。彼女の背中をゆっくりさすりながら、そっと深呼吸を促した。
そして、彼女をこの場にいさせるわけにはいかないと思い、退出して頂くことにした。
「……加奈子さん、絢乃さんの具合があまりよくないみたいなので、ちょっと外へお連れします。よろしいですか?」
加奈子さんに一応お伺いを立ててみると、「ええ。桐島くん、ありがとう。お願いね」と僕の機転を感謝された。
「では行きましょう」と絢乃さんを促していると、「何なんだ君は! 赤の他人が出しゃばるんじゃない!」と親族からの偉そうな野次が飛んできたが、僕はそんなことに構っていられなかった。確かに僕は他人だが、親族のくせに身内を追い詰めるような人に言われる筋合いはなかったのだ。
「彼はこの子の秘書なんだけど、何か問題ある?」
加奈子さんがすかさず援護射撃して下さって、僕に手でシッシッと合図した。まるで犬でも追い払うようだが、「早く行きなさい」という意味なのだと僕は理解した。
絢乃さんは座敷にお戻りになるつもりはないらしく、キチンとコートとバッグまでお持ちになっていた。
* * * *
絢乃さんを待合ロビーまでお連れした僕は、彼女をソファーに座らせて自分も隣に腰を下ろした。
自販機やトイレなどがあり、ほどよく暖房も効いていたロビーには僕たち以外に誰もいなかった。たまたまこの日、午前に火葬炉の予約が入っていたのが篠沢家だけだったからだろう。
「――絢乃さん、もしかしてお父さまが亡くなられてから一度も泣かれていないんじゃないですか?」
僕は過呼吸が治まっていた絢乃さんに優しく問いかけた。身近な人が亡くなった時、思いっきり泣くのがいちばんのストレス解放の方法だと思うのだが、責任感の強い彼女はそれができなくてこうなっているのではないかと思ったのだ。
「うん……。だって、ママの方が絶対悲しいはずだもん。ママが先に泣いちゃったら、わたしは我慢するしかなかったの」
そこで聞かされた、彼女の悲しい本音。なるほど、優しい彼女はお母さまに遠慮して泣くことができなかったのか……。
でも、彼女のストレスの原因はそれだけではなかった。ご自身やお父さまに対する親族からの罵詈雑言に耐えかね、ご立腹だったのだ。
彼女には、心の中に溜まったマイナスの感情――毒を思いっきり吐き出して頂かなければ。そう思った僕は、彼女に「ここなら僕以外に誰もいませんから、思いっきり泣いていいですよ」と言った。僕はあなたの秘書だから、全部受け止めますよ、と。
ヒーローになりたいのに、彼女のためにこんなことしかできない自分を情けなく思いつつ優しく背中をさすると、彼女は大粒の涙を流しながら声を上げて泣き出した。
体を折り曲げ、泣きながら吐き出したお母さまや親族への恨み節も、僕は鷹揚にして受け止めた。
彼女には泣く権利も、恨み言を言う権利もあったのだ。だってまだ子供だったのだから――。そして、彼女がそんな姿をためらわずに見せられる相手が、この先もずっと僕であってほしいと願うのだった。
――篠沢一族の後継者争いの決着は、二日後に行われる臨時の株主総会まで持ち越されることになったそうだ。泣き止んだ絢乃さんと二人で缶コーヒー(彼女はカフェオレで、僕は微糖だった)をすすっていた時、ロビーへ戻られた加奈子さんからそう聞かされた。
絢乃さんはお母さまにも泣きながら訴えていた。「わたしだって悲しかったのに、ママが先に泣いちゃうから泣けなくなったんだ」と。
僕は彼女の言うに任せていた。親子の間で遠慮は無用、言いたいことはちゃんとおっしゃった方がお二人のためだと思ったからだ。加奈子さんは加奈子さんで、絢乃さんの泣く権利を奪ってしまったことを申し訳ないと思われていたようだった。
そのうえで、絢乃さんは涙ながらに宣言された。「わたしはありのままで、お父さまを超える篠沢のリーダーになっていくんだ」と。だから、僕とお母さまにも力を貸してほしい、と。もちろん、僕にも加奈子さんにも異存はなかった。母親と秘書という立場の違いはあれど、彼女を支えたいという気持ちは同じだったから。
「――ところでママ、話し合いはどうなったの?」
そんなことがあっての、絢乃さんのこの問いかけである。その答えとして、加奈子さんがおっしゃった結論が冒頭の一文だった。
何でも、絢乃さんが後継者として指名されたことがどうしても気に入らない親族がいて――その人は加奈子さんのいとこにあたるらしいが――、経営に関してはド素人の自分の父親を対立候補に立てたらしいのだ。
何故わざわざそんなことをしたのかといえば、その人――名前は宏司さんとおっしゃるらしい――が男尊女卑・年功序列という古臭い考え方に固執しているからで、女性の絢乃さんよりも男性で六十代後半の父親の方が会長としてふさわしいと考えたから、らしいのだが。
「……ふーん? 何考えてるんだろ、あの人」
絢乃さんはワケが分からない、という顔で首を傾げられた。そして、僕もまったく同感だった。
「今の時代、そんな考え方ナンセンスよね。というわけで、今日の話し合いは見事に決裂。あの人たちはみんな先に帰っちゃいました」
「…………なるほど」
加奈子さんもやれやれ、と呆れたように肩をすくめ、この話を締め括られた。どうりで、加奈子さんお一人でロビーまでお戻りになったわけである。座敷から駐車場までは直接出られるため、ロビーを通らずに帰ってしまったということらしい。
あの人たちに絢乃さんをこれ以上傷付けられてはたまったもんじゃなかったので、早くお帰り下さって僕もせいせいした。
「――桐島くん、ありがとね。あなたの機転のおかげで、絢乃があれ以上傷付かずに済んだわ」
加奈子さんも僕と同じ気持ちだったようだ。本当はご自身がそうしたかったが当主というお立場上そうもいかなかったので、代わりに僕が行動を起こしたことを評価して下さった。……僕はただ、絢乃さんのヒーローになりたくてああしただけだったのだが。
「いえいえ。秘書として、あの状況ではああするのが最善だと思いましたので」
とはいえ、秘書としてボスを守ろうと起こすアクションは誰でもそう変わらないだろう。たとえ僕ではなくても、ああいう行動に出るのが最も無難ではないかと思ったまでだ。
「うん、ホントにありがと。わたし自身、あれ以上あそこにいたら自分がどうなっちゃうか分かんなくて怖かったもん。連れ出してもらえてよかった」
絢乃さんにも感謝されたが、こちらは僕が思っていた理由とは少し違っていたようだ。これ以上傷付きたくなかった、というよりはむしろ、怒り狂うと何をしでかすか分からなかったというニュアンスに聞こえたのは、女性が怖いと思っている僕の考えすぎだったろうか?
* * * *
――それから一時間ほど経ち、係員の人が「火葬が終了した」と呼びに来られたので、絢乃さんと加奈子さんは収骨室へ行かれることになった。
「桐島さんはどうするの? 一緒に来る?」
絢乃さんが僕のことを気にして声をかけて下さったが、他人の僕がご一緒するわけにはいかなかった。
「いえ、僕は表のロビーで待っています。お骨上げはお母さまとお二人でどうぞ」
「…………分かった。じゃあ行ってくるね」
「お帰りの際も、僕のクルマでお宅までお送りしますから」
絢乃さんは「ありがとう」と僕にお礼を言って、お母さまと一緒にお骨上げへ向われた。この日も寒かったので、僕はそんな彼女と加奈子さんのために車内の暖房を効かせておこうと考えた。
――その帰り、僕は斎場へ向かう時と同じく絢乃さんと加奈子さんの親子を愛車の後部座席にお乗せした。
加奈子さんは源一会長のお骨が入った小さな骨壺を(大きな骨壺だと重くなるので持って帰れない、という理由で小さい方を選ばれたらしい)、絢乃さんはお父さまの遺影を大事そうに抱えられていた。
「――井上の伯父さまも、今日のお葬式に来たかっただろうなぁ。お悔やみのメールはもらったけど」
絢乃さんが唐突に、僕がそれまで耳にしたことがなかったお名前を口にした。そういえば、亡くなった源一会長の旧姓は確か井上っていったよな……。ということは、源一会長のお兄さまのことかと僕には理解できた。
何でも絢乃さんの伯父さま・井上聡一さんはご家族でアメリカにお住まいらしく、絢乃さんはお父さまの訃報をメールでお知らせしたらしい。聡一氏も帰国したかったのだが航空チケットの手配が間に合わず、葬儀に参列することが叶わなかったのだそうだ。絢乃さんはお悔やみのメールだけ受け取られたそうだが。
僕もまだお会いしたことがなかったが、今日の結婚式には出席して下さっているそうだ。どんな方なのか、実際にお会いできるのが楽しみである。――それはさておき、当時のことに話を戻そう。
「――ねえママ、これからのことで、ちょっと相談があるの。桐島さんにも聞いてもらいたいんだけど」
しばらく俯いていらっしゃった絢乃さんが唐突に顔を上げ、決意に満ちた表情で口を開いた。
「なぁに?」
「僕は運転中ですけど、ちゃんと耳だけは傾けているので大丈夫ですよ。おっしゃって下さい」
加奈子さんはお嬢さんに向き直り、僕も後ろを向けば事故を起こしてしまうので耳だけ傾けた。
絢乃さんが語られた決意はこうだった。彼女は高校生と会長兼CEOの二刀流でいこうと思っているので、お母さまには学校へ行かれている間の会長の仕事を代行してほしい、そして僕にはご自身と加奈子さんと二人の秘書として働いてほしい、と。
加奈子さんは、先ほど偉そうにしていた宏司さんも当主である彼女には偉そうに言えないだろうからとそれを快諾。僕もそれをお受けした。二人分の仕事をこなすことになるけれど大丈夫なのか、と絢乃さんは心配されていたが。
「大丈夫です。お任せください。総務でこき使われていたことを思えば、それくらい何でもないですよ」
総務課の島谷課長は人使いは荒いわ、そのくせ労いの言葉もかけてくれないわで、僕は「やってらんねーよ!」と正直思っていた。それを思えば、これくらいどうということはなかった。少なくとも絢乃さんと加奈子さんはお優しいし、遠慮というものをきちんと心得ていらっしゃるので、頑張った分はキチンと労っても頂けるはずだと思ったのだ(そして実際にそうだった)。
ついでに絢乃さんが学校からオフィス、オフィスからご自宅へお帰りになる際の送迎も加奈子さんから依頼されたが、それも僕はあっさりお受けした。むしろ僕の方から申し出たいくらいだったので、願ったり叶ったりだったのだ。
絢乃さんは大号泣されたおかげで、すっかりふっ切れたらしい。心のデトックスをしたおかげで、気持ちが軽くなられたからだろう。僕が小川先輩の請け売りで「ボスに気持ちよく出社して頂き、快適にお仕事に励んで頂くのが秘書の務めですから」と大真面目に言ったところ、この日初めて朗らかな笑顔を見せて下さった。
やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。お父さまを亡くされた悲しみが消えることはないと思うが、僕の前では笑顔でいてほしい。……いや、彼女がそういられるように、僕が頑張らなければ。それが僕の務めなのだ。
ミラー越しなのをいいことにそれを口に出して言うと、彼女のお顔は真っ赤になった。「あ…………、うん。ありがと。よろしく」とおっしゃる絢乃さんは、きっと照れていらっしゃったのだろう。……っていうか俺、めちゃめちゃキザだな。自分でもすごく恥ずかしい。
* * * *
――お二人を無事にご自宅の前まで送り届けると、加奈子さんが僕の母親のような口調でおっしゃった。
「桐島くん、今日はお疲れさま。明日も出勤でしょう? 家に帰ったらゆっくり休むのよ。お清めの塩も忘れないようにね」
多分、ウチの母も同じようなことを言うだろう。元保育士で礼儀やしつけには厳しい人だから。……そういえば加奈子さんも元教師だったっけな。
「はい。加奈子さん、絢乃さん。これから何かと忙しくなりますが、三人で頑張っていきましょう」
「うん。今日はホントにありがと」
僕が微笑みかけると、絢乃さんは可愛らしくはにかまれた。この先、僕にも新しい日々が待っているが、この笑顔ひとつあればすべて報われるんじゃないかと思わせてくれる笑顔だった。好きな人の笑顔には、それだけの力があるのかもしれない。
――二日後に行われる株主総会の日には、寺田さんが送迎をされるので僕は送迎しなくてもいい、と加奈子さんに言われた。当日が土曜日だったので、僕に休日出勤させるのが申し訳ないと思われたのだろう。僕は別にそれでも構わなかったのだが、加奈子さん(と多分絢乃さんも、だろう)のお気遣いに甘えさせて頂くことにした。
「――桐島さん。今日から貴方を正式に、会長秘書に任命します。正式な辞令ではないけど、心して受けるように」
別れ際、絢乃さんは胸を張って僕にこうおっしゃった。正式な書面での辞令は人事部を通してになるだろうが、次期会長が直々に任命されたのだから、それは僕にとってれっきとした〝辞令〟に他ならなかった。
「はい。謹んで拝命致します」
僕はそれに、神聖な気持ちでお応えしたのだった。
* * * *
――その日の帰りには喪服姿だったのでどこへも寄れず、そのままアパートに帰った。昼食代わりだったはずの仕出し料理もあんな状況だったので食べた気がせず、まだ夕方にもなっていないのに空腹だった。
「あー、腹減ったな……。家に何か食うもんあったっけ」
兄の出勤日なら店に食べに行こうと思っていたが、その日は兄も休みだと聞いていた。だからといって、喪服でコンビニに行くのも気が引けるしな……。
そう思いながらアパートの外階段を上がり、玄関のドアノブを回すと鍵が開いていた。
「――よう、貢! おかえり!」
「兄貴、来てたんだ? ただいま」
ドアが開いて出迎えてくれたのは兄だった。ちょうどよかったので、僕は兄に頼んで斎場から持ち帰ったお清めの塩を振りかけてもらった。
「サンキュ、兄貴。でもどうしたんだよ? 今日来るなんて俺聞いてなかったけど」
部屋に入ると何やらいい匂いがして、僕の腹がグゥと鳴った。多分、この匂いはデミグラス系か?
「お前今日、篠沢会長のお葬式だって言ってたじゃん? 例の絢乃ちゃん? のお父さんだろ」
「うん、……そうだけど」
確かにそうだが、絢乃〝ちゃん〟って。兄貴、会ったこともないのに馴れ馴れしくないか? 僕だって〝さん〟付けしかできないのに。
「んで、きっと腹空かして帰ってくるんじゃねぇかと思ってさ、メシ作って待ってたんだよ」
「そっか。んで、メシなに? 何かデミ系のいい匂いするな」
「お前の大好きなビーフシチューとポテサラ。今日寒みいし、温ったけぇモンの方がいいかと思ってさ。ちゃんと白メシも炊いてあるぜ」
いや、ポテトサラダは温かくないが。それを言いだしたらキリがないのでそこはツッコまずにいた。
「ありがとな。俺、ちょうど腹ペコだったんだ。仕出しも頂いたんだけど、雰囲気悪い中だからどこに入ったか分かんねえし。じゃあちょっと早いけど、食おうかな」
僕はおいしそうなに匂いの誘惑に負けて、白旗を揚げた。兄は「ほいきた」と狭いキッチンに立ち、甲斐甲斐しく僕の食事の支度を始めた。
「――さ、たーんと食え! おかわりしてもいいぞ」
「いただきまーす。……ん、美味い!」
――僕は兄が作ってくれたビーフシチューで白飯をかきこみながら、この日正式に絢乃さんの秘書に任命されたことを兄に話した。
「そっかそっか、よかったじゃん? お前、これから忙しくなるな」
「うん。いよいよ、って感じがするよ」
これから僕の新しい日々が始まるんだと思うと、何だか気が引き締まる思いだった。