わたしたちは公園のベンチに腰を下ろして、しばらく話した。


 「春になったら、桜井の泉で花見しようって約束覚えてる?」


 そう言って悠がとなりで桜の木を見つめた。


 「うん。覚えてるけど治療が始まると難しいかも」


 とても実現できそうになくて、悔しい思いを胸にわたしはそう答えた。


 「だよなー。抗がん剤は一時的に白血球が無くなるから無菌が望ましいし。そもそも副作用の吐き気や神経痛があると遠出なんてできないよな」


 「うん。詳しいね、悠」と、博識な悠にわたしは驚く。


 「だって、いろいろ調べて勉強したもん。晴と一緒に頑張りたいから」


 彼の行動力と、わたしを大切に想ってくれている気持ちから、わたしはまたひとつ勇気をもらって言った。


 「今年は無理かもしれないけど、治療を頑張って必ず悠と桜を見に行く」


 「うん。必ずふたりで、桜井の泉に桜を見に行こう」


 悠が優しい表情でうなずく。


 「わたし、頑張らなきゃな」


 そのとき、冷たい風が吹き、わたしは身震いした。


 悠からさっきもらった緑茶がぬるくなってきている。


 手が寒さで悴み、わたしは手袋をしてこなかったことを後悔しながら、両手を口にあててはーっと息であたためる。


 「あ、俺の手袋使ってよ」と、悠が自分のしていた手袋を差し出す。


 「悠だって寒いでしょ。悪いよ」


 「晴の手が冷えるといけないから」


 「じゃあ片っぽだけ貸して。左手の手袋がいい」


 「なんで片っぽだけ?両方貸すのに」と言って、首を傾げる悠。


 わたしは悠に借りた手袋を左手につける。手袋には彼のぬくもりが残っていてとてもあたたかい。


 わたしはさらに自分のしているマフラーを悠の首にも巻いてから、自分の右手を悠の手袋をしてない左手と繋ぎ、悠のコートのポケットに突っ込んだ。


 「こうしたかったの」


 「なるほど。これならふたりともあたたかいね」


 ぽかぽかとあたたかい彼のぬくもりを存分に感じられる。


 張り詰めていた心がほっとしてきて、朝から食欲がなくてなにも食べていなかったので、急にお腹が減ってきた。


 悠が買ってきてくれた、しらさぎのお菓子を鞄から出してふたりでわけて食べた。懐かしい味がした。


 日が暮れてきて、昼間とは比べ物にならない冷気が肌に刺さる。


 「そろそろ帰ろう。これ以上身体が冷えると晴には良くない」


 悠がそう言ってベンチから立ち上がる。


 「まだ帰りたくない。悠とばいばいしたくない」


 わたしは悠とまだ一緒にいたくて、わがままを言ってしまった。


 すると「んじゃ。つづきは晴んちでゆっくりしようか」と、悠がすぐに提案した。


 わたしの心と体を気遣ってくれたのだろう。


 「うん」と、わたしはうなずいてベンチから立ち上がった。


 歩いて家に着く頃には、すっかりあたりは暗くなり空には月が出ていた。


 わたしが悠を連れてリビングに行くと、お母さんとお父さんが鍋を用意していて迎え入れてくれた。


 「悠君、いらっしゃい。一緒に夕飯食べてって」と、お母さんが言った。


 「ありがとうございます」と言って悠が頭を下げる。


 そして、四人で鍋を囲んで食べた。


 さっきまで外にいて、冷え切った身体が鍋であたたまっていく。


 「悠君が連絡くれたから安心したけど、あんたが出かけたまま帰ってこないから心配したわよ」と、お母さんが言った。


 「ごめんね、お母さん」


 「まったく。身体冷えてるでしょ。ご飯食べたらお風呂入ってきなさい。もちろん悠君もね」


 「え、俺もいいんですか?」と、3杯目もおかわりしたご飯を食べきって悠が言った。


 「もちろんよ」と、お母さんが微笑む。


 「じゃあ悠が先にお風呂入ってよ」


 「いや、晴が先だろ。俺はあとでいい」


 「今日は悠がお客さんだから、悠が先に入って」


 いつまでも譲り合っているわたしたちを見兼ねたお母さんが、「じゃあ、もうふたりで入ってきな」と言うとお茶を飲んでいたお父さんが咽せて咳をする。


 そんなお父さんを見て、お母さんが笑っていることに気づき、わたしはお母さんがお父さんを揶揄ったのだと気づく。


 悠は意見を変えなさそうなので、わたしからお風呂に入ることにした。


 湯船に浸かっていると、「悠君。本当にありがとう。晴と一緒にいてくれて。悠君と出会ってからあの子なりに病と向き合って、晴は前より人が変わったように笑うようになったんだよ」と、お父さんがリビングでわたしの話をしているのが聞こえた。


 お父さんはわたしの前では厳格で、彼氏である悠にフランクに話しかけるイメージがなかったので少し驚いた。


 付き合いたての頃、悠を家に連れてきたときも、お父さんが警戒している目線をよく悠に送っていたものだ。


 わたしと悠が入れ替わりでお風呂に入ってから、リビングで団欒しているとそろそろ寝る時間になってきた。


 あぁ、もうお別れの時間か。いやだなぁ。


 寂しくてたまらないが、公園でも引き止めてしまっているので、さすがにこれ以上は悠に悪い。


 わたしはすぐ顔に出てしまうようなので、なるべく顔に出さないように表情を取り繕う。


 それでも、あぁ…、今夜もひとりぼっちで寝ていくのか。


 入院していたときのように、布団の中で恐怖に襲われ、どうしようもなくなってしまったらどうしよう。


 そんな不安が頭を駆け回る。そのとき。


 「あのー」と、悠が口を開く。


 「どうしたの?悠君」と、お母さんが訊いた。


 「もし、ご迷惑じゃなかったら泊まってもいいですか?」


 すると、すぐに「ぜひ、そうするといい」とお父さんが応えた。


 「晴は俺が泊まってもいいかな?」


 「うん」と、わたしは小さくうなずいた。


 悠の前でくらいもう我慢しないと決めていたのに、つい、いつもの癖で気持ちが言えずに、我慢してしまっていた自分がいることにわたしは気づいた。


 きっと、わたしが思っていることを、この場にいるみんなが汲み取ってくれたのだろう。


 「実は今日は悠がいてくれたら安心できるって思ってた。本当は来週の入院まで毎日一緒にいたいくらい」


 わたしは正直な気持ちを打ち明けた。


 多分、わたしは今のような状況にならなかったら、一生こんなこと言わなかっただろうな。


 「じゃあ毎日泊まるわ。それでずっと晴の側にいるよ。もちろん晴んちが迷惑じゃなければだけど」と言って、悠がわたしを見て微笑んだ。


 「ふふふ。なら毎日、四人ぶんの食事用意するわね」と、お母さんも微笑んで言った。


 「あ、でも悠。保育園は?」


 さすがにそれは職場に悪いと思ってわたしは悠に訊ねる。


 「あー。それなら園長先生から許可もらってある。園長先生、晴の見舞いに忙しくて行けないから、せめて犬塚君は側にいてあげてって。来週まで有給取らせてくれたんだよ」


 わたしは、わたしを支えてくれる、いろんな人たちに心から感謝をした。


 こんなにも支えてくれる人たちに、なにか感謝を返せるのなら返したい。そのためにも、わたしは病気に立ち向かう。


 そして、早く元気な姿をみんなに見せるのだ。病に負けてなるものか。