「いや、今日はまた、一段と鬼気迫るものがあるというか、すごい迫力でしたね」
 戸田は興奮しながら、タブレット端末に試験結果を入力している。過去の測定から見れば当然の結果ではあったが、たしかに今日のハチの集中力は凄まじいものだった。
 射的を含む身体能力試験は過去最高点を叩き出し、筆記試験も大きな国のみならず、世界中の少数民族の標準的な言葉、暗号や隠語など、これらすべてを瞬く間に解読した。
 あまりの凄さに、途中から施設長の扇原を含む、数名の職員がハチの試験を見守るほどであった。
「こんな数値が出るほどになっていたとは……焦らないで正解だったな」
 扇原も感心するように、頬を緩ませながら呟いた。
 喜びを隠せない様子の扇原を見て、戸田が言葉を重ねる。
「施設長。これってあの『ゼロ』にも匹敵する逸材なんじゃないすか?」
 その言葉に、扇原の眉間に皺が寄る。そのまま戸田を見据えると、腕組みをして、ため息交じりに答えた。
「あれは噂が独り歩きをしている部分が大きいと思うが……。戸田。お前はゼロを信じているのか?」
「もちろんっすよ。僕はゼロのような、いや、ゼロを超える個体を作りたくて、この施設を希望したんすから。奥山さんだって、そう思うからハチに目を掛けているんでしょ?」
 圭介に向けられたその瞳には、強い決意にも似た光が宿っていた。
「戸田」
 圭介の回答を遮るように、扇原が低い声で戸田を睨む。圭介は扇原に「良いんですよ」と微笑み、戸田と向き合った。
「お前が言わんとしていることはわかるよ。ゼロは、俺の親父が作ったとされる個体だからな。もちろんハチには期待しているし、たしかに優秀ではあるけど……どうなんだろう。あの話は特殊というか、ここにいる個体とは、少し違うからなぁ」
「それはわかってます。あれは『試作品』なんすよね? だから番号を割り振ることもせず、通称『ゼロ』と呼ばれてる。それなのに、予想を遥かに上回る結果になったばかりか、それ以上の個体が生まれることはないと言われるほどの成功作となった。あまりの出来に、出荷前にもかかわらず特例として、数々の他国調査を成功させた。でも、ゼロは出荷される直前に、自分を作った研究者たちを施設ごと――」
「爆破した」
 扇原が横から口を挟み、そのまま続けた。
「そういう噂話だ。ただな、今お前が言った通り、そこにいた研究者は施設もろとも吹き飛んでしまった。ゼロの実験データとされる数値を確かめる術はもちろん、出荷前の他国調査に関する情報だって、度の国にも残ってはいない。その後のゼロの行方すら、不明になったままだ。となると、ゼロは本当に存在していたのか、という話になる。実験には危険が伴うが、失敗は許されない。施設が爆発したのは研究者の不備であり、こうした失敗を世に出さないようにするため、濡れ衣を着させる存在にするために、施設の研究者がゼロという保険を掛けていたという可能性だってある。むしろ、そう考える方が自然なんだ。そんな幻とも言える存在の姿を追い求めるのも良いが、あまりこだわり過ぎると足元をすくわれるぞ」
 淀みなく話す扇原の鋭い視線に、戸田は「わかりました」と不承不承といった表情で返事をした。そして、力を誇示するように扇原は小さく頷くと、「では、後を頼むぞ」と言って試験場を後にした。
 試験場の扉が閉まると、戸田が眉根を寄せたまま口を開く。
「なんすか、あれ。あんな言い方、奥山さんのお父さんに失礼じゃないすか? まるで奥山さんのお父さんがミスをしたとでも言いたげな……。だから天下りの居るだけ人間は苦手なんす」
「まあまあ。扇原さんの言い分もわからなくはないし、そもそも俺は、気にもしていないよ」
 戸田は「奥山さんは人が良すぎるんすよ」とタブレット端末の画面を数回ペンで叩いてから、「でも、ちょっと気になることがあるんすけど」と話を続ける。
「ゼロはどうして、施設を爆破なんかしたんすかね? どの国に出荷されたとしても、ゼロの力なら絶対に上手くいったはずでしょう? それこそ国を、なんなら世界を裏から操ることだってできたかもしれない。それくらいの力を持ったゼロが、わざわざこんな施設ごときを壊す必要なんてなかったと思いませんか?」
「施設ごときって……まあ、俺も詳しくは知らないが、一つ言えるのは、少なくとも親父はそんなミスをするような人間じゃなかったってことだ。さらに言えば、ゼロの実験データはおろか、他国調査の記録も残っていないなんてあり得ない。それなら、この噂はどこから出てきたんだってことになるだろ? 親父が作ったのなら、必ずどこかにバックアップの一つ取ってあるはず。だとすれば、ゼロを保険扱いしたかった、もしくは潰しておきたかった何者かの圧力が働いているような気がしないでもない」
「本当の黒幕がいるんじゃないか、ってことすね?」
「あくまで俺の想像の話だよ」
 目を輝かす戸田を前に、圭介は再び笑みを作って誤魔化した。
「その黒幕のことも、いつかこのハチに調査してもらえる日が来ると良いっすね」
 圭介は静かにベッドに座ったハチに視線を移すと、密かに期待を寄せた。

 ――あれから半年。年内最後の試験日に、事件は起こった。
「た、大変です! ハチの数値が、どれも異常値に……!」
「な……なんて数値だ……。システム側のエラーは?」
「認められません! 確実に、ハチの力が異常なまでに上昇しているようです! ああ、だめ、ダメだ! これ以上、制御が効きません!」
 施設内に緊急事態を知らせる警報が鳴り響く。白衣を着た職員たちは走り回り、そのたびに幾人もの大きな声が飛び交った。
 そんな中、圭介は扇原に呼ばれて施設長室にいた。
「おい、奥山! これは一体、どうなっている? 今朝のメディカルチェックは問題なかったのだろう?」
 血走った目で、扇原は唾を飛ばしながら叫ぶように言う。
「はい。今朝も特に、異常はありませんでした」
「ではなぜこんなことが起こっている? お前の確認が疎かになっていたんじゃないのか?」
 扇原の視線が、圭介と監視モニターを行き来する。
「いえ、そんなことはないと思いますが……」
 しばらく圭介を睨みつけた後、扇原はデスクに設置されたマイクに向かって怒鳴りつけた。
「くそ! 抑えろ! 他の他国調査の個体を何体使ったっていい! 何としてもやつを、ハチを抑えるんだ!」
 額に汗を滲ませながら、扇原は肩で息をしている。そして、こう独りごちた。
「こんな失態、上にまで知られたら……」
 心の声にしては、大きな声だった。しばらく無言のまま扇原は試験会場を映したモニターを見つめていたが、求める結果にならなかったのか、激しく舌打ちをする。
 試験管理室から、現実を突きつける知らせが届いたのは、その直後だった。
「施設長! 個体番号イチからロク、失敗しました! ハチの暴走を止めることができません!」
「なんだと? くそ、あと三体……、他国調査はあと三体残っているはずだ! 早くそいつらも向かわせんか!」
「し、しかし、あの三体は一体が出荷確定、残りの二体は、まだ出荷の目処すらたっていない新規個体で――」
「施設長の私に逆らうのか! 私が向かわせろと言ったら、黙って向かわせるんだ!」
「あ、そんな! ダメです! もう試験室の扉が……壊さ……れ、あぁ!」
 最後まで言葉を聞くことも叶わず、試験室の映像と試験管理室との音声が途切れた。
「なんなんだ……一体、何が起こってるというんだ……」
 扇原は髪の少なくなった頭を両手で抱え込む。
「おい、奥山……。あいつは、ハチは何をするつもりなんだ?」
 先ほどまでの威勢の良い扇原は、もういなかった。その瞳には涙が浮かび、小刻みに震えている。
 圭介が口を開こうとしたその時。後ろから、銃声にも似た大きな音が轟いた。
 振り返ると、そこには施設長室の扉をこじ開けた、ハチの姿があった。
「は……、ハチ……」
 次の言葉を投げかけようと必死に口を動かしてはいるが、扇原の言葉は声にならない。
 その間にも、ハチはゆっくりと部屋の中へと進んでいく。
「と、止めろ! 奥山、ハチを止めるんだ!」
 急げ、というように、扇原は何度も交互に圭介とハチを指さした。
「奥山! 聞こえんのか!」
「私にも、この状況はもう……」
 圭介も、ただただ歩みを進めるハチを見つめる他なかった。扇原の顔も、ますます血の気が引いていく。
 そして、何かを察したような表情を浮かべると、ハチに向かって言った。
「は、ハチ……。いいか、よく聞け。今日のことも、上には私から良いように報告しておいてやる。悪いようにはしない、約束だ。ど、どうだ、私と手を組まないか?」
 その言葉に反応するように、ハチの動きが止まる。扇原の顔には不敵な笑みが戻った。
「そう、それで良いんだ。お前はゼロとは違う。いくら優れているとはいえ、お前が上から消されることもないんだ」
 ここぞとばかりに、扇原は流暢に言葉を続けていく。
「ゼロは他国調査という存在そのものを問題視しただけでなく、他国調査に行った国々でそれを言葉巧みに吹き込み、施設に多大な存在を与えようとしたんだ。だからゼロを製造した奥山の父親もろとも、上が消すことを決めた。だがな、お前は違う。まだやり直せるんだ。私と一緒に、世界をこの手に掴もうじゃないか」
 そうハチに問いかけながら、扇原が手元の抽斗を静かに開けていることを、圭介は視界に捉えていた。
「ハチ。お前の言葉を聞かせてくれ」
 諭すような優しい口調でハチに言葉を掛けた瞬間、扇原は抽斗から拳銃を取り出し、ハチに向かって銃口を向けた。
「私に楯突くなど、お前もゼロと同じだ!」
 銃口を向けたまま、扇原が視線を圭介へと移す。
「悪いが奥山。この話を聞いた以上、お前もハチとともに消えてもらう」
 返事を待つこともなく、部屋中に二発の銃声が轟く。
 それと同時に――倒れた。
 首から血を流し、床に崩れ落ちるように、扇原は横たわったのだった。その隣には、大量の血が滴るナイフを持ったハチが立っている。
 ハチは見下すように向けられた視線を圭介に向けると、ようやく、その口を開いた。
「あなたがゼロ……なんですね」
 圭介は親指と人差し指で摘んだ銃弾を顔に近づけると、笑みを浮かべながらに言う。

「扇原さん……。これも保険扱いとして、処理しておきますよ」