晴がいないこの世界を生きることはつらく悲しい。
いっそ自分も死んでしまったほうがマシだと思いつつ、死というものが自分の大切な人たちに深い傷を負わすことを誰よりも知っているので、そんな選択はできなかった。
当然、晴から任せられた子どもたちのためにもだ。
晴と変わってあげられるのなら、苦しみも、悲しさも、悔しさも、不安も、恐怖も、なにもかも全部を変わってあげたかった。
もっと彼女のためにやれたことがあったのではないか。俺との人生は晴にとって本当に幸せだったのだろうか。
そんな、どうしようもないことばかりを考えて時間だけが過ぎていった。
毎晩子どもたちを寝かせたあと、ベランダから星空を眺めては涙が止まらなくなった。
未亡人という言葉がある。
スマホで意味を調べたら『夫と共に死ぬべきなのに、まだ死なない人の意』と出てきた。
男女が逆なのだが、今の自分にはしっくりくる言葉の意味だと思う。
こんな言葉ができるくらいだ。愛する人を亡くし、今の自分と同じ思いをした人はドラマや漫画の中だけじゃなくて、たくさん世の中にはいるのだろうと思った。
ふと、向日葵畑にいるじいちゃんが思い浮かぶ。
残された人たちはなにを力にして、あとの人生を生きていくのだろうか。
俺には見当もつかない。
そうやって時間だけが過ぎていったある日。
スマホが鳴って確認すると、園長先生からのメッセージが届いている。現在、休職中の俺を心配して連絡をくれたのだ。
保育園には、園長先生や仲間たちが待ってくれている。
子どもたちを食わしていくためにも、本来なら俺はもう保育士として復帰をしなければならない。
わかってはいるけど、一度バラバラに壊れた心を集めて、やっとの思いで今を生きているだけだ。次、心が折れてしまったら、もう立ってすらいられる自信がない。
そもそも、こんな今の俺なんかが晴のように『あたたかい心で誰かの力になれる』とは思えない。
まさに役立たずだ。
『あたたかい心で誰かの力になる』
それが保育士という仕事の本質だ。
ただ子ども好きなのではない。ただ子どもをあずかるのではない。ただ金を稼ぐのではない。
『あたたかい心で誰かの力になる』
その志がないものが保育士としてつづかないことを、俺は十年以上、保育士をやってきたのでよく知っている。
とりあえず、園長先生には返信はせずスマホをそのまま閉じた。
晴からの頼みで用意したリビングの雰囲気によく似合う、北欧インテリア風な小さくて可愛い仏壇。
俺はそのとなりにかすみ草を飾った。
さて感傷に浸っている暇はない。遺品整理の再会だ。
昼間は長男が小学校、次男は保育園に通っている。今のうちに遺品整理を進めておかなければ、子どもたちが帰ってくると家事に追われて、それどころではなくなってしまう。
リビングの隅。ギタースタンドに立てかけられた晴のアコースティックギターが目に入る。
彼女との思い出のギターを手放せるわけもなく、またタンスの肥やしができてしまう。そんなことを思いながら、クローゼットに運ぶためにギターを持ち上げた。
するとギターの中から、カサカサと音がすることに気がついた。
なにかギターの中に入っているようだ。
俺はギターを振って、なんとか中に入っている物を取り出した。
入っていたのは手紙だった。
晴が入れたのだろうか。いつから入っていたのだろう。ギターなんてずっと触っていないのでわからない。
とりあえず、手紙の封筒を開けると便箋が二枚入っている。
手紙を読み出して、すぐ涙で手紙が読めないほど、目頭が熱くなった。
見まちがうわけがない。晴の字だ。
俺はゆっくりと手紙を読み進める。
【悠へ】
【こんなにも早くお別れになってしまってごめん】
【たくさん苦労かけたよね。悠とふたりで生きてきた、わたしの人生は夢のように楽しかった】
【本当はわがままで気分屋なところがある、わたしをたくさん受け止めてくれてありがとう】
【悠は、わたしに生き方を変えてもらったと言ったけれど、あれはわたしもだよ】
【わたしは悠と出会う前から、自分の病気に向き合う勇気なんてなかった。ただただ恐怖と不安に押しつぶされて生きることに絶望していた】
【自分に幸せな未来が待っているなんて、想像ができずに諦めていたの】
【でも、悠はそんなわたしの側にいつもいてくれたよね】
【悠のことがだいすきだから、もっと長く一緒にいたい】
【生きたい】
【そのために自分の病気とつらくても向き合って治療を頑張ろう、って勇気を出すことができたんだよ】
【だから、わたしは十年前に寛解して、悠と結婚することができた】
【自分の子どもたちを抱きしめることができた】
【幸せを諦めていたわたしの生き方は、悠のおかげで大きく変わったの】
【悠に教えたい】
【人はどんな状況からも幸せになることができる】
【わたしは、それを悠に教えてもらった】
【でも今回の、病気の再発状況から、わたしは一年後に悠のとなりにはいないと思う】
【それでも、わたしはこの想いを伝えたくて、この手紙を書いた】
【わたしは今、幸せだよ】
【きっと嫁バカな悠のことだから、わたしがいなくなってしまったら、いつまでも泣いて悲しんでいるのだと思う】
【長く付き合ってて思うけどさ】
【悠って自分のこと棚にあげるところあるよね】
【どうせ、わたしを失ったショックでいつまでも立ち直れずに、人生のすべてが終わった気になっているんでしょ】
【それでこんな俺なんか、もうなにもできない、とか考えてそう】
【散々わたしには、わたしなんかって言うな!って言ったくせに】
【そういうの、やめたほうがいいよ】
【だって、それはわたしの好きな悠じゃないもん】
【もちろん。どんな悠でも愛してる】
【でも、わたしの好きな悠は『あたたかい心を持って誰かの力になる』そんなことができる悠だよ】
【悠は、大丈夫】
【だって、わたしが死ぬまで、たったひとり、信じて愛した人だもん】
【悠は、悠のままでいい。無理しなくていい。変わろうとしなくていい】
【悠は充分に、もう『あたたかい心を持っていて誰かの力になれる』優しい人だよ】
【誰がなんと言っても、わたしが悠を認める】
【わたしのぶんまで、わたしがやりたかったことをやって】
【わたしのぶんまで、その手で誰かの力になってあげて】
【わたしのぶんまで、我が子を大切に愛して抱きしめて】
【わたしのぶんまで、せいいっぱい生きて】
【悠、ずっと、だいすき】
そこで文章は終わっている。
嗚咽しながらもう一枚の便箋を見ると、『君と頑張る今日晴れる』というタイトルの、晴が十年前に弾き語りをやっていた頃に作った曲の歌詞が書かれていた。
晴の想いが込められたあたたかい歌詞。その歌詞を読んでいると晴のためだったら、なんでも頑張ってここまで来れた今までの自分を思い出す。
歌詞の終わりには/C D Bm Em D/と、ギターのコード進行が書かれている。
俺は、しばらく涙が止まらなかった。
涙は、生きてる限り枯れない。
ずっと泣いても、それでも、とめどなく流れることを痛いほど俺は知っている。
そのとき窓から夕日が差し込み、晴のギターの周りに陽だまりができていることに気がついた。
陽だまりに入ってギターを手に取ると、まるで晴にはぐされているかのようにあたたかい。
俺はギターを持って窓からベランダに出た。
このベランダでよく晴と空を眺めて景色を楽しんだ。
大きくて丸い太陽が、周りの空と街、すべてを茜色に染め上げている。
周りのすべてのものを、あたたかく、優しく、染める夕焼けに俺は晴を連想した。
そうだ。
この太陽のように、あたたかくて優しい晴の生き方に、俺は憧れたのだ。
そんな晴がこんな俺なんかを認めてくれている。
俺は晴が好きだと思ってくれる、俺でいたい。
あたたかい心を持っていて誰かの力になれるような、そんな俺でいたい。
「なぁ、本当に空から見てんのか?」
(見てるに決まってるでしょ!悠は要領が悪いから心配でつい見ちゃうよ)と、晴の声が聞こえた気がした。
「いつかのペアリングの約束って、まだ継続なんかな?」
(あたり前じゃん。時効ないよ)と、いたずらに笑う彼女の顔が思い浮かぶ。
「俺、頑張るわ」
「晴の心と一緒に」
「晴が好きと思ってくれる俺でいるために」
そう夕焼け空に誓うと、あたたかい風が吹き、晴が応援してくれている気がした。
とりあえず、ベランダに置いてあるベンチに座ってギターを構える。
晴が手紙に残した歌詞とコードを思い出す。
「たしか最初はCコードだったな」
以前、晴に教えてもらった記憶を頼りにギターを弾いてみる。
夕焼け空の下。綺麗なCコードの音が鳴った。
すっげえ久しぶりに弾いたのに。
俺、やっぱり晴の言ったことは覚えてんだよなぁ。
君と頑張る今日晴れる
(完)