先月のG市ほどではないが、名古屋も今日はふわふわと雪が風に舞っている。
この雪は積もらずに溶けてしまうのだろうなぁ。
そんなことを思いながら、無機質な白い病室の窓からわたしは空を眺めた。
「猫本さん、採血の時間ですのでカーテン開けますね」
カーテンの向こうから女性の声がして、わたしは答える。
「どうぞ」
「失礼します」と言って、わたしより少し年上くらいの女性看護師がカーテンを開けて入ってきた。
わたしはベットから起き上がって、「お願いします」と入院着の左腕を捲り上げる。
注射はきらいだ。打たれるときに針は見ないようにしている。だから注射器とは反対に顔を向けた。
ちくりと痛みが感覚として伝わってきて針が刺さったことがわかる。
「はい。ありがとうございました。もう終わりましたよ」
「ありがとうございました」
「そういえば猫本さん、今日は面会の方が来ると言っていましたね」
「はい。職場の知り合いが来ます」
「何時ごろからですか?」
「夕方の四時以降になると思います」
「わかりました。では、その時間には今日の検査は全部終わるように手配しときますね。先生のほうから話があるので、あとで先生が伺いますね」
そう言って看護師はステンレスのワゴンに注射器を置くと、頭を下げてからカーテンを閉めてナースステーションに戻って行った。
病気の進行が早くなってきたので、わたしは一月に入ってから検査入院をしている。
昼に出た病院食を食べると、味がまったくわからなかった、食べた気がしない。
こんなときすら、わたしは周りの目を気にして顔では普通を取り繕っているが内心穏やかではない。
今にも泣きたい。不安で仕方がない。はぁ、悠が側にいてくれたらちがうのだろうか。
心が安心できるのだろうか。
いや、その気持ちは振り切ったはず。ここから先のことは悠には背負わせられない。
それに、わたしは悠にたくさん酷いことを言った。今更、合わせる顔なんてない。
「こんにちは猫本さん、血液内科の花月です。今、お話しても大丈夫ですか?」
カーテンの向こうから男性の声がした。
「はい、大丈夫です」
わたしがそう答えると、「失礼します」と言ってカーテンを開け三十台半ばくらいの男性医師が入ってきた。
わたしは普段から血液内科と呼吸器内科のふたつに掛かっていて、今回の入院では血液内科の花月先生が主治医だ。
「どうですか咳の調子は?他にどこか気になっていることとかありますか?」
「咳は薬を一日二錠ずつ飲むようになってから、少し落ち着いています」
「そうですか、良かったです。それではこれから生検をするのですが、なにをするかというと手術で腫瘍の一部を採取して、有効な治療法を探します。例えば効果のある抗がん剤を見つけたり、放射線のあてる位置を…」
手術。抗がん剤。放射線…。
そのワードが出てから、もう頭が真っ白になり先生の言葉はなにも入ってこなかった。
わたしが唖然としている間に、先生は話終わって「では、失礼します」と言いカーテンを閉めて出ていった。
慣れない病院生活で昨晩は眠れなかったので、今日の検査のCTとレントゲンの前には昼寝をしようと思っていた。
しかし、花月先生の話を聞いてから気持ちが落ち着かず、息が詰まって呼吸が苦しくなってしまい、とても昼寝できそうにない。
それでも、起きているとつらいことばかり考えてしまうので、わたしは布団に潜り込みなにも考えないように目を閉じる。
結局、一睡もできずに気づくと検査の時間になって、それが終わると夕方になっていた。
「晴〜、お見舞いきたよ。入るよ〜」と言って、カーテンを開けて明里が顔を覗かせた。
「明里、保育園休んじゃってごめんね」
「なに言ってるのよ。まったく晴はこんなときまで自分のことより人の心配ばっかして」
そう言って明里が、今にもこぼれ落ちそうな涙を目に溜めてわたしの手を握った。明里のあたたかい体温を感じる。
わたしは彼女の言葉に、そうだった、と気づく。
わたしは口では人の心配ばかりしているようなことをよく言ってる。それは周りの目が自分にどう向けられているかを気にしているからというのもあったが、それだけではない。
きっとこんな状況になってしまう自分を考えないようにしていたのだ。だから、わたしは人の心配ばかりしてしまうのだ。悠はわたしを誰よりも優しいと言っていたが本当はぜんぜんそんなことない。
「お見舞い来てくれてありがとう。明里の顔を見れて嬉しい」
わたしはせいいっぱいの空元気で笑顔を作って言った。
「わたしも晴の顔が見れて嬉しい。だいすきだよ」と言って明里が抱きつく、その目からは涙がこぼれる。
「わたし明里と親友で良かった」
しばらくふたりで雑談してから、明里が「ねぇ、晴は良かったの?」と心配そうにわたしに問いかける。
「なにが?」
「なにがって…」
「あぁ、悠のこと」
「うん。晴には犬塚君が必要なんじゃないかって。わたしは思っちゃう」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ」
わたしは小さく微笑む。
「晴が決めたことだもんね。余計なことは言わない。でも、わたしは晴の側にいるし、いつでも味方だからね」
心配な表情を浮かべながらも、明里はそう言ってくれた。
わたしは本当に良い親友を持った。明里にも幸せになってほしい。心からそう思う。
「そういえば、晴と犬塚君が別れたって噂が広まったからさ。理依奈ちゃんが犬塚君をご飯に誘ってた」
明里のその言葉に、「え?」と思わず口から出たが、そのあとすぐに「ふーん」と言ってわたしはわざと興味なさそうに振る舞った。
どうなったか話のつづきを聞くべきだろうか。
でも自分から悠を振ったのだ。別れた女のわたしが気にするなんて野暮だ。
そうは頭でわかっているが、それでも気になってしょうがない。
あー、聞きたい。明里に話のつづきを聞きたい。
顔に出さないようにしているつもりだったのに、「晴ぅ、気になるって顔に書いてあるよ〜」と明里にあっさり見抜かれてしまった。
わたしは顔に出やすいタイプなのだろうか。きっと明里は親友だからわかるのだ。そういうことにしておこう。
「うー、ごめん。気になる。どうなったか教えて明里ぃ」
「晴ぅ〜。本当はまだ犬塚君のこと好きなんでしょ」
「そんなことないっ」
「ごめんごめん。それでね、理依奈ちゃんがご飯に誘ったんだけどさ。犬塚君が俺は晴一筋だからごめんね。って断ったんだって」
やっぱり悠はバカだ。
あんなに酷いことをわたしに言われたのに、別れてもまだわたしのことを好きでいる。
可愛い女の子からのお誘いを断るなんて悠は本当にバカだ。
そんなことしてないで理依奈ちゃんと付き合ってしまえばいいのに、と思いつつ心の底から安心している自分がいるのが情けない。
そのとき、カーテンの向こうから聞き覚えのある女性の声がした。
「すみませーん」
「あ、多分、真希さんだ。晴が今日なら面会できるってわたしに教えてくれたでしょ。だから晴を心配してる人たちに声かけてきちゃたの」
そう言って、えへへと笑う明里。
わたしは「えー。どうしよ。化粧してないよっ」と慌てて言った。
「普通、入院患者は化粧してないよ。大丈夫、晴はすっぴんも可愛いから」
彼女のその言葉に、わたしは「もー」とため息をつく。
「こうでもしないと晴は気を遣って、みんなと面会してくれないと思ってさ。それにいろんな人が来たほうが寂しくないでしょ。晴はひとりじゃない。みんなも心配してるんだよ。それじゃ、わたし帰るね。また来るからね」
そう言って明里はにこっと笑うと手を振って病室から出ていった。
明里と入れ替わりで真希さんが入ってきた。
「こんにちは、晴先生」
「すみません。心配かけちゃって」
「晴先生に応援とお礼をどうしても伝えたくて来ちゃった。心配でいても立ってもいられなかった」
真希さんはそう言って鞄からタッパーに入ったシャインマスカットを取り出した。
「もう洗ってあるから、良かったら食べれるときに食べてね」
「わー、嬉しいです。ありがとうございます」
わたしがシャインマスカットを受け取ろうと手を伸ばすと、真希さんがぎゅっとわたしの手を握った。
真希さんはなにも喋らなかったが、表情からわたしを心配していること、応援してくれていることが充分に伝わってくる。
真希さんは病気で旦那さんを亡くしている。
きっとこうやって言葉だけじゃなく側にいることで旦那さんと励ましあって、ふたりで頑張ってきたんだろうなと思った。
そう。言葉じゃない。
だって、こんなわたしに真希さんはなにを言っていいかわからないだろうし。わたしだってなんて声をかけていいかわからない。
だから言葉じゃないんだ。
人のぬくもりに安心させられる。
しばらくして真希さんが口を開いた。
「保育参観のときはありがとうございました」
「え?」と、わたしがどういうことかわからない、という顔をしていると「子どもたちのにじの歌や絵に感動して泣いちゃったわ。主人とも虹を一緒に見るのが好きだったの」と、真希さんが言った。
「あぁ、あれは悠がやったんですよ」
たった数ヶ月前のことなのに悠と頑張った日々がすごく懐かしい。
「悠先生にお礼を言ったら、そのときに晴先生が手伝ってくれなかったらできなかったって教えてくれたの。だから半分は晴先生のおかげだって」
「ははは、悠がそんなこと言ったんですか」
「心から嬉しかった。シングルマザーで色々大変だけど、これからも頑張ろうってそう思えたの。だから晴先生や悠先生に感謝してる」
そんなことを言ってもらえて保育士冥利に尽きる。わたしは幸せな保育士だ。
そして真希さんが帰ったあと、少ししてから八満君が来た。
「猫本さーん、見舞い来たよ」
「来てくれてありがとう八満君」
「悠に一緒に来いって誘ったんだけどさ。俺はやることあるから行かないって強情でさ」と言って、八満君の顔が曇った。
当然だ。もう保育園以外で会わないでほしい。顔も見たくない。ひとりで生きていくほうがマシ。悠にたくさん酷いことを言って突き放したのはわたしだ。
わたしは酷い女だ。
「ごめんね。八満君に気を遣わせちゃったね」
「いや、べつにそれはいんだよ。気にしないで、それより、なんでも力になれることあったらするから言ってね」
「ありがとう」
八満君がなにか思い出した様子で、「そういえば話変わるんだけど」と言った。
「なに?」
「悠がまたG市に行くって言い出して、今日休み取って行ってんだよ。猫本さんとも最近行ったよね?」
「うん」
わたしにはひとつ思いあたることがあった。でもそんなわけない。
悠はバカだけど、さすがにそこまでじゃないだろう。
悠の話をしていると色々と込み上げてきて、目に涙が溜まってきて泣いてしまいそうになる。
そんなわたしに気づいた八満君が「あいつ猫本さんがピンチのときになにやってんだよ。親友だけどやっぱ許せねえ。今から引きずってでも連れてくるわ」と、言い出したので「連れてこなくて大丈夫だから、ごめんね八満君。それに悠は悪くないの。わたしが原因なの」と、なんとか彼を宥めた。
「うーん、猫本さんがそこまで言うなら。それにふたりのことだしね」
「わかってくれてありがとう。それに悠って、ああ見えて結構内気なところあるじゃない、友達少ないし。だから八満君は悠の味方でいてあげてね」
「わかったよ」
そして、八満君も帰っていった。
日はとっくに沈み夜になっている。
みんなが帰ってしまったあとの病室はいっそう寂しい気がした。
みんなが来てくれていっときは大丈夫な気がしたが、わたしの心には大きな穴があいてしまっていて、この寂しさはどうしても埋まらない。
それに、またじわじわと不安と恐怖が足もとから這い上がってくる。夜が怖い。眠るのが怖いのだ。
明日には目が覚めないかもしれない。そんな日が間近に迫っているのかもしれない。
ベッドに寝ているのに足が竦む感覚がして震えが止まらない。
昼間に花月先生が言っていた手術、抗がん剤、放射線。
いやな言葉ばかりを思い出す。心がもう耐えられない。壊れてしまいそうだ。
あぁ、こんなことならもっと一緒に悠といれば良かった。
悠に酷いことを言ったわたしがそんなことを言える立場じゃないのはわかってる。
それにこれは悠のためでもあるのだ。
だから決意したのに。
それでも、わたしはもっと悠といれば良かったと思えてならない。しかし全部もう遅い。
我慢しても、我慢しても目から涙があふれてくる。悠に会いたい。
「悠に会いたいよぉ」
わたしは呻き声に近いかすれた声でそう呟いた。
するとカーテンの向こうから聞き覚えのある、わたしが絶対に忘れることのない声が飛んできた。
「晴?もしかして苦しんでるのかっ?」
「え?」
「大丈夫か?入るぞ!」
さっとカーテンが開き決死の表情をした悠が中に飛び込んできた。
わたしは驚きのあまり声も出せずに目を見開く。
信じられない。悠の声、表情、わたしだけを見つめる澄んだ瞳。
すべての彼の情報がわたしの中に入ってくる。
この一瞬だけでもやっぱりわたしには、悠が必要なのだと思わずにはいられないほどの安堵を覚えた。
そして、糸が切れたかのようにわたしは泣いた。
わたしは悠の前では我慢ができない。
もう我慢しなくていいのだ。
「晴、どこか苦しいのかっ?」と、悠がわたしの背中をさすりながらナースコールに手を伸ばす。
「ち、がう。ちがうの」
わたしは嗚咽しながらなんとか悠を止める。
「ちがうのか?苦しくないんだな?大丈夫なんだな?」と、悠が真剣な表情で確認をした。
わたしは首をこくこくと縦に振ってうなずく。
すると、悠が一気に力の抜けた表情になった。
「はぁ、良かった。晴が苦しんでるのかとかんちがいして、どうすればいいかわからなくて必死だった。ごめん、騒がせちゃったな」
わたしは首を横に振る。
わたしは悠に抱きついた。すると彼の手が背中に回ってきて優しくわたしを抱きしめてくれた。
「怖かったよな、不安だよな、つらいよな。晴はなんでもひとりで頑張っちゃうもんな」
そう言った悠の身体は震えていて、顔を見なくても泣いているのがわかる。
「俺、もう絶対なにがあっても晴を離さない。この先もずっと晴の側にいさせてほしい。晴が背負ってるものを全部俺が持ってあげれないことが悔しい。でも少しでもいいから晴が背負っているものを俺にも持たせてもらえないかな」
悠は震える声でわたしにそう言った。
わたしは言わなければならない。
でも言ってしまったら、この気持ちを認めてしまったら悠を巻き込んでしまう。
それでも、もうわたしは自分の気持ちを止めることができなかった。
「悠、酷いこと言ってごめん」
わたしが謝ると、悠はいつもと変わらない愛おしくて愛おしくてたまらない笑顔で言った。
「ぜんぜん気にしてない。だって晴の本心じゃないって知ってるもん。それに晴って俺のこと好きじゃん」
「ふふふ、ちょっと自信過剰なんじゃない?」
「そう?」
「悠、だいすきだよ」
「俺もだよ、晴」
「わたしたち、やっぱりふたりでひとつかもしれないね」
「うん。きっとそうだよ」
面会の時間はとっくに終わっていたが、わたしたちの声は病室の外にだだ漏れに聞こえていて、看護師さんたちが気を遣ってくれていたらしい。
さすがに消灯の十時に看護師さんから声をかけられ、わたしたちは「すみません」と頭を下げた。
そして悠は帰って行った。
そのあと、看護師さんが「本当にあなたたちはお似合いのカップルだわ。彼氏さんのためにも治療頑張りましょうね猫本さん」とにっこり笑って話しかけてくれた。
そうだ。わたしはここで死ぬわけにはいかない。
病状が、これからどうなってしまうのか不安で仕方がない。治療も怖い。
それでも、わたしは悠とこの先の未来を生きたい。
わたしの心の支えであり、いつでも側にいてくれる悠を不幸にさせたくない。
わたしは新たな決意をした。
この雪は積もらずに溶けてしまうのだろうなぁ。
そんなことを思いながら、無機質な白い病室の窓からわたしは空を眺めた。
「猫本さん、採血の時間ですのでカーテン開けますね」
カーテンの向こうから女性の声がして、わたしは答える。
「どうぞ」
「失礼します」と言って、わたしより少し年上くらいの女性看護師がカーテンを開けて入ってきた。
わたしはベットから起き上がって、「お願いします」と入院着の左腕を捲り上げる。
注射はきらいだ。打たれるときに針は見ないようにしている。だから注射器とは反対に顔を向けた。
ちくりと痛みが感覚として伝わってきて針が刺さったことがわかる。
「はい。ありがとうございました。もう終わりましたよ」
「ありがとうございました」
「そういえば猫本さん、今日は面会の方が来ると言っていましたね」
「はい。職場の知り合いが来ます」
「何時ごろからですか?」
「夕方の四時以降になると思います」
「わかりました。では、その時間には今日の検査は全部終わるように手配しときますね。先生のほうから話があるので、あとで先生が伺いますね」
そう言って看護師はステンレスのワゴンに注射器を置くと、頭を下げてからカーテンを閉めてナースステーションに戻って行った。
病気の進行が早くなってきたので、わたしは一月に入ってから検査入院をしている。
昼に出た病院食を食べると、味がまったくわからなかった、食べた気がしない。
こんなときすら、わたしは周りの目を気にして顔では普通を取り繕っているが内心穏やかではない。
今にも泣きたい。不安で仕方がない。はぁ、悠が側にいてくれたらちがうのだろうか。
心が安心できるのだろうか。
いや、その気持ちは振り切ったはず。ここから先のことは悠には背負わせられない。
それに、わたしは悠にたくさん酷いことを言った。今更、合わせる顔なんてない。
「こんにちは猫本さん、血液内科の花月です。今、お話しても大丈夫ですか?」
カーテンの向こうから男性の声がした。
「はい、大丈夫です」
わたしがそう答えると、「失礼します」と言ってカーテンを開け三十台半ばくらいの男性医師が入ってきた。
わたしは普段から血液内科と呼吸器内科のふたつに掛かっていて、今回の入院では血液内科の花月先生が主治医だ。
「どうですか咳の調子は?他にどこか気になっていることとかありますか?」
「咳は薬を一日二錠ずつ飲むようになってから、少し落ち着いています」
「そうですか、良かったです。それではこれから生検をするのですが、なにをするかというと手術で腫瘍の一部を採取して、有効な治療法を探します。例えば効果のある抗がん剤を見つけたり、放射線のあてる位置を…」
手術。抗がん剤。放射線…。
そのワードが出てから、もう頭が真っ白になり先生の言葉はなにも入ってこなかった。
わたしが唖然としている間に、先生は話終わって「では、失礼します」と言いカーテンを閉めて出ていった。
慣れない病院生活で昨晩は眠れなかったので、今日の検査のCTとレントゲンの前には昼寝をしようと思っていた。
しかし、花月先生の話を聞いてから気持ちが落ち着かず、息が詰まって呼吸が苦しくなってしまい、とても昼寝できそうにない。
それでも、起きているとつらいことばかり考えてしまうので、わたしは布団に潜り込みなにも考えないように目を閉じる。
結局、一睡もできずに気づくと検査の時間になって、それが終わると夕方になっていた。
「晴〜、お見舞いきたよ。入るよ〜」と言って、カーテンを開けて明里が顔を覗かせた。
「明里、保育園休んじゃってごめんね」
「なに言ってるのよ。まったく晴はこんなときまで自分のことより人の心配ばっかして」
そう言って明里が、今にもこぼれ落ちそうな涙を目に溜めてわたしの手を握った。明里のあたたかい体温を感じる。
わたしは彼女の言葉に、そうだった、と気づく。
わたしは口では人の心配ばかりしているようなことをよく言ってる。それは周りの目が自分にどう向けられているかを気にしているからというのもあったが、それだけではない。
きっとこんな状況になってしまう自分を考えないようにしていたのだ。だから、わたしは人の心配ばかりしてしまうのだ。悠はわたしを誰よりも優しいと言っていたが本当はぜんぜんそんなことない。
「お見舞い来てくれてありがとう。明里の顔を見れて嬉しい」
わたしはせいいっぱいの空元気で笑顔を作って言った。
「わたしも晴の顔が見れて嬉しい。だいすきだよ」と言って明里が抱きつく、その目からは涙がこぼれる。
「わたし明里と親友で良かった」
しばらくふたりで雑談してから、明里が「ねぇ、晴は良かったの?」と心配そうにわたしに問いかける。
「なにが?」
「なにがって…」
「あぁ、悠のこと」
「うん。晴には犬塚君が必要なんじゃないかって。わたしは思っちゃう」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ」
わたしは小さく微笑む。
「晴が決めたことだもんね。余計なことは言わない。でも、わたしは晴の側にいるし、いつでも味方だからね」
心配な表情を浮かべながらも、明里はそう言ってくれた。
わたしは本当に良い親友を持った。明里にも幸せになってほしい。心からそう思う。
「そういえば、晴と犬塚君が別れたって噂が広まったからさ。理依奈ちゃんが犬塚君をご飯に誘ってた」
明里のその言葉に、「え?」と思わず口から出たが、そのあとすぐに「ふーん」と言ってわたしはわざと興味なさそうに振る舞った。
どうなったか話のつづきを聞くべきだろうか。
でも自分から悠を振ったのだ。別れた女のわたしが気にするなんて野暮だ。
そうは頭でわかっているが、それでも気になってしょうがない。
あー、聞きたい。明里に話のつづきを聞きたい。
顔に出さないようにしているつもりだったのに、「晴ぅ、気になるって顔に書いてあるよ〜」と明里にあっさり見抜かれてしまった。
わたしは顔に出やすいタイプなのだろうか。きっと明里は親友だからわかるのだ。そういうことにしておこう。
「うー、ごめん。気になる。どうなったか教えて明里ぃ」
「晴ぅ〜。本当はまだ犬塚君のこと好きなんでしょ」
「そんなことないっ」
「ごめんごめん。それでね、理依奈ちゃんがご飯に誘ったんだけどさ。犬塚君が俺は晴一筋だからごめんね。って断ったんだって」
やっぱり悠はバカだ。
あんなに酷いことをわたしに言われたのに、別れてもまだわたしのことを好きでいる。
可愛い女の子からのお誘いを断るなんて悠は本当にバカだ。
そんなことしてないで理依奈ちゃんと付き合ってしまえばいいのに、と思いつつ心の底から安心している自分がいるのが情けない。
そのとき、カーテンの向こうから聞き覚えのある女性の声がした。
「すみませーん」
「あ、多分、真希さんだ。晴が今日なら面会できるってわたしに教えてくれたでしょ。だから晴を心配してる人たちに声かけてきちゃたの」
そう言って、えへへと笑う明里。
わたしは「えー。どうしよ。化粧してないよっ」と慌てて言った。
「普通、入院患者は化粧してないよ。大丈夫、晴はすっぴんも可愛いから」
彼女のその言葉に、わたしは「もー」とため息をつく。
「こうでもしないと晴は気を遣って、みんなと面会してくれないと思ってさ。それにいろんな人が来たほうが寂しくないでしょ。晴はひとりじゃない。みんなも心配してるんだよ。それじゃ、わたし帰るね。また来るからね」
そう言って明里はにこっと笑うと手を振って病室から出ていった。
明里と入れ替わりで真希さんが入ってきた。
「こんにちは、晴先生」
「すみません。心配かけちゃって」
「晴先生に応援とお礼をどうしても伝えたくて来ちゃった。心配でいても立ってもいられなかった」
真希さんはそう言って鞄からタッパーに入ったシャインマスカットを取り出した。
「もう洗ってあるから、良かったら食べれるときに食べてね」
「わー、嬉しいです。ありがとうございます」
わたしがシャインマスカットを受け取ろうと手を伸ばすと、真希さんがぎゅっとわたしの手を握った。
真希さんはなにも喋らなかったが、表情からわたしを心配していること、応援してくれていることが充分に伝わってくる。
真希さんは病気で旦那さんを亡くしている。
きっとこうやって言葉だけじゃなく側にいることで旦那さんと励ましあって、ふたりで頑張ってきたんだろうなと思った。
そう。言葉じゃない。
だって、こんなわたしに真希さんはなにを言っていいかわからないだろうし。わたしだってなんて声をかけていいかわからない。
だから言葉じゃないんだ。
人のぬくもりに安心させられる。
しばらくして真希さんが口を開いた。
「保育参観のときはありがとうございました」
「え?」と、わたしがどういうことかわからない、という顔をしていると「子どもたちのにじの歌や絵に感動して泣いちゃったわ。主人とも虹を一緒に見るのが好きだったの」と、真希さんが言った。
「あぁ、あれは悠がやったんですよ」
たった数ヶ月前のことなのに悠と頑張った日々がすごく懐かしい。
「悠先生にお礼を言ったら、そのときに晴先生が手伝ってくれなかったらできなかったって教えてくれたの。だから半分は晴先生のおかげだって」
「ははは、悠がそんなこと言ったんですか」
「心から嬉しかった。シングルマザーで色々大変だけど、これからも頑張ろうってそう思えたの。だから晴先生や悠先生に感謝してる」
そんなことを言ってもらえて保育士冥利に尽きる。わたしは幸せな保育士だ。
そして真希さんが帰ったあと、少ししてから八満君が来た。
「猫本さーん、見舞い来たよ」
「来てくれてありがとう八満君」
「悠に一緒に来いって誘ったんだけどさ。俺はやることあるから行かないって強情でさ」と言って、八満君の顔が曇った。
当然だ。もう保育園以外で会わないでほしい。顔も見たくない。ひとりで生きていくほうがマシ。悠にたくさん酷いことを言って突き放したのはわたしだ。
わたしは酷い女だ。
「ごめんね。八満君に気を遣わせちゃったね」
「いや、べつにそれはいんだよ。気にしないで、それより、なんでも力になれることあったらするから言ってね」
「ありがとう」
八満君がなにか思い出した様子で、「そういえば話変わるんだけど」と言った。
「なに?」
「悠がまたG市に行くって言い出して、今日休み取って行ってんだよ。猫本さんとも最近行ったよね?」
「うん」
わたしにはひとつ思いあたることがあった。でもそんなわけない。
悠はバカだけど、さすがにそこまでじゃないだろう。
悠の話をしていると色々と込み上げてきて、目に涙が溜まってきて泣いてしまいそうになる。
そんなわたしに気づいた八満君が「あいつ猫本さんがピンチのときになにやってんだよ。親友だけどやっぱ許せねえ。今から引きずってでも連れてくるわ」と、言い出したので「連れてこなくて大丈夫だから、ごめんね八満君。それに悠は悪くないの。わたしが原因なの」と、なんとか彼を宥めた。
「うーん、猫本さんがそこまで言うなら。それにふたりのことだしね」
「わかってくれてありがとう。それに悠って、ああ見えて結構内気なところあるじゃない、友達少ないし。だから八満君は悠の味方でいてあげてね」
「わかったよ」
そして、八満君も帰っていった。
日はとっくに沈み夜になっている。
みんなが帰ってしまったあとの病室はいっそう寂しい気がした。
みんなが来てくれていっときは大丈夫な気がしたが、わたしの心には大きな穴があいてしまっていて、この寂しさはどうしても埋まらない。
それに、またじわじわと不安と恐怖が足もとから這い上がってくる。夜が怖い。眠るのが怖いのだ。
明日には目が覚めないかもしれない。そんな日が間近に迫っているのかもしれない。
ベッドに寝ているのに足が竦む感覚がして震えが止まらない。
昼間に花月先生が言っていた手術、抗がん剤、放射線。
いやな言葉ばかりを思い出す。心がもう耐えられない。壊れてしまいそうだ。
あぁ、こんなことならもっと一緒に悠といれば良かった。
悠に酷いことを言ったわたしがそんなことを言える立場じゃないのはわかってる。
それにこれは悠のためでもあるのだ。
だから決意したのに。
それでも、わたしはもっと悠といれば良かったと思えてならない。しかし全部もう遅い。
我慢しても、我慢しても目から涙があふれてくる。悠に会いたい。
「悠に会いたいよぉ」
わたしは呻き声に近いかすれた声でそう呟いた。
するとカーテンの向こうから聞き覚えのある、わたしが絶対に忘れることのない声が飛んできた。
「晴?もしかして苦しんでるのかっ?」
「え?」
「大丈夫か?入るぞ!」
さっとカーテンが開き決死の表情をした悠が中に飛び込んできた。
わたしは驚きのあまり声も出せずに目を見開く。
信じられない。悠の声、表情、わたしだけを見つめる澄んだ瞳。
すべての彼の情報がわたしの中に入ってくる。
この一瞬だけでもやっぱりわたしには、悠が必要なのだと思わずにはいられないほどの安堵を覚えた。
そして、糸が切れたかのようにわたしは泣いた。
わたしは悠の前では我慢ができない。
もう我慢しなくていいのだ。
「晴、どこか苦しいのかっ?」と、悠がわたしの背中をさすりながらナースコールに手を伸ばす。
「ち、がう。ちがうの」
わたしは嗚咽しながらなんとか悠を止める。
「ちがうのか?苦しくないんだな?大丈夫なんだな?」と、悠が真剣な表情で確認をした。
わたしは首をこくこくと縦に振ってうなずく。
すると、悠が一気に力の抜けた表情になった。
「はぁ、良かった。晴が苦しんでるのかとかんちがいして、どうすればいいかわからなくて必死だった。ごめん、騒がせちゃったな」
わたしは首を横に振る。
わたしは悠に抱きついた。すると彼の手が背中に回ってきて優しくわたしを抱きしめてくれた。
「怖かったよな、不安だよな、つらいよな。晴はなんでもひとりで頑張っちゃうもんな」
そう言った悠の身体は震えていて、顔を見なくても泣いているのがわかる。
「俺、もう絶対なにがあっても晴を離さない。この先もずっと晴の側にいさせてほしい。晴が背負ってるものを全部俺が持ってあげれないことが悔しい。でも少しでもいいから晴が背負っているものを俺にも持たせてもらえないかな」
悠は震える声でわたしにそう言った。
わたしは言わなければならない。
でも言ってしまったら、この気持ちを認めてしまったら悠を巻き込んでしまう。
それでも、もうわたしは自分の気持ちを止めることができなかった。
「悠、酷いこと言ってごめん」
わたしが謝ると、悠はいつもと変わらない愛おしくて愛おしくてたまらない笑顔で言った。
「ぜんぜん気にしてない。だって晴の本心じゃないって知ってるもん。それに晴って俺のこと好きじゃん」
「ふふふ、ちょっと自信過剰なんじゃない?」
「そう?」
「悠、だいすきだよ」
「俺もだよ、晴」
「わたしたち、やっぱりふたりでひとつかもしれないね」
「うん。きっとそうだよ」
面会の時間はとっくに終わっていたが、わたしたちの声は病室の外にだだ漏れに聞こえていて、看護師さんたちが気を遣ってくれていたらしい。
さすがに消灯の十時に看護師さんから声をかけられ、わたしたちは「すみません」と頭を下げた。
そして悠は帰って行った。
そのあと、看護師さんが「本当にあなたたちはお似合いのカップルだわ。彼氏さんのためにも治療頑張りましょうね猫本さん」とにっこり笑って話しかけてくれた。
そうだ。わたしはここで死ぬわけにはいかない。
病状が、これからどうなってしまうのか不安で仕方がない。治療も怖い。
それでも、わたしは悠とこの先の未来を生きたい。
わたしの心の支えであり、いつでも側にいてくれる悠を不幸にさせたくない。
わたしは新たな決意をした。