しかし、わたしの勤務時間の終わりが近づいたとき、思わぬトラブルが起きた。


 保育室内の時計を見ると、もうすぐ五時半。


 いつもだったら四時にママがお迎えに来るはずの、めいちゃんのお迎えがまだ来ていない。


 最近、時計の見方を覚えためいちゃんが「ママがいつも来る時間過ぎてる、ママのおむかえ来るよね」と、不安で今にも泣き出しそうな顔をしてわたしに問いかける。


 友達のゆきちゃんも帰ってしまったし、心細くなるのも無理はない。


 「ママ絶対来るよ。大丈夫だよ」と言って、わたしはめいちゃんを安心させるために励ます。


 ちょうど六時になったとき、保育室内の電話が鳴った。


 「もしもし、五歳児クラス。猫本です」と、わたしは受話器を取る。


 「めいちゃんのママから電話があって、お迎えの時間が七時に変更。仕事でトラブルがあったみたいなの」と、園長先生からの内線だった。


 「わかりました」と返事をしてから受話器を置いて保育室内を見回すと、めいちゃんは机の上でぽつんとひとりでパズルをやっていた。


 「めいちゃん、ママから電話があってお仕事の都合でお迎えが七時になるんだって」


 わたしは、めいちゃんにわかりやすいように、時計の七の数字を指さして伝えた。


 すると、パズルをやっているめいちゃんの目から涙がぽろぽろとこぼれる。


 「おむかえ遅いのいや。ママ、わたしのこときらいなっちゃったのかな」


 「そんなことないよ、いつもだいすきだと思う」と、わたしはめいちゃんを抱きしめて背中をさする。


 「嘘だよ。今日きらいって怒ったもん」


 そういえば、めいちゃんの連絡ノートに『最近、仕事に余裕がなくてわたしがイライラしてしまい、めいにすぐ怒ってしまいます。朝は急いでいるのに、めいが朝食をなかなか食べ終わらないし、保育園に行く準備もしないのでケンカになってしまいました』と、めいちゃんのママの字で書いてあった。


 このような親子の衝突は珍しくない。


 親だって人間だからイライラするし、子どもだってさっさとは動けないし甘えたいのだ。それにまだ小さい子がいる家庭は朝が忙しいに決まっている。


 ママも、めいちゃんも、精神的に不安定になってしまっている。


 保育士として今ここでふたりを支えなければ。


 わたしがやれること。それは保育士としてめいちゃんの心の安心を守ること。ママの子育てを助けて支えることだ。


 「今日はママが来るまで、ずっと晴先生が一緒にいてあげる。大丈夫だよ」


 わたしはそう言ってとびきりの笑顔でめいちゃんに微笑んだ。


 泣きすぎて目が赤くなっためいちゃんが、腕で涙をふいてから「やったー!嬉しい」と今度は無邪気に笑う。


 そして「今日は晴先生と長く遊べるからラッキーな日だ」と、弾けるような笑顔をした。


 いやなことがあったら泣き、嬉しいことがあったら喜ぶ。


 めいちゃんの子どもらしさに、わたしもふふふと笑って言った。


 「そうそう、今日はラッキーな日だよ、めいちゃんなにしたい?」


 「うーんとね、晴先生とこの箱に入ってるパズル全部やる」と、めいちゃんがパズルの箱を指差す。


 「いいよ」


 わたしが微笑むとめいちゃんも嬉しそうに笑った。


 箱の中のパズルを全部やって、閉園時間の七時が過ぎてから保育室のドアが開き、めいちゃんのママがお迎えに来た。


 「あ、ママー」と、めいちゃんがママに駆け寄る。


 「めい、遅くなってごめんね」と、めいちゃんを大事そうに抱きしめるママ。


 「聞いてママ、今日はラッキーな日だったの。晴先生と長く遊べてこのパズル全部やったんだよー」と、嬉しそうにママに話すめいちゃん。


 そんなふたりを見てわたしの心はほっこりした。


 「晴先生、今日はお迎えが遅くなってしまいごめんなさい。いつも、めいをありがとうございます」と言って、ママが深く頭を下げた。


 「いいえ、お帰りなさい。ママもお仕事お疲れ様です」


 そう言って微笑んで、わたしはふたりが帰って行くのを見送る。


 がらんと誰もいなくなった保育室はとても静かだ。


 保育士という仕事は社会的に見れば給料は低いし、時間外労働も多い。


 それなのに、子どもたちの命と心を守るという重大な責任がある。


 保育士は割に合わない仕事という世の中の声をよく聞く。もちろん保育士が健康で元気に働きつづけるために処遇改善はされていくべきだと思う。


 でも、さっきのめいちゃんの笑顔や、ママが明日から元気に子育てに向かえることが、わたしにとっては大変だとしても充分保育士にやり甲斐を感じる対価なのだ。


 こんなわたしなんかでも誰かの役に立てるのが嬉しい。


 あ…、わたしなんか、そう考えるとまた悠にぶつぶつ言われるからやめとこう。


 帰る前に職員室を覗いたが、もちろん悠はいない。


 朝に言っていた通り、近所のスケートパークに行ったのだろう。


 わたしは帰り支度をして保育園を出た。


 ふと空を見ると、西の空に沈む夕日が優しくオレンジ色に輝いている。


 その綺麗な夕日を見ていたら、悠のことで焦る気持ちもあるが、なんとかなるように思えてくる。


 とりあえず悠のスケボーでも見に行くか。