壁ドン!? 
 ちょっと待って!
 なんでボク、壁ドンされてんの!?

 軽音楽部の部室。
 ドラムとアンプに囲まれた密室で、なぜかボク壁ドンされてる。
 壁ドンの説明は、もはや必要ないよね。壁際に相手を追いつめて、手を壁にドン! この場合、追いつめられてるのがボクで、追いつめているのがヒデさん……って、余裕かまして、説明してる場合じゃない! なんとか逃げ出したいのだけれど、気が焦るばかりで頭が回らない。
 どうしてこんな状況になってるんだっけ。こういうのって普通、女の子がされるものじゃないのかな。どうでもいいことばかりが頭の中を駆け巡る。抜け出す方法を考えるほどに、思考が空回ってしまう。
 逃げ場所を求め彷徨っていた視線を、眼前のヒデさんへと戻す。やばい。めちゃ顔が近い。めっちゃ見詰められてる。間近で見ても、やっぱり綺麗な顔してる。しかもなんか、いい匂いするし。
「え、ちょ、あの……ち、近くないですか?」
「このスタジオ、防音だから」
「ふぁ、ふぁい?」
 思わず間抜けな声が出てしまった。
「叫んでも、外には聞こえないよ……って話」
 そう言ってヒデさんは、口の端をゆがめて笑った。
 このままでは、唇を奪われてしまうんじゃないだろうか。いや、奪われるのが唇だけで済めばいいのだけれど……って、余裕ぶちかましてる場合じゃないってば!
 よし、逃げよう!
 そう決めてもなお、ためらってしまう。逃げるにしても、ちゃんと逃げ切れるのだろうか。入口の防音ドアは重そうだし、手間どって引きもどされてしまったらどうしよう。そんなことを考えている間に、ヒデさんの左手が頬にのびる。
 後悔したときには、もう遅い。さらに逃げるのが難しい状況になってしまった。
「名前なんだっけ?」
「じゅ、純哉(じゅんや)ですよ。香月純哉(こうづき じゅんや)……」
「純哉か……。呼び方、ジュンでいいよな?」
 ヒデさんの左手が頬に触れる。冷たい指先の感触が、火照った頬をわずかに冷ます。
「目閉じろよ、ジュン」
「え、えっと……」
「見詰め合ったままの方がいい?」
「いや、それは、その……」
「オレは、どっちでもいいけど……」
 ふたたびヒデさんが、口の端をゆがめる。
 指先がゆっくりと頬を撫でて顎まで滑る。
 壁ドンからの顎クイ。顎クイの説明は、もはや必要ないよね……って、だから余裕ぶちかましてる場合じゃないってば!
 やばい。ドキドキが止まらない!
 心臓が飛び出してしまいそうだ!
 早鐘のように脈を打ち続けるボクの胸の音、ヒデさんに聞こえてしまわないだろうか。こんなにも緊張してることがバレてしまったら、なんだか恥ずかしい。
 だめだ! 緊張し過ぎて、思わず目を閉じてしまった。もうこれ、覚悟決めた方がいい流れ? 「優しくしてください」とでも言えばいいのだろうか。いや、タイミング的に遅い。息づかいが、もう間近まで迫っている……。
 ファーストキスって、もっとロマンチックなものだと思ってた。いや、この状況だって考えようによっては、ロマンチックだと言えなくもない。訳が解らないままに奪われるのも、意外といいかもしれない……。
 いやいや、まてまて、なに言ってんだ。錯乱してる場合じゃない! 冷静になるんだ! そもそも初めてのキスの相手が、男性でいいのかって話じゃないの!?

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ユキホの部活見学に、着いて行っただけなのに。
 ヒデさんは一つ上の先輩で、うちの学園でその名を知らぬ人はいない有名人だ。金色に染めた髪や、パンキッシュなファッションは大いに人の目を惹くのだけれど、そもそも顔立ちが整っているからファッションを抜きにしたって注目を集めてしまう。
 ユキホによるとヒデさんの名が学園中に知れ渡ったのは、去年の文化祭が決め手だったのだそうだ。軽音楽部として、ヒデさんは二日間の文化祭で六回のステージを踏んだ。そして六回全てのライブに校外からオーディエンスが押し寄せ、会場を埋め尽くしたのだという。噂は学園内を駆け巡って生徒の動員数も増え続け、二日目は会場の体育館に入れない人の方が多かったらしい。
 その頃ヒデさんたちは、地元のライブハウスで毎週のようにライブを演っていたという。そして夏に行われたコンテストでは、初出場で準優勝をさらったのだとか。
 ライブハウスのみならず、学園祭のステージでさえ満席にしてしまうヒデさんたちの存在感、そしてコンテストでの受賞もあいまって、すでに伝説級の存在なのだとか。
 そんな伝説の軽音楽部の部室を、幼馴じみのユキホに引きずられるようにして訪れたのが昨日の話だ。吹奏楽部の見学に行こうとしていたところを、強引に付き合わされた。いつもこうだ、ユキホはいつだって強引にことを運び過ぎる。
 ドラマーが卒業してしまった軽音の部員は、ギター&ヴォーカルのヒデさんと、ベースのノリさんの二人だけだ。部室を訪れると、ヒデさんは「久しぶり」と言って親しげにユキホを迎えた。そう、元から二人は知り合いなのだ。
 バンドをやってるお兄さんに憧れて、ユキホは中学の頃からドラムを叩き続けている。待望のドラマーの入部希望に、ヒデさんのテンションも高かった。と言うか、もしかするとこの人、いつもハイテンションなのかもしれない。
 せっかくだから、セッションしようという話になった。でもボクは、ギターもベースも弾くことができない。歌ならできるだろうと言われ、二曲を歌った。カラオケ以外で歌うだなんて初めてで、巧く歌えている気がしなかった。けれどもボクの歌は好評で、ヒデさんから入部を勧められた。しかもかなりの熱量で。
 だけど当然ながらヒデさんが歌う方がさまになっていたし、吹奏楽部に入るつもりだったから、入部を断って部室を後にした。学園の有名人との邂逅は、これきりのはずだった。軽音の部室になんて、もう二度と顔を出すことはないだろうと思っていた。
 それなのに今どうして軽音の部室に居るのかと言うと、話は単純でヒデさんに呼び出されたからだ。断る術を知らない気弱なボクは、呼ばれるがままに軽音の部室に顔を出し、そしてなぜか壁ドンで迫られているという訳だ。

 キャンパス内にいくつも防音スタジオが在るだなんて、柚子崎の学校ならではだろうか。それとも防音室の二つや三つくらい、どこの高校にでも在るものなのだろうか。この部屋は、完全に外界と遮断されている。内側の音が漏れないだけではなく、外の音だって一切伝わってこない。
 静まり返ったスタジオの中、壁掛け時計の音がことさら大きく耳に響いた。そして秒針の音より大きく速いボクの鼓動。ヒデさんに聞こえてしまわないかと気が気じゃない。こんなに緊張しているとバレたら、恥ずかしさに心臓が破裂してしまうかもしれない。
 壁ドンされてから顎クイされ、そして目を閉じた……。
 わずかな時間しか経っていないはずなのに、もう長い間こうしているように感じる。のぼせ上がった頭はまるで霧がかかったかのようで、顎に添えられた指先の冷たい感触だけがボクを現実につなぎ留めているように思えた。
 間近に迫る、ヒデさんの息遣い。
 もう覚悟を決めよう。
 あと少しで唇が触れる。
 そう思った瞬間、突如としてヒデさんが笑い出す。
 堪え切れずに吹きだしたかと思うと、顔を伏せて口元を押さえた。しゃがみ込んで、声を殺して笑い続けている。
「……あのぉ」
 何が起きているのか理解できず、呆けた顔で立ちつくすことしかできなかった。しゃがみ込んだヒデさんが、ときおりボクを見あげては笑い続けている。
「ごめん、ごめん。悪かったよ……」
 そう言いながらも、まだ笑いが止む気配はない。右の手の平をボクに向け、ちょっと待てと身ぶりで言っている。
 呆然とするしか術のないボクだけど、ここまで来ればさすがに状況を理解する。
「……か、からかったんですね」
 発した声が怒気を孕んでいて、自分でも驚いた。
 だけどこんな風にからかわれて、怒らない奴なんて居るのだろうか。怒っていいところだよね。いや、ここは怒るところだ……自分に言い聞かせる。
「冗談のつもりだったけど……すまん、つい悪ノリを」
 いい加減に、笑うのを止めてほしい。有り得ないくらい恥ずかしいんだけど。怒りに自分を鼓舞しようとしたけど、恥ずかしさの方がはるかに上回っていた。
 耳まで赤くなっているのが判る。顔全体が熱い。顔から火が出るとは、このことだ。
「真っ赤になって……ウブだな、オマエ」
「知りません!」
「そう怒んなって。ごめんな」
 そう言ってヒデさんの手が、クシャクシャとボクの頭を撫でる。頭をなでられるなんて久しぶりのことで、思わず身を固くしてしまう。けれども意外と悪い気がしない。
 しかし入学間もない後輩を部室に呼び出して、いきなり壁ドンしてキスを迫るだなんてどうかしてる。でもヒデさんは、そういう人なのだ。予想の斜め上を行くからこそ、学園中の皆が注目するのだから。