あれから三週間後、良子は磯崎に教わった滝つぼに向かって車を走らせていた。
 病院を受診したあの日、午後から出社した良子は、その日のうちに渡井に休暇申請をした。渡井はあからさまに不機嫌な顔をしたが、隣に座る部長が咳払いをすると、不承不承ながら数回頷いて了承してくれた。
 部長がいるタイミングで切り出して正解だったと、良子は思った。
「悪くはない……かな」
 自然と想いが口を衝く。
 免許を取得してから初めて借りたレンタカーで、久し振りのドライブ。ペーパードライバーの運転を煽るような風が、良子の髪を撫でるように吹き抜けていく。
 教習所以来の高速道路を走っているのに、気分はなぜだか晴れやかだった。
 目まぐるしく過ぎゆく風景が、大きな開放感を与えてくれる。想像以上に順調な小旅行に、心は勝手に弾んでしまう。
 心許ない運転をサポートしてくれるカーナビによれば、目的地までは残り十五分を切っている。
「高速を降りたらすぐなんだ」
 良子は地図を確認すると左のウインカーを出し、出口へと向かう。一般道まで出ると高層ビルやマンションの類は一切なく、古民家のような家や、緑の美しい山や田んぼばかりが視界に飛び込んでくる。
 都会の喧騒を忘れて、とはこのことを言うのだろうと思った。
「綺麗――……」
 こんな気持ちになったのは、いつ以来だろうか。少なくとも、社会人になってからは感じたことはないだろう。
 前後左右の確認を怠ることなく、法定速度以下のスピードで車を走らせる。後続車もいないので、煽られる心配も無用だ。
 山道に入り、少し強めにアクセルを踏んだところで、カーナビが目的地付近まで来たことを知らせるアナウンスを流した。
 前方に幟旗が見える。どうやら、ここがあの雑誌に載っていた場所のようだ。
 駐車場の入り口に立つ男性に駐車料金を支払い、敷地内に車を止める。モニターに後方がしっかり表示されたので、案外、駐車も簡単だった。
 助手席に置いたショルダーバッグを手に車を降りると、良子は大きく深呼吸をした。ひんやりとした空気が身体中に染み渡る。空気が美味しい。
 小鳥のさえずりが優しい旋律を奏でていて、目を閉じるだけで、どこか別の世界へと吸い込まれてしまいそうだった。
 案内所で貰った地図によると、ここから滝つぼまでは、およそ二時間の距離らしい。良子は自分を鼓舞するように「よし」と言って前を見据えると、軽く頬を叩き、歩き始めた。
 この日のために購入した黒のトレッキングシューズがしっかりと地面を捉え、前に進む力をサポートする。運動不足の良子には辛い道のりではあったが、どこかから湧き出る興奮に背中を押されたのか、その足取りは軽かった。
 爽快に山の奥へと足を運ぶ。気持ちのいい汗が頬を伝う。汗をタオルで拭うたび、日頃のストレスも纏めて吸い取っている気持ちになった。
 ふいに時計を確認すると、山道を登り始めてから早くも四十分が経過していた。
 体力的には、まだまだ余力が残っている。が、道中に食事処と書かれた昔ながらの茶屋があるのが目に入り、良子は一旦小休憩を取ることにした。
 店内にも席はあったが、あまりに気持ちのいい晴れ空だったので、良子は外の席に腰を下ろした。
「みたらし団子をひとつ」
 かしこまりました、と頭の後ろで髪を結んだ女性が、店の奥へと戻っていく。所作に品を感じたが、もしかすると年下なのかもしれない。
 まるで店のBGMのように、木々や葉の擦れる音が聞こえる。息をするたびに、心が浄化されていく。特集が組まれるほどの場所でありながら人がまばらであったことも、良子にとってはプラスに働いてくれた。
「お待たせいたしました。ごゆっくり」
 そうこうしているうち、あっという間にみたらし団子が運ばれてくる。セットで付いていた温かなお茶の香りに、思わず笑みが零れた。
「あ……美味しい」
 空腹を感じていたわけではない。それなのに、不思議と普段の食事の何倍も美味しく感じる。ここは都心から離れた場所とはいえ、この団子を食べに来るだけでも、充分に訪れる価値はありそうだ。
 美しい緑が風に揺れている。その風景を眺めていると、若い男性がひとり、山道を登ってくるのが見えた。
 金色に染められた髪の毛に穴の開いたジーンズ、真っ白な靴。お世辞にも、この世界観に似つかわしくない出で立ちをしている。
 男性は良子のいる茶屋を見て立ち止まる。しばらくすると気持ちが固まったのか、山道を逸れ、店に向かって歩き出す。ポケットに手を入れたまま、気だるそうに近づいてくる。
 良子の中の苦手センサーが反応した。良子は素早く視線を美しい自然の中へ戻し、男性を視界から抹消した。
 しかし、あろうことか男性は、良子の隣に勢い良く座ったのだった。
 鞄を下ろす音がする。なにやら、呟いている。
「……っすか」
 気配は感じなかったが、店員に話し掛けているのかもしれない。少なくともそれが、自分に向けられたものだとは微塵も思わなかった。
 男性に背を向けたまま、残りの団子を口に運ぼうとした時、「あの」と先ほどの低い声が、良子の背中に刺さった。
 恐る恐る、振返る。
 視線が合うと、男性は良子の後ろを指差しながらに言った。「メニュー、取ってもらって良いっすか?」
 あ、と背筋を伸ばし、良子は急いでメニューを男性へと渡す。男性の目は、まっすぐ良子を捉えていた。
「あざます」
 良子を見据えたまま、男性はぺこぺこと何度も小さく頭を下げている。
 面倒くさいことにならなくて良かった――とため息をついたのも束の間、男性はさらに言葉を続けた。
「それ、みたらし団子っすか? 旨いっすか?」
 見た目とは裏腹に、その瞳は純粋な少年のようだった。どこか見覚えのあるような気もしたが、良子は深追いせずに、できる限り素っ気なく男性の問いに答えた。
「美味しいですよ」
「そっすか。じゃあ、俺もそれにしよ」
 すみませーん、と男性が店員を呼ぶ。それからは互いに会話をすることもなく、良子は残ったお茶を飲み干すと、席を立つ準備を始めた。
 その様子が目に入ったのか、男性はまたしても、良子に声を掛ける。
「あ、あの。あなたも今日は、滝つぼに?」
「そ……そうですが」
「やっぱり。あの、もし良かったらなんすけど」
 嫌な予感がした。
「滝つぼまで、一緒に行きません? ひとりで歩くのもつまらないし、初めてで、道も全然わからないんすよ」
 予感は的中した。せっかくの休日に、こんなところに来てまで、自分とは真逆とも言える男性と一緒に過ごさなければならないのか。今日くらい、安らかな時間を過ごしたい。
 絶対に断ろう――そう思った時だった。
「俺、磯崎俊っていいます」
「え、磯崎?」
 その言葉に、身体が勝手に反応した。思っていた反応と違ったようで、俊の眉間には深い皺が寄った。
「そうすけど……。あれ、もしかして、どこかでお会いしてます?」
「いえ、すみません。たまたまこの場所を紹介してくれた先生と、同じ苗字だったもので」
「先生?」と俊は首をすくめる。
「あの、もしかしてなんすけど……それって都内の眼科で、その人は、この場所の雑誌を見せてきたりしました?」
 どうしてそれを、と思いながらも、良子は黙って頷く。すると俊は「やっぱり」と言って、バツの悪そうな顔を浮かべた。
「それ……親父です」
 良子の感情は頭の中で迷子になり、開いた口が塞がらない。
「趣味なのか知らんすけど、気に入った人? には、色々と押しつけるんすよ」
 やめろって言ったのに、と俊は独りごちる。そうか、見覚えがあると思ったのは、この目が似ていたのだ、と今更ながらに良子は気付いた。
 頭の後ろを掻きながら、俊は言う。
「でもまあ、親父の紹介でこうして会えたわけですし、これも何かの縁ってことで、一緒、して良いすかね?」
 この半ば強引なところも、あの先生とそっくりだ。とはいえ、この場所を教えてくれた先生の息子とあれば、無下にするわけにもいかない。良子は勢いに押されるように、「はあ」と返事にならない言葉で応えた。
「よっしゃ」と笑う俊は、見た目以上に子どもに見えた。

「――……へえ、会社でそんなことが」
 これも親譲りなのだろう。聞き上手であり、誘導尋問ともとれる俊の言葉に、普段はあまり話すことのない自分の話を語っていた。
 それでも嫌な気持ち一つ抱かないのは、時折見せる、優しい笑顔のせいかもしれなかった。
「でもたしかに、『人間らしさ』なんて要らないって思うこともあるっすけどね」
 真剣な表情で俊は言う。
「基準とか、標準とか? 人間関係って、知らぬ間にそういうものに紐づいちゃったりしてるんすよね。だから、そこから外れると煙たがられる。変な呼び名を付けるのだって、根底には無理矢理〝向こうの基準〟に戻そうってしてるからなんすよ。そう考えると俺らって、いつも見えない紐に縛られてるんす」
 俊はその風貌とは裏腹に、随分と口が立つ。聞けば聞くほどそれが正解であるように感じて、良子は深く頷いて聞いていた。
「人付き合いが上手いとか下手とか。そんなに区別を付けたいなら、仕事を押し付けた人も、それを見て見ぬふりする人も、俺からすれば人付き合いが下手な人っす。当然、そんな人たちのために速水さんが『人間らしさ』を捨てる必要もないと思います……けど、難しいっすよね。それは人それぞれが決めることで、それが速水さんがたどり着いた答えなんでしょうから」
 俊はまた、優しく微笑んだ。自分の意見を押し付けることも、人の考えを否定することもない。励ましとも、どこか違う。
 心にすとん、と落ちてくる。そんな言葉だった。
 遠くから音が聞こえる。雨のような、線香花火のような、心を惹きつける、そんな音。
「あ、速水さん! 見えてきたっす! ほら、滝!」
 前方を指さしながら、嬉しそうに俊は振り返る。木々の間からその行先を見つめると、そこには確かに、滝が流れていた。
 ここからなら、あと十分足らずで到着できるだろう。
「そういえば、あなた……俊くんは、どうしてここに来たの? お父さんに言われて?」
 目的地を前に、良子は尋ねる。咄嗟に浮かべた驚きの表情も、父親そっくりだ。
「俺すか? 俺は――」
 一呼吸を置いて、力を抜くように、笑う。なにを考えているのか、良子にはその心がまるで読めなかった。
「今さら……すけど、見てみたかったんです。自分の、心の内を」
 それってどういう――そう口から零れそうになったところで、良子は慌てて口をつぐんだ。
「俺も親父に、騙されてるだけなんでしょうけどね」そう言った俊の瞳から、先ほどまでの輝きを感じられなかったからだった。
 そう、とだけ返して、良子は再び歩き出した。
 視覚で滝を捉え、聴覚で滝の音を聞きながら、二人は静かに進んでいく。会話の無くなった歩みは早いものとなり、五分と掛からず、そこに着いた。
 神々しい美しさをも身に纏い、命が宿ったかのように止めどなく落ち行く滝が、視界いっぱいに広がる。ただそこに立っているだけで、感じるものがあった。
「例の滝つぼは……もう少し、あっちですね。行きましょう」
 先ほどまでと変わらぬ声で、俊は言う。
「滝つぼなら、どこからでも良いってわけじゃないの?」
「親父いわく、違うみたいっす。でも、場所は聞いてますんで」
「俊くんのお父さんって、何者なの?」
「何者って。ただのパワースポットマニアっすよ。あ、ここ滑るから気をつけて」
 良子は俊に手を引かれながら、一歩ずつ、滝の近くへと向かっていく。滝つぼに落ちた水しぶきが届くほどの距離まで近づいたところで、俊の足は止まった。
「ここみたいっすね。速水さん、はい、これ」
 俊は唐突に、マッチ棒を一本、良子に手渡した。
「マッチ棒? こんなの、何に使うの?」
「何って、火をつけるんすよ?」
「じゃなくて、それをどうするつもりなの?」
「大丈夫。このマッチ棒は水に溶けてくれますから」
 会話が、成り立たない。俊の言葉を何度頭の中で反芻してみても、それらしい答えすら、浮かんでくることはなかった。
 良子がその場で固まっていると、「良いですか?」と、俊は火をつけたマッチ棒を、滝つぼへと投げ入れた。
 いきなり、どうしちゃったの――。
 心に抱いた不安を表すように、太陽が雲に隠れ、辺りが突然暗くなる――と、次の瞬間、滝つぼは蒼く淡く、内側から照らされるように光り始めた。
 呼吸は荒れ、手足が震える。言葉を発することもできないままに俊を見ると、彼は驚いた様子もなく、ただじっと、水面を見つめていた。
 俊が何を考えているのか、彼には何が見えているのか。良子には皆目見当が付かない、いや、想像することすら難しかった。
 ただ、何も言わずに大きく息を吐いた俊の表情が、今まで見た中で一番「人間らしい」と感じた。
「さ、次は速水さんの番です」
 色々と聞きたいことはある。でも、俊がそれ以外に言葉を発することはない。
 もしかすると本当に心が映り、自分の知らない自分が見えたのかもしれない。そう思うと、俊を問い質すこともはばかられ、良子は頷くほかなかった。
 目の前で起きた光景を思い返すと、マッチ棒を持つ手が震えてしまう。なんてことのない作業にも制限が掛かり、火をつけることもできなかった。
「良かったら……、怖かったら、俺も一緒にやりましょうか?」
 俊が手を伸ばし、良子の持ったマッチ棒を摘み上げると、流れるように火をつける。そして、火の棒を再び良子へと差し出すと、俊は良子の手を包むように握った。
「いきますよ、せーの……」
 小さな棒が宙を舞う。僅かな水しぶきとともに、水面は穏やかに揺れる。辺り一面が、橙色へと変わっていく。
 まるで、抑え込もうとしていた自分の、人間としての感情が映し出されたようだった。
 その光景を見て、俊が耳元で囁く。
「速水さんの手、あったかいっす。やっぱりまだ、優しい〝人の心〟が残ってる――……」
 良子は俊の顔を見た。
「あなたはロボットなんかじゃない」
 良子の瞳から、涙の粒が零れ落ちる。止めようにも、ぽろりぽろりと、涙は頬を伝っていく。胸の鼓動は速くなり、自分が人間であることを認めてくれているかのように、全身に優しい温もりを巡らせていく。
 滝つぼには〝人間らしく〟涙を流す、良子の顔が映っていた。