パチパチパチパチ――……
幾重にも重なる拍手の中を、惜別の言葉がすり抜けていく。どれだけ大きな音が鳴ろうとも、言葉は迷わず、真っすぐに飛んでいく。
まるで、ライブ会場にでも居るようだ。
古谷幸介もバンドメンバーさながらの、あるいはコーラス部隊の一員となって、輪の中心にいる女性に拍手という名のメロディーを奏でていた。
彼女の名前は新木陽子。彼女は今日をもって、この会社を退職する。
思えば彼女と初めて出会った日も、今日と同じように、梅雨と夏の狭間に訪れた、気持ちのいい晴れの日だった。
今から約二年前。
会社恒例の時期にあった人事異動で、陽子は関東支部から東京本社へと異動してきた。配属先は、幸介と同じ営業第二課だった。
「本日付で関西支部より異動してまいりました、新木陽子です。関西からの異動ですが、関西弁は話せません。出身は関東の茨城ですので、むしろ、茨城弁が出てしまうかもしれませんが、その時は茨城弁で返していただけると嬉しいです。よろしくお願いします」
「いや、返せないだろ!」
「ボケだけは関西仕込みか?」
キレのある突っ込みに、部内ではどっと笑いが起きる。陽子は僅か十秒の自己紹介で、部署メンバーの心をがっちりと掴んでしまっていた。
大きな口を開けて笑う彼女は次の季節を運んできたのかもしれないと、雲一つない青空を窓越しに捉えながら、幸介は感じた。
一緒に仕事をするようになってからも、「名前に負けない明るさを持っている人」という陽子の印象は崩れなかった。彼女はどんな話をする時も、決まって相手の目を見て話す。その際、不意に向けられた笑顔は幸介の胸の鼓動を早め、仕事の邪魔をするほどの力があった。
そんな陽子と、幸介は業務上のペアを組んでいた。
理由は至極単純なもので、互いの名字に「古」と「新」が入っていることにひとりの先輩が気が付き、彼女が幸介の二歳年下だったことから、「これは新旧交代に違いない」とからかわれ、そのまま半ば強引に、通称「新旧ペア」として二人はペアを組むこととなった。
そんないい加減な理由で決めて良いものなのか、と幸介は内心思ったが、「確かに! ペアになるための名前かもしれませんね」と陽子が満更でもない表情で返していたので、その気持ちはすぐに飲み込んでいた。今でもあの時の表情は、しっかりと脳裏に焼き付いている。
きっかけはどうであれ、陽子との仕事は楽しかった。
持ち前の明るさと協調性は取引先のウケも良く、彼女は年下とは思えないほどに機転も利いた。雑務も自分から進んで請け負ってくれたので、仕事は格段に捗るようになった。
それだけではない。陽子は突然、突拍子もないことを言っては場を和ませた。
例えば、「サンドイッチとおにぎりって、セットで食べると満足感が凄いですよね」とか、「この前、家でレンコンに顔を書いて、にらめっこをしてみたんです」といった具合だ。
いつも奇想天外、予想の斜め上を行く言動ではあったものの、一緒に過ごす時間がとても心地良いものに変わったことは間違いなく、気が付けば、幸介は彼女と話すことを楽しみにしていた。
ちなみに、レンコンは茨城県の特産品らしく、時々実家から送られてきたという大量のレンコンの差し入れが、会社のデスクを占領していた。
陽子のお陰で仕事を効率的に、かつ楽しみながら取り組めるようになってからというもの、業績も目に見えて良くなった。彼女とペアを組んで半年が経つ頃には、「新旧ペア」の名前は流行り病のように部署の垣根を超え、名前だけが独り歩きをするほどになっていた。
「あれ? そういえば、新しく発注した名刺、まだ届いていないなあ……」
「名刺? それなら総務に聞いてみるといいよ」
新旧ペアの噂をよく思わない人は、残念ながら社内に一定数はいた。
「……はい、あ、そうですか、すみません。わかりました、それでお願いします」
「どうだった?」
「なんか承認が途中で止まっていたみたいで……。そんなに急ぎなら、もっと余裕を持って申請しろって言われちゃいました」
「いやいや。新木さん、だいぶ前に申請してたでしょ」
だと思ったんですけどね、と陽子はいつもと変わらない笑みを作る。
「俺が総務に文句言っとく」と幸介は受話器を上げたが、大したことじゃないですから、とその手は彼女によって止められた。
「古谷さんは気にしないで下さい。あ、二課のみなさんも、嫌なことがあったら溜め込まず、このレンコンに書き出してくださいね」
「それじゃあレンコンが報われねーって」
部署内に笑い声がこだましたが、幸介は心配だった。
小さな嫌がらせが起こっても、陽子はネガティブを笑いに変換させる。今ではこれが日常茶飯事で、常に周りに気を使いながら、日々を過ごしているように見えていたからだ。
そんなある日、飛ぶ鳥を落とす勢いだった進級ペアの前に、一つの事件が起きる。
「古谷、新木さん、お疲れさまー」
「古谷くん、陽子ちゃん、お先ね!」
「お疲れ様でした!」
「っれっしたー」
定時を一時間ほど過ぎ、二課のメンバーが次々と帰宅していく。この日は外回りからの帰社が予定より遅れてしまったため、幸介と陽子は残った業務を急いで片付けていた。
「そろそろ俺も……」
それからしばらくして、一番奥の席に座っていた部長が、鞄を持って立ち上がる。
「ふたりとも、売上が上がって忙しくなっているとは思うが、あんまり無理はするなよ。特に古谷くん。きみはちょっと頑張り過ぎだぞ。資本は身体だ。それに……ここのところ、色々とあったらしいじゃないか。気を遣っているのかもしれないが、ふたりから報告があれば、俺もすぐに動けるようにしているからな。いつでも言ってくれ」
「「ありがとうございます」」
「じゃあ、お疲れさま。あ、最後は電気もよろしくな」
そう言い残し、部長も退社した。
時刻は二十時を回ろうとしている。他の部署の島はすべて消灯しており、会社に残っているのは幸介と陽子のふたりだけのようだった。
「んー、今日はボチボチ終わりにしとくかなぁ」
部長の言う通り、最近は残業が続いてしまっている。東京本社での勤務が長い幸介はともかく、慣れない環境に加えてあの気の配りようだと、陽子の負担は相当のものだろう。
そう思っていた幸介は、普段陽子には時間の区切りをつけて帰宅するように促し、彼女に余計な気を遣わせないよう途中まで一緒に帰宅するフリをしてから、残務を一人で処理していた。
当然部長には、バレていたわけだが。
幸介は柱時計を見て目標の退社時間を決めると、気合を入れるように背伸びをして、ため息とともにパソコンの画面へと視線を戻す。
すると突然、いつもと声色の違う声が、小さく耳に届いた。
「古谷さん……ごめんなさい」
驚いた幸介はモニター越しに陽子を見た。「え、どうしたの、急に」
俯いていた彼女の肩は震えていた。
「大丈夫……じゃなさそうだね。どうした?」
会話を続けながら席を立ち、彼女の元へと駆け寄る。握られた陽子の手が、太ももの上で小刻みに揺れる。
「なにがあったんだ?」
「じ、実は明日の会議で使う資料が……」
そんなことか、と幸介は肩を落とした。
「まだ出来ていなかったのか? 言ってくれよ、水くさい。『進級ペア』に、そんな遠慮はいらないだろ」
やっぱり今日も遅くなりそうだ、と思いつつも、幸介は陽子を安心させる最大限の笑顔を作った。しかし。
「違うんです……。資料のデータが……その、消されていて」
「え? 消された? いつ?」
思いもよらない回答に、驚きが隠せない。
「古谷さんとの外回りから帰ってきて、しばらくしてから気が付いて……」
二人が外に出ていたのは、十四時から十八時過ぎ頃まで。その間、十六時から定時までは外回りの二人を除いて部署内ミーティンがあったため、この島に人はいなかったはずだ。
その時間を狙っての犯行だろう。やり方はわからないが、パソコンのロックさえ解除できれば、データを消すことくらい、できないことではない。
「どうして気付いた時に言わなかったんだ?」
「もう帰ってる人もたくさんいましたし、それに……、犯人捜しをしたところで、データが帰ってくるかはわからないじゃないですか」
「そ、それはそうだけど……」
つかの間の沈黙が、二人を包む。
「そもそも、私がちゃんとパソコンにロックを掛けていればこんなことには……。本当にごめんなさい」
陽子の口から聞いたわけではないので憶測に過ぎないが、ここ最近色々あった手前、部署のメンバーに心配を掛けたくなかったのだろう。笑顔を共有することはあっても、不安を煽ることは絶対にしない。
新木陽子は、そういう人だ。
だからこそ幸介は、彼女に惹かれていた。
「まー、悩んでいても仕方がない。やろう! まだ明日まで時間はある」
「そんな……古谷さん。私、知ってるんです。古谷さんが連日、残業してくれていること。大丈夫です。今のはただの業務上の報告で、なんとしても明日の朝までには、私が仕上げておきますから」
「あのな。進級ペアは元々、『新旧交代』って意味で付けられた名前だろ? つまり、二人いないと、言葉は成立しないんだよ。あと……、『旧』を舐めてもらっちゃ困るね」
威厳を示すように幸介は眉を上げ、口元を緩める。それを見た陽子は吹き出すように笑うと、何度も小さく頷いた。
「はい……そうですね。ありがとうございます」
「それに、これくらいで弱音を吐いていちゃあ『新旧交代』なんてできないぞ。人のことを気にする暇があったらほら、早く手を動かす」
はい、という返事とともに、キーボードが美しい旋律を奏で始める。幸介も自席に着くと、早速資料作成に取り掛かった。
あらゆる欲求を感じないほど集中し、二人は黙々と作業を進めた。そして、なんとか朝日が昇るよりも先に資料の復元、いや、それ以上のものを仕上げることができた。
「古谷さん、本当にありがとうございました。あの、これ」
陽子はそっと、缶コーヒーを差し出した。
「さんきゅー。もう気にするなって。それより、これから進級ペアに隠し事はなしだぞ」
「わかってます。でも、あと、その……」
「言わないよ」
「え?」
陽子の大きな瞳が、更なる丸みを増して幸介を見据える。
「これが良いことなのかはわからないけど、資料を消されたこと、社内の人には言わない。明日――もう今日か。今日の会議でバシッと決めて、こんなことをやったやつを見返してさ、この件は終わりにしよう。これ以降のことは、部長に任せるってことで」
「はい! ありがとうございます!」
大きく頭を下げながら、陽子は言った。まるで床にお礼を言っているようだと、幸介は笑った。
「それと古谷さん。進級ペアに隠し事はなし、なんですよね?」
「そうしてもらえると助かるよ」
「あの、実はもう一つ、言っていないことが……」
これは、進級ペアしか知らない、静かなる事件だった。
◆
「えー、本日を持ちまして、新木陽子さんは退職となります。新木さんには時に課を、時に部署の垣根を超えて、様々な形でこの会社の潤滑油として働いてくださいました。荒木さんはこの会社に多くの会話と思いやり、そして、たくさんの混乱や問題を、私たちに与えてくれました」
部長の言葉に、思わず全員が笑顔になる。
「今みなさんの表情にも表れておりますが、この笑顔こそ、新木さんが我々にもたらしてくれたものであり、功績なのだと私は思っています。新木さんがこの会社を去ってしまうことは大変残念ではありますが、新木さんが残してくれたものを私たちがしっかりと受け継ぎ、更なる向上に繋げてまいりましょう。それでは私が長々と話すのもあれですので、新木さん、最後に一言、お願いできますか?」
部長、すでに結構長いです、と野次が飛ぶ。また、大きな笑い声に包まれる。
陽子が部長と入れ替わるように前に立つと、全員の顔を見渡してから、ゆっくりと話し始めた。
「えー、みなさま。お忙しい中ご挨拶の時間をいただき、ありがとうございます。この東京本社に来て約二年と、期間にしてはあまり長い時間というわけではありませんでしたが、本当にお世話になりました。みなさまと出会い、たくさんの時間を共有できたことを、心から嬉しく思っております」
硬いぞー、とまたしても明るい野次が飛んだ。陽子は微笑みを浮かべながら、この日のために用意した言葉というよりも、今まさに感じている思いを言葉にするように続けていく。
「関西支部よりここへの異動が決まった時は、茨城県を出て上京した日の次くらいに不安を覚えたことを、今でもはっきりと覚えています」
「基準が可笑しいだろ!」
「硬さ取れすぎな!」
鋭い突っ込みとともに、和やかな空気が流れていく。
「本当にたくさんのご迷惑と、ご心配をお掛けしたことと思いますが、その分、私は私らしくいられたような気がしています。ここで過ごしたかけがえのない思い出と一緒に、私はこれからも、自分の名前に負けないくらい明るく、人生を楽しんでいきたいと思います。本当に、ありがとうございました!」
陽子の笑顔に吸い込まれるように、今日一番の拍手が送られる。惜別の声が、ありとあらゆる方向から飛んでいく。
彼女は深くお辞儀をすると、陽だまりのような優しい表情で口にする。
「最後に……〝幸介くん〟。進級ペアは今日で解散になってしまうけど……これからも、どうぞよろしくお願いします!」
はにかむ彼女の薬指には、銀色の指輪がはめられている。
それに応えるように頷いた幸介の指にも、同じ形の指輪がはめられていた。
幾重にも重なる拍手の中を、惜別の言葉がすり抜けていく。どれだけ大きな音が鳴ろうとも、言葉は迷わず、真っすぐに飛んでいく。
まるで、ライブ会場にでも居るようだ。
古谷幸介もバンドメンバーさながらの、あるいはコーラス部隊の一員となって、輪の中心にいる女性に拍手という名のメロディーを奏でていた。
彼女の名前は新木陽子。彼女は今日をもって、この会社を退職する。
思えば彼女と初めて出会った日も、今日と同じように、梅雨と夏の狭間に訪れた、気持ちのいい晴れの日だった。
今から約二年前。
会社恒例の時期にあった人事異動で、陽子は関東支部から東京本社へと異動してきた。配属先は、幸介と同じ営業第二課だった。
「本日付で関西支部より異動してまいりました、新木陽子です。関西からの異動ですが、関西弁は話せません。出身は関東の茨城ですので、むしろ、茨城弁が出てしまうかもしれませんが、その時は茨城弁で返していただけると嬉しいです。よろしくお願いします」
「いや、返せないだろ!」
「ボケだけは関西仕込みか?」
キレのある突っ込みに、部内ではどっと笑いが起きる。陽子は僅か十秒の自己紹介で、部署メンバーの心をがっちりと掴んでしまっていた。
大きな口を開けて笑う彼女は次の季節を運んできたのかもしれないと、雲一つない青空を窓越しに捉えながら、幸介は感じた。
一緒に仕事をするようになってからも、「名前に負けない明るさを持っている人」という陽子の印象は崩れなかった。彼女はどんな話をする時も、決まって相手の目を見て話す。その際、不意に向けられた笑顔は幸介の胸の鼓動を早め、仕事の邪魔をするほどの力があった。
そんな陽子と、幸介は業務上のペアを組んでいた。
理由は至極単純なもので、互いの名字に「古」と「新」が入っていることにひとりの先輩が気が付き、彼女が幸介の二歳年下だったことから、「これは新旧交代に違いない」とからかわれ、そのまま半ば強引に、通称「新旧ペア」として二人はペアを組むこととなった。
そんないい加減な理由で決めて良いものなのか、と幸介は内心思ったが、「確かに! ペアになるための名前かもしれませんね」と陽子が満更でもない表情で返していたので、その気持ちはすぐに飲み込んでいた。今でもあの時の表情は、しっかりと脳裏に焼き付いている。
きっかけはどうであれ、陽子との仕事は楽しかった。
持ち前の明るさと協調性は取引先のウケも良く、彼女は年下とは思えないほどに機転も利いた。雑務も自分から進んで請け負ってくれたので、仕事は格段に捗るようになった。
それだけではない。陽子は突然、突拍子もないことを言っては場を和ませた。
例えば、「サンドイッチとおにぎりって、セットで食べると満足感が凄いですよね」とか、「この前、家でレンコンに顔を書いて、にらめっこをしてみたんです」といった具合だ。
いつも奇想天外、予想の斜め上を行く言動ではあったものの、一緒に過ごす時間がとても心地良いものに変わったことは間違いなく、気が付けば、幸介は彼女と話すことを楽しみにしていた。
ちなみに、レンコンは茨城県の特産品らしく、時々実家から送られてきたという大量のレンコンの差し入れが、会社のデスクを占領していた。
陽子のお陰で仕事を効率的に、かつ楽しみながら取り組めるようになってからというもの、業績も目に見えて良くなった。彼女とペアを組んで半年が経つ頃には、「新旧ペア」の名前は流行り病のように部署の垣根を超え、名前だけが独り歩きをするほどになっていた。
「あれ? そういえば、新しく発注した名刺、まだ届いていないなあ……」
「名刺? それなら総務に聞いてみるといいよ」
新旧ペアの噂をよく思わない人は、残念ながら社内に一定数はいた。
「……はい、あ、そうですか、すみません。わかりました、それでお願いします」
「どうだった?」
「なんか承認が途中で止まっていたみたいで……。そんなに急ぎなら、もっと余裕を持って申請しろって言われちゃいました」
「いやいや。新木さん、だいぶ前に申請してたでしょ」
だと思ったんですけどね、と陽子はいつもと変わらない笑みを作る。
「俺が総務に文句言っとく」と幸介は受話器を上げたが、大したことじゃないですから、とその手は彼女によって止められた。
「古谷さんは気にしないで下さい。あ、二課のみなさんも、嫌なことがあったら溜め込まず、このレンコンに書き出してくださいね」
「それじゃあレンコンが報われねーって」
部署内に笑い声がこだましたが、幸介は心配だった。
小さな嫌がらせが起こっても、陽子はネガティブを笑いに変換させる。今ではこれが日常茶飯事で、常に周りに気を使いながら、日々を過ごしているように見えていたからだ。
そんなある日、飛ぶ鳥を落とす勢いだった進級ペアの前に、一つの事件が起きる。
「古谷、新木さん、お疲れさまー」
「古谷くん、陽子ちゃん、お先ね!」
「お疲れ様でした!」
「っれっしたー」
定時を一時間ほど過ぎ、二課のメンバーが次々と帰宅していく。この日は外回りからの帰社が予定より遅れてしまったため、幸介と陽子は残った業務を急いで片付けていた。
「そろそろ俺も……」
それからしばらくして、一番奥の席に座っていた部長が、鞄を持って立ち上がる。
「ふたりとも、売上が上がって忙しくなっているとは思うが、あんまり無理はするなよ。特に古谷くん。きみはちょっと頑張り過ぎだぞ。資本は身体だ。それに……ここのところ、色々とあったらしいじゃないか。気を遣っているのかもしれないが、ふたりから報告があれば、俺もすぐに動けるようにしているからな。いつでも言ってくれ」
「「ありがとうございます」」
「じゃあ、お疲れさま。あ、最後は電気もよろしくな」
そう言い残し、部長も退社した。
時刻は二十時を回ろうとしている。他の部署の島はすべて消灯しており、会社に残っているのは幸介と陽子のふたりだけのようだった。
「んー、今日はボチボチ終わりにしとくかなぁ」
部長の言う通り、最近は残業が続いてしまっている。東京本社での勤務が長い幸介はともかく、慣れない環境に加えてあの気の配りようだと、陽子の負担は相当のものだろう。
そう思っていた幸介は、普段陽子には時間の区切りをつけて帰宅するように促し、彼女に余計な気を遣わせないよう途中まで一緒に帰宅するフリをしてから、残務を一人で処理していた。
当然部長には、バレていたわけだが。
幸介は柱時計を見て目標の退社時間を決めると、気合を入れるように背伸びをして、ため息とともにパソコンの画面へと視線を戻す。
すると突然、いつもと声色の違う声が、小さく耳に届いた。
「古谷さん……ごめんなさい」
驚いた幸介はモニター越しに陽子を見た。「え、どうしたの、急に」
俯いていた彼女の肩は震えていた。
「大丈夫……じゃなさそうだね。どうした?」
会話を続けながら席を立ち、彼女の元へと駆け寄る。握られた陽子の手が、太ももの上で小刻みに揺れる。
「なにがあったんだ?」
「じ、実は明日の会議で使う資料が……」
そんなことか、と幸介は肩を落とした。
「まだ出来ていなかったのか? 言ってくれよ、水くさい。『進級ペア』に、そんな遠慮はいらないだろ」
やっぱり今日も遅くなりそうだ、と思いつつも、幸介は陽子を安心させる最大限の笑顔を作った。しかし。
「違うんです……。資料のデータが……その、消されていて」
「え? 消された? いつ?」
思いもよらない回答に、驚きが隠せない。
「古谷さんとの外回りから帰ってきて、しばらくしてから気が付いて……」
二人が外に出ていたのは、十四時から十八時過ぎ頃まで。その間、十六時から定時までは外回りの二人を除いて部署内ミーティンがあったため、この島に人はいなかったはずだ。
その時間を狙っての犯行だろう。やり方はわからないが、パソコンのロックさえ解除できれば、データを消すことくらい、できないことではない。
「どうして気付いた時に言わなかったんだ?」
「もう帰ってる人もたくさんいましたし、それに……、犯人捜しをしたところで、データが帰ってくるかはわからないじゃないですか」
「そ、それはそうだけど……」
つかの間の沈黙が、二人を包む。
「そもそも、私がちゃんとパソコンにロックを掛けていればこんなことには……。本当にごめんなさい」
陽子の口から聞いたわけではないので憶測に過ぎないが、ここ最近色々あった手前、部署のメンバーに心配を掛けたくなかったのだろう。笑顔を共有することはあっても、不安を煽ることは絶対にしない。
新木陽子は、そういう人だ。
だからこそ幸介は、彼女に惹かれていた。
「まー、悩んでいても仕方がない。やろう! まだ明日まで時間はある」
「そんな……古谷さん。私、知ってるんです。古谷さんが連日、残業してくれていること。大丈夫です。今のはただの業務上の報告で、なんとしても明日の朝までには、私が仕上げておきますから」
「あのな。進級ペアは元々、『新旧交代』って意味で付けられた名前だろ? つまり、二人いないと、言葉は成立しないんだよ。あと……、『旧』を舐めてもらっちゃ困るね」
威厳を示すように幸介は眉を上げ、口元を緩める。それを見た陽子は吹き出すように笑うと、何度も小さく頷いた。
「はい……そうですね。ありがとうございます」
「それに、これくらいで弱音を吐いていちゃあ『新旧交代』なんてできないぞ。人のことを気にする暇があったらほら、早く手を動かす」
はい、という返事とともに、キーボードが美しい旋律を奏で始める。幸介も自席に着くと、早速資料作成に取り掛かった。
あらゆる欲求を感じないほど集中し、二人は黙々と作業を進めた。そして、なんとか朝日が昇るよりも先に資料の復元、いや、それ以上のものを仕上げることができた。
「古谷さん、本当にありがとうございました。あの、これ」
陽子はそっと、缶コーヒーを差し出した。
「さんきゅー。もう気にするなって。それより、これから進級ペアに隠し事はなしだぞ」
「わかってます。でも、あと、その……」
「言わないよ」
「え?」
陽子の大きな瞳が、更なる丸みを増して幸介を見据える。
「これが良いことなのかはわからないけど、資料を消されたこと、社内の人には言わない。明日――もう今日か。今日の会議でバシッと決めて、こんなことをやったやつを見返してさ、この件は終わりにしよう。これ以降のことは、部長に任せるってことで」
「はい! ありがとうございます!」
大きく頭を下げながら、陽子は言った。まるで床にお礼を言っているようだと、幸介は笑った。
「それと古谷さん。進級ペアに隠し事はなし、なんですよね?」
「そうしてもらえると助かるよ」
「あの、実はもう一つ、言っていないことが……」
これは、進級ペアしか知らない、静かなる事件だった。
◆
「えー、本日を持ちまして、新木陽子さんは退職となります。新木さんには時に課を、時に部署の垣根を超えて、様々な形でこの会社の潤滑油として働いてくださいました。荒木さんはこの会社に多くの会話と思いやり、そして、たくさんの混乱や問題を、私たちに与えてくれました」
部長の言葉に、思わず全員が笑顔になる。
「今みなさんの表情にも表れておりますが、この笑顔こそ、新木さんが我々にもたらしてくれたものであり、功績なのだと私は思っています。新木さんがこの会社を去ってしまうことは大変残念ではありますが、新木さんが残してくれたものを私たちがしっかりと受け継ぎ、更なる向上に繋げてまいりましょう。それでは私が長々と話すのもあれですので、新木さん、最後に一言、お願いできますか?」
部長、すでに結構長いです、と野次が飛ぶ。また、大きな笑い声に包まれる。
陽子が部長と入れ替わるように前に立つと、全員の顔を見渡してから、ゆっくりと話し始めた。
「えー、みなさま。お忙しい中ご挨拶の時間をいただき、ありがとうございます。この東京本社に来て約二年と、期間にしてはあまり長い時間というわけではありませんでしたが、本当にお世話になりました。みなさまと出会い、たくさんの時間を共有できたことを、心から嬉しく思っております」
硬いぞー、とまたしても明るい野次が飛んだ。陽子は微笑みを浮かべながら、この日のために用意した言葉というよりも、今まさに感じている思いを言葉にするように続けていく。
「関西支部よりここへの異動が決まった時は、茨城県を出て上京した日の次くらいに不安を覚えたことを、今でもはっきりと覚えています」
「基準が可笑しいだろ!」
「硬さ取れすぎな!」
鋭い突っ込みとともに、和やかな空気が流れていく。
「本当にたくさんのご迷惑と、ご心配をお掛けしたことと思いますが、その分、私は私らしくいられたような気がしています。ここで過ごしたかけがえのない思い出と一緒に、私はこれからも、自分の名前に負けないくらい明るく、人生を楽しんでいきたいと思います。本当に、ありがとうございました!」
陽子の笑顔に吸い込まれるように、今日一番の拍手が送られる。惜別の声が、ありとあらゆる方向から飛んでいく。
彼女は深くお辞儀をすると、陽だまりのような優しい表情で口にする。
「最後に……〝幸介くん〟。進級ペアは今日で解散になってしまうけど……これからも、どうぞよろしくお願いします!」
はにかむ彼女の薬指には、銀色の指輪がはめられている。
それに応えるように頷いた幸介の指にも、同じ形の指輪がはめられていた。