緩やかにウェーブがかかる唐紅の髪に、山吹色のいかにも気が強そうな大きな瞳。いかにも人の目を引く容姿の持ち主だ。椿の開花式から一週間、新しい女王が誕生する。しかし、乙女は戴冠式をしない。もうすでに女王であるためだ。彼女の母親、前女王は乙女が一五のとき、暗殺者によって首を落とされ亡くなった。父も同じく。そのときから既に乙女は椿の女王である。
「番が到着しました。」
「連れてきて。」
「はっ。」
カツカツと近づく革靴の音、まもなくドアを叩き、中に入ってきた。
「お初にお目にかかります。晶(あきら)と申します。この度は」
「別にそんな言葉いらないわ。挨拶が済んだなら出てって。」
かなりきつい言葉が飛んだが、晶はにこやかに笑った。
「かしこまりました。またアフタヌーンに。」
乙女は目を丸くしていたが、気にせず部屋から出ていった。乙女は戸惑ってしかたなかった。
暖かな昼下がり、またドアを叩く音がした。
「アフタヌーンティーをお持ちしました。」
「私に関わらないで。」
「そう言われましても、俺は貴女様の番なのですから。」
晶が紅茶を淹れた。執事やメイドが作るものより香りが良く、乙女は驚く。
「貴方……紅茶を淹れるのがお上手なのね。」
「一五年茶畑で働いていましたから。美味しいですか?」
「えぇ……美味しいわ。」
「お口にあったようで良かったです。」
至って普通の男だが、礼儀正しく明るく従順だ。乙女は魔が悪そうに言った。
「また淹れて……?」
「お望みにならばいつでも。」
(彼女はきっと感情を表に出すことを忘れてしまっただけだ。)
自室に戻る廊下で思う。通例より若くして女王になり、大人の言う通りに過ごす。亡き両親を惜しむ間もなく。いつしか感情を隠し、静かに過ごすようになったのではなかろうか。どこまでも憶測にすぎない。
(俺はあくまで彼女の傍にいるのみ……)
『気持ち悪い!家に入ってこないで!』
『忌み子だ!こっちに来るな!』
『お前なんて、生まれてこなきゃ良かったのに!!』
(くそ……嫌な記憶だ……)
過去の記憶が蘇る。晶は嫌味そうに舌打ちした。
次、二人が話したのはあれから三日後の事だった。
「貴方、隈が酷いわよ。」
「そ、そうでしょうか……?」
晶の切れ長の妖々としたワインレッドの瞳は窪んで、いつもは血色の良い肌も今日ばかりは青白い。
「少し読書に夢中になっているのです。ご心配おかけして大変申し訳ありません。」
「そう……」
そう言う晶の頬はどこか窶れていた。
その夜、乙女は晶が気になり彼の自室に向かっていた。出会って数日の二人だが、乙女にとって久方ぶりの家族、少し浮き足立っていたのは間違いない。
晶の部屋のドアを叩く。
「貴方、」
返事は無いが薄ら声は聞こえる。
「入るわよ。」
歌でも歌っているのか、はたまた朗読しているのか……いや違う。
「はぁ……はぁ……ごめ、な、さい……ごめん、なさい……ひっ……ひっ……いやだ……たた、か、ないで……とうさま……かあさま……ごめ、な、さい……」
ダラダラと冷や汗をかいて、魘される晶の姿。晶はここ毎晩悪夢に魘されているのだ。
「貴方、貴方、起きて、貴方、」
「はぁ……はぁ……いやだ……やめて……やめ……!」
「晶さん、!」
「はっ!はぁ……はぁ……はぁ……あ、貴女、様は……」
名前を呼ぶと覚醒し、荒く呼吸する。
「お水よ。ほら、タオルで体も拭いて。すごい汗よ。」
「なぜ、ここに……?」
「お昼、顔色が悪かったから様子を見に来たの。そうしたら、この有様。」
「っ……!」
「ガードが硬いのは……私だけじゃないようね。」
晶は目を大きく開ける。
「何があったか聞かないわ。だいたい予想はつくもの。」
「えっ……」
「だって貴方、二〇かそこらでしょう?一五年も茶畑で働くなんて……五歳の子供が何をしているの?」
「なっ……!」
「譫言(うわごと)からするに貴方は……親に捨てられた孤児。」
(随分、頭のキレる方だ……)
乙女の言う通りだった。
晶の生まれた村では「番は忌み子。災いをもたらす」とされていた。そして椿の番として生まれた晶も漏れずに忌み子として扱われた。村人からの白い目に暴力、親からの罵詈雑言の嵐、まだ家畜の方がマシ、そんな生活だった。
転機は七歳。二二歳の晶にとってもう一五年も前の事だ。晶には村で唯一の味方がいた。実兄だ。歳は二つ上、晶を色眼鏡で見ない、彼が大好きだった。
『お前は大きくなって、とっととここを出て、俺の知らない場所で幸せになればいいんだよ。』
『兄ちゃん……』
大きい手で少し乱暴に頭を撫でてくれた。いつか別れる日が来ようと、ずっと尊敬し続ける。そして何年も何十年も経ったその時また再会すると、誓っていた。
それなのに……
『ぁ……ぁぁ……ぁぁぁ……』
ある日、家の前の通りにあったのは、兄の首だった。晶との関係が明らかになり、見せしめに打首になったのだ。
『にぃ……にぃ、兄ちゃん……はぁ……はぁ……』
『貴様……貴様のせいで、!』
晶が振り上げているのは木の棒だ。当たれば即死。
(死ねる……兄ちゃん……会える……)
晶は静かに目をつぶった。静かに死を待って、兄に会いに行こうとした。
ー晶は大きくなって、とっととここを出て、俺の知らない場所で幸せになればいいんだよー
ふとつい先日の兄の言葉を思い出すと、勝手に体が動き木の棒を避けた。
『お前ぇぇぇ!!』
木の棒を待ち掛けてくる母は鬼だ。必死に走った。人の波を掻き分けて集落を抜け、どこか分からない場所まで走って走って走り続けた。
『はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……』
『おぉい、坊やよ!こんな夕にどうしたんでぇ。』
『ぁ……ぁぁ……』
溜めていた気持ちが溢れだして、涙が止まらず地面に胃の中身を戻した。
『おいおい大丈夫けぇ?うちに来な。』
そう言ってくれた爺さん、いや親父に拾われた。親父に子供はおらず、奥さんは先に亡くなっていた。一人で家業である茶畑で働いていた。事情を話すと、茶畑を手伝う代わりに住んでいいと言ってくれた。茶畑で働きながら、親父は文字を礼儀を常識を教えてくれた。
俺が番の迎えが来た時、親父は初めて俺の前で泣いて「行かないで」と言った。でも、涙を拭ってすぐ「元気でいるんだよ」と言ってくれた。それはきっともう一生会えないのが分かっているからだ。俺はそっと抱きしめて「行ってきます」と言った。
「そう……可哀想に。」
「可哀想なんてそんな……一思いに言ってしまおうと思ったものの、案外スラスラ言えるものですね。スッキリしました。ありがとうございます。」
「お礼なんていらないわ。同情の類だもの。ただ……助けてくれないなんて苦しいから。」
まるで体験談のように語った。気が強い乙女だと思ったが、その時はとても儚く見えた。
「一緒に寝てあげる。添い寝すると安心するそうよ。」
「えっ?はぁっ?!」
なんの躊躇いもなく晶の布団に入ってくる乙女。何食わぬ顔をして寝ようとしている。
「はぁ……散々嘘ついた大人に塗れて育ったんです。貴女の嘘くらい分かりますよ。一緒に寝たいならそう言えばいいのに。」
「…………」
「あんまり舐めてるようなら……食い散らかしますからね。それでは、おやすみなさい。」
乙女はそっと頬を赤らめた。
至って二人は低干渉だ。二人が会うのはアフタヌーンティーだけ、そんな日はザラだった。ただたまにこんなことがある。
乙女が晶の部屋に訪れ、窓辺に座る彼の隣に座った。
「…………」
「寂しいなら寂しいと言えばいいのに。」
「っ……!別に私は寂しい訳じゃ……!」
「あぁそうですか。」
そんなの嘘だ。乙女は少々寂しがり屋なところがあり、ふらっと晶の前に現れて、しれっと隣に座って、満足すると何も言わず去っていく。その時晶は基本読書しているだけだ。
「自分の気持ちに正直な方が、生きてて楽ですよ。」
「…………いいの?我儘を言って……」
幼い気のある言葉だった。
「俺は貴女の番です。我儘なんて思ってもいませんけどね。」
「爺やもお婆も言うのよ。『我儘を言うな』『貴女は女王なのだ』って。」
晶は確信した。乙女は感情を矯正されている。
「好きに言ってください。というか、我儘どうこう言うなら、紅茶を飲みたいがために俺を呼ぶのも我儘です。」
「嫌だったかしら……?」
「いや、全く。むしろ、もっと言ってください。」
椿の女王であろうと所詮一八歳の娘。頭を撫でてやると嬉しそうな顔をした。
その日から乙女は少しずつ我儘を言うようになり、表情も幾分柔らかくなった。
「晶さん……私紅茶のシフォンケーキが食べたいの。」
「晶さん、今日一緒に寝てもいいかしら?」
「晶さん、髪を結ってくださらない?」
「構いませんよ。」
まぁ我儘のほとんどが可愛らしいお願いなのだが。
「俺ばかり名前を呼ばれるのもあれですね。」
「そうですか……では、好きに名前をつけてください。もとより私たちに名前はありませんので。」
名前をつけるあの時の親父と同じだ。
『名前がねぇだぁ?んだなぁ……じゃお前さんは今日から晶だ!』
『晶……?』
『そぉだ。キラキラ光って綺麗なもんだ。お前さんにピッタリだろ?よぉく逃げてきたな。偉いぞぉ、晶。』
「晶さん、?」
名前を呼ばれ、はっと意識を戻す。
「すみません。考え事をしていました。そうですね……では椿咲(つばさ)というのはどうでしょうか。」
「つばさ……ですか?」
「はい、椿が咲く、と書いて椿咲です。どうですか?」
乙女は瞳を輝かせて晶を見つめた。
「良い名前ね!ありがとう。」
「これからはつば……///」
何を思ったのか、急に顔を背けて耳まで赤くした。
「どうしたの?」
「いや……その……ですね。」
顔を戻すも、左手で顔の半分を隠している。
「お恥ずかしい話ですが……生まれてこの方……女性の名前を呼んだことが無くてですね……」
見本のようなきょとん顔を見せた。
「……ふふふっ!ぅふふふっ!!」
「な……そんなに笑わないでください。俺は至って真面目なんです。」
「はいはい。ぅふふ!すみません。晶さんは意外に初なんですね。」
「からかわないでください……///」
椿咲は優しく晶の手を握った。
「晶さん、晶さん!ぅふふ!晶さんが椿咲と呼んでくれるまで呼び続けるわ。晶さん、」
「わ、分かりましたから……///つ、椿咲、さん……///」
椿咲は分かりやすく喜んだ。出会いたてのような壁はなく、むしろ糸で結ばれたようなそんな関係。
「『さん』も敬語もやめて?ずっと思ってたの。女王と番なんてただの形式よ。私は晶さんの奥さんなんだもの。」
「そんな、……いや、そんなこと言っても貴女は聞きませんね。仕方ない。」
頭を撫でようと手を乗せると、そのまま後ろに回しそっと抱きしめた。
「あ、晶さん……///」
「この程度で照れるなんて、貴女も大概初だよ。」
速い鼓動が二つ、交わり合った。
「愛してるよ、椿咲。ずっと言いたかった。」
「そ、そんな……///私も、晶さんのこと……愛してるわ……///」
家族を亡くした少女と家族に虐げられた青年の新しい家族。二人は奇跡的な出会いを噛み締め合うように抱きしめ合った。
月日が経ち、息が白くなる冬を迎える。しとしとと雪が降るこんな寒い日に開花式がある。
「寒い……」
「そうかしら?もっと吹雪いてる日にやったことがあるわ。こんなの寒くないわよ。」
「そういうところがまさに椿だよ……」
ベロア生地の深紅のプリンセスドレスにゴールドの装飾が映える。オフショルダーになっていて、胸元や肩にはファーがあしらわれている。
「椿咲はいつも俺の『綺麗』を更新していくね。」
椅子に座る椿咲に近づく。
「とても綺麗だ。昨日の貴女もずっと綺麗だったが……」
「ひゃっ……♡!ぅう……///」
耳打ちしながら、椿咲の腰をすぅっと指でなぞった。椿咲は身体をビクッ♡とさせて耳まで赤くした。
「昨日のこと思い出して式中照れる……なんてことダメだからな♡?」
「そ……そんなこと言ったら逆に思い出すわ///!!」
「ふふふふっ!」
いい所なのは山々だが、タイミング悪くメイドが椿咲を呼びに来た。
「じゃあ、俺はもう行くよ。椿咲、今年も見事な椿を咲かせてくれ。」
「っ……///!えぇ……!!」
その年、白い雪に映える赤や桃色の椿が優美に咲き誇ったという。
「晶ぁ、きれぇな椿だなぁ。よぉくやってんなぁ。」
「番が到着しました。」
「連れてきて。」
「はっ。」
カツカツと近づく革靴の音、まもなくドアを叩き、中に入ってきた。
「お初にお目にかかります。晶(あきら)と申します。この度は」
「別にそんな言葉いらないわ。挨拶が済んだなら出てって。」
かなりきつい言葉が飛んだが、晶はにこやかに笑った。
「かしこまりました。またアフタヌーンに。」
乙女は目を丸くしていたが、気にせず部屋から出ていった。乙女は戸惑ってしかたなかった。
暖かな昼下がり、またドアを叩く音がした。
「アフタヌーンティーをお持ちしました。」
「私に関わらないで。」
「そう言われましても、俺は貴女様の番なのですから。」
晶が紅茶を淹れた。執事やメイドが作るものより香りが良く、乙女は驚く。
「貴方……紅茶を淹れるのがお上手なのね。」
「一五年茶畑で働いていましたから。美味しいですか?」
「えぇ……美味しいわ。」
「お口にあったようで良かったです。」
至って普通の男だが、礼儀正しく明るく従順だ。乙女は魔が悪そうに言った。
「また淹れて……?」
「お望みにならばいつでも。」
(彼女はきっと感情を表に出すことを忘れてしまっただけだ。)
自室に戻る廊下で思う。通例より若くして女王になり、大人の言う通りに過ごす。亡き両親を惜しむ間もなく。いつしか感情を隠し、静かに過ごすようになったのではなかろうか。どこまでも憶測にすぎない。
(俺はあくまで彼女の傍にいるのみ……)
『気持ち悪い!家に入ってこないで!』
『忌み子だ!こっちに来るな!』
『お前なんて、生まれてこなきゃ良かったのに!!』
(くそ……嫌な記憶だ……)
過去の記憶が蘇る。晶は嫌味そうに舌打ちした。
次、二人が話したのはあれから三日後の事だった。
「貴方、隈が酷いわよ。」
「そ、そうでしょうか……?」
晶の切れ長の妖々としたワインレッドの瞳は窪んで、いつもは血色の良い肌も今日ばかりは青白い。
「少し読書に夢中になっているのです。ご心配おかけして大変申し訳ありません。」
「そう……」
そう言う晶の頬はどこか窶れていた。
その夜、乙女は晶が気になり彼の自室に向かっていた。出会って数日の二人だが、乙女にとって久方ぶりの家族、少し浮き足立っていたのは間違いない。
晶の部屋のドアを叩く。
「貴方、」
返事は無いが薄ら声は聞こえる。
「入るわよ。」
歌でも歌っているのか、はたまた朗読しているのか……いや違う。
「はぁ……はぁ……ごめ、な、さい……ごめん、なさい……ひっ……ひっ……いやだ……たた、か、ないで……とうさま……かあさま……ごめ、な、さい……」
ダラダラと冷や汗をかいて、魘される晶の姿。晶はここ毎晩悪夢に魘されているのだ。
「貴方、貴方、起きて、貴方、」
「はぁ……はぁ……いやだ……やめて……やめ……!」
「晶さん、!」
「はっ!はぁ……はぁ……はぁ……あ、貴女、様は……」
名前を呼ぶと覚醒し、荒く呼吸する。
「お水よ。ほら、タオルで体も拭いて。すごい汗よ。」
「なぜ、ここに……?」
「お昼、顔色が悪かったから様子を見に来たの。そうしたら、この有様。」
「っ……!」
「ガードが硬いのは……私だけじゃないようね。」
晶は目を大きく開ける。
「何があったか聞かないわ。だいたい予想はつくもの。」
「えっ……」
「だって貴方、二〇かそこらでしょう?一五年も茶畑で働くなんて……五歳の子供が何をしているの?」
「なっ……!」
「譫言(うわごと)からするに貴方は……親に捨てられた孤児。」
(随分、頭のキレる方だ……)
乙女の言う通りだった。
晶の生まれた村では「番は忌み子。災いをもたらす」とされていた。そして椿の番として生まれた晶も漏れずに忌み子として扱われた。村人からの白い目に暴力、親からの罵詈雑言の嵐、まだ家畜の方がマシ、そんな生活だった。
転機は七歳。二二歳の晶にとってもう一五年も前の事だ。晶には村で唯一の味方がいた。実兄だ。歳は二つ上、晶を色眼鏡で見ない、彼が大好きだった。
『お前は大きくなって、とっととここを出て、俺の知らない場所で幸せになればいいんだよ。』
『兄ちゃん……』
大きい手で少し乱暴に頭を撫でてくれた。いつか別れる日が来ようと、ずっと尊敬し続ける。そして何年も何十年も経ったその時また再会すると、誓っていた。
それなのに……
『ぁ……ぁぁ……ぁぁぁ……』
ある日、家の前の通りにあったのは、兄の首だった。晶との関係が明らかになり、見せしめに打首になったのだ。
『にぃ……にぃ、兄ちゃん……はぁ……はぁ……』
『貴様……貴様のせいで、!』
晶が振り上げているのは木の棒だ。当たれば即死。
(死ねる……兄ちゃん……会える……)
晶は静かに目をつぶった。静かに死を待って、兄に会いに行こうとした。
ー晶は大きくなって、とっととここを出て、俺の知らない場所で幸せになればいいんだよー
ふとつい先日の兄の言葉を思い出すと、勝手に体が動き木の棒を避けた。
『お前ぇぇぇ!!』
木の棒を待ち掛けてくる母は鬼だ。必死に走った。人の波を掻き分けて集落を抜け、どこか分からない場所まで走って走って走り続けた。
『はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……』
『おぉい、坊やよ!こんな夕にどうしたんでぇ。』
『ぁ……ぁぁ……』
溜めていた気持ちが溢れだして、涙が止まらず地面に胃の中身を戻した。
『おいおい大丈夫けぇ?うちに来な。』
そう言ってくれた爺さん、いや親父に拾われた。親父に子供はおらず、奥さんは先に亡くなっていた。一人で家業である茶畑で働いていた。事情を話すと、茶畑を手伝う代わりに住んでいいと言ってくれた。茶畑で働きながら、親父は文字を礼儀を常識を教えてくれた。
俺が番の迎えが来た時、親父は初めて俺の前で泣いて「行かないで」と言った。でも、涙を拭ってすぐ「元気でいるんだよ」と言ってくれた。それはきっともう一生会えないのが分かっているからだ。俺はそっと抱きしめて「行ってきます」と言った。
「そう……可哀想に。」
「可哀想なんてそんな……一思いに言ってしまおうと思ったものの、案外スラスラ言えるものですね。スッキリしました。ありがとうございます。」
「お礼なんていらないわ。同情の類だもの。ただ……助けてくれないなんて苦しいから。」
まるで体験談のように語った。気が強い乙女だと思ったが、その時はとても儚く見えた。
「一緒に寝てあげる。添い寝すると安心するそうよ。」
「えっ?はぁっ?!」
なんの躊躇いもなく晶の布団に入ってくる乙女。何食わぬ顔をして寝ようとしている。
「はぁ……散々嘘ついた大人に塗れて育ったんです。貴女の嘘くらい分かりますよ。一緒に寝たいならそう言えばいいのに。」
「…………」
「あんまり舐めてるようなら……食い散らかしますからね。それでは、おやすみなさい。」
乙女はそっと頬を赤らめた。
至って二人は低干渉だ。二人が会うのはアフタヌーンティーだけ、そんな日はザラだった。ただたまにこんなことがある。
乙女が晶の部屋に訪れ、窓辺に座る彼の隣に座った。
「…………」
「寂しいなら寂しいと言えばいいのに。」
「っ……!別に私は寂しい訳じゃ……!」
「あぁそうですか。」
そんなの嘘だ。乙女は少々寂しがり屋なところがあり、ふらっと晶の前に現れて、しれっと隣に座って、満足すると何も言わず去っていく。その時晶は基本読書しているだけだ。
「自分の気持ちに正直な方が、生きてて楽ですよ。」
「…………いいの?我儘を言って……」
幼い気のある言葉だった。
「俺は貴女の番です。我儘なんて思ってもいませんけどね。」
「爺やもお婆も言うのよ。『我儘を言うな』『貴女は女王なのだ』って。」
晶は確信した。乙女は感情を矯正されている。
「好きに言ってください。というか、我儘どうこう言うなら、紅茶を飲みたいがために俺を呼ぶのも我儘です。」
「嫌だったかしら……?」
「いや、全く。むしろ、もっと言ってください。」
椿の女王であろうと所詮一八歳の娘。頭を撫でてやると嬉しそうな顔をした。
その日から乙女は少しずつ我儘を言うようになり、表情も幾分柔らかくなった。
「晶さん……私紅茶のシフォンケーキが食べたいの。」
「晶さん、今日一緒に寝てもいいかしら?」
「晶さん、髪を結ってくださらない?」
「構いませんよ。」
まぁ我儘のほとんどが可愛らしいお願いなのだが。
「俺ばかり名前を呼ばれるのもあれですね。」
「そうですか……では、好きに名前をつけてください。もとより私たちに名前はありませんので。」
名前をつけるあの時の親父と同じだ。
『名前がねぇだぁ?んだなぁ……じゃお前さんは今日から晶だ!』
『晶……?』
『そぉだ。キラキラ光って綺麗なもんだ。お前さんにピッタリだろ?よぉく逃げてきたな。偉いぞぉ、晶。』
「晶さん、?」
名前を呼ばれ、はっと意識を戻す。
「すみません。考え事をしていました。そうですね……では椿咲(つばさ)というのはどうでしょうか。」
「つばさ……ですか?」
「はい、椿が咲く、と書いて椿咲です。どうですか?」
乙女は瞳を輝かせて晶を見つめた。
「良い名前ね!ありがとう。」
「これからはつば……///」
何を思ったのか、急に顔を背けて耳まで赤くした。
「どうしたの?」
「いや……その……ですね。」
顔を戻すも、左手で顔の半分を隠している。
「お恥ずかしい話ですが……生まれてこの方……女性の名前を呼んだことが無くてですね……」
見本のようなきょとん顔を見せた。
「……ふふふっ!ぅふふふっ!!」
「な……そんなに笑わないでください。俺は至って真面目なんです。」
「はいはい。ぅふふ!すみません。晶さんは意外に初なんですね。」
「からかわないでください……///」
椿咲は優しく晶の手を握った。
「晶さん、晶さん!ぅふふ!晶さんが椿咲と呼んでくれるまで呼び続けるわ。晶さん、」
「わ、分かりましたから……///つ、椿咲、さん……///」
椿咲は分かりやすく喜んだ。出会いたてのような壁はなく、むしろ糸で結ばれたようなそんな関係。
「『さん』も敬語もやめて?ずっと思ってたの。女王と番なんてただの形式よ。私は晶さんの奥さんなんだもの。」
「そんな、……いや、そんなこと言っても貴女は聞きませんね。仕方ない。」
頭を撫でようと手を乗せると、そのまま後ろに回しそっと抱きしめた。
「あ、晶さん……///」
「この程度で照れるなんて、貴女も大概初だよ。」
速い鼓動が二つ、交わり合った。
「愛してるよ、椿咲。ずっと言いたかった。」
「そ、そんな……///私も、晶さんのこと……愛してるわ……///」
家族を亡くした少女と家族に虐げられた青年の新しい家族。二人は奇跡的な出会いを噛み締め合うように抱きしめ合った。
月日が経ち、息が白くなる冬を迎える。しとしとと雪が降るこんな寒い日に開花式がある。
「寒い……」
「そうかしら?もっと吹雪いてる日にやったことがあるわ。こんなの寒くないわよ。」
「そういうところがまさに椿だよ……」
ベロア生地の深紅のプリンセスドレスにゴールドの装飾が映える。オフショルダーになっていて、胸元や肩にはファーがあしらわれている。
「椿咲はいつも俺の『綺麗』を更新していくね。」
椅子に座る椿咲に近づく。
「とても綺麗だ。昨日の貴女もずっと綺麗だったが……」
「ひゃっ……♡!ぅう……///」
耳打ちしながら、椿咲の腰をすぅっと指でなぞった。椿咲は身体をビクッ♡とさせて耳まで赤くした。
「昨日のこと思い出して式中照れる……なんてことダメだからな♡?」
「そ……そんなこと言ったら逆に思い出すわ///!!」
「ふふふふっ!」
いい所なのは山々だが、タイミング悪くメイドが椿咲を呼びに来た。
「じゃあ、俺はもう行くよ。椿咲、今年も見事な椿を咲かせてくれ。」
「っ……///!えぇ……!!」
その年、白い雪に映える赤や桃色の椿が優美に咲き誇ったという。
「晶ぁ、きれぇな椿だなぁ。よぉくやってんなぁ。」