七月になってわたしと悠は土日休みの間に、悠の実家がある岐阜県K市に来た。


 名古屋からは電車で一時間。


 K駅で降りると近くに住宅や病院があって、そこから少し歩くとすぐに田んぼと山と川ばかりの田舎が広がる。

 
 今回わたしたちがK市に来た目的は三つある。


 さっそく今からそのひとつ目だ。


 K駅から、タクシーに乗って十分。


 わたしたちは予約の時間ぴったりに目的地であるYギター工場に到着した。


 タクシーを降りるとき、先に降りた悠がわたしに手を差し出す、わたしは彼のその手を取ってタクシーを降りる。


 「ごめんね、悠。わたしの趣味に付き合わせちゃって」


 わたしが謝ると、悠は「何言ってんだよ、楽しそうじゃん」といつもと変わらない笑顔で言った。


 「だって、悠はギターやってるわけじゃないし」


 「べつにいいんだよ。それにいつか一緒に行こうって話したじゃん。っていうか、Yギターって結構有名なんだよね?」


 「うん。ギタリストだったらみんな名前は一度は聞いたことあるくらいに。Yギターのファンも世界中にいるんだよ」


 「うっひゃー。そんなすごいギター工場が俺の地元にあるなんて。それに片田舎のギター工場ってなんかかっこいいじゃん。晴がいつも使ってるものそうだよね?」


 「そうなの。わたしが使ってるギターは全部Yギターなんだ」


 ギターは完全にわたしの趣味なのに、わたしのわがままにいつも快く付き合ってくれる悠にありがたく思う。


 目の前にある工場の外観をまじまじと見ると、小さくて古い建物で、知っていなければ世界レベルのギターがここで作られているとは思えない。


 それでもわたしは胸が高鳴っている。ついにYギター工場を見学できるのだ。


 一階の入り口で受付して、さっそく若い男性社員に案内されたのは二階のギターショールーム。


 部屋には何本ものギターがずらりと並んでいる。どれも簡単に買える値段ではない。


 でもギター好きのわたしは見ているだけでも幸せなのだ。


 すると「うわー。かっけー」と、悠が壁にかかっているギターの弦を指で弾いて音を鳴らした。


 「ちょっと、勝手にベタベタ触らないの!売り物に指紋ついちゃうでしょ」と、わたしは冷や冷やして注意をする。


 「ははは、触ってもらって大丈夫ですよ。なんならこの部屋のギターはすべて試奏可能です」と、若い男性社員が笑って言った。


 「え、こんな値段のギター弾いていいんですか?」


 わたしは驚いていちばん高いギターを目視して訊いてしまった。


 「はい、そうです」


 「せっかくだし、弾かせてもらったら?」


 悠が値段の高そうなギターをじろじろ見ながら言った。


 「悠は黙ってて」


 わたしは唾を飲み込む。


 そして「せっかくですが、わたしなんかが恐れ多くて見ているだけで大丈夫です」と頭を下げた。


 たしかに試奏したい気持ちはある。でも買うことができるわけじゃないし遠慮してしまったのだ。


 次に案内されたのは敷地内のとなりの建物。室内の机の上には、いろんな工具が置かれている。


 「ここは世界中のギタリストから送られてくるギターをメンテナンスする場所です。ここで一本ずつ手作業でメンテナンスするんです。何年前に買ったギターでも、世界中どこからでも、うちで作ったギターはここで責任を持ってメンテナンスするようにしてるんです。でも職人が少ないので時間がかかってしまうのが問題なんですが、ははは」と、説明しながら若い男性社員が苦笑いをした。


 職人さんたちが、日々、真剣にこだわってギターを作っていることがよくわかる。


 Yギターには田舎の町工場のロマンが詰まっている。そうギター雑誌の特集で書いてあったのをわたしは思い出した。
 

 最後に工場の敷地内でいちばん大きい建物に案内された。


 何本か作り途中のギターが置いてあり、十人ほどの職人たちが自分の持ち場でてきぱきと作業をしている。


 「え、こういうのって機械を使ったライン作業じゃないんですか?」と、悠が首を傾げて訊いた。


 「普通はラインだと思います。でもうちは最初から最後まで職人の手作業で作ってるんです、ははは」
 

 「えー、こんな時間がかかって大変そうな作業を…。すごいですね」と、悠は目を丸くする。


 「おっしゃる通り、作業には時間がかかってしまい生産性は低いです。だから従業員は少ないし、我が社の工場は小さいのです。でも、そのぶんギターの質は保証しますよ、ははは」


 まさに少数精鋭。長い経験で培われた職人技と情熱を持って、人の手で作っているからこそYギターはあんなにあたたかい音を奏でることができるのだろう。


 小さな町工場のギターに魅了されるひとりのギタリストとして、わたしは胸が高鳴る。


 見学をつづけていると、わたしはネックを削っている職人のお爺さんが目に入った。


 ギターの弾きやすさはネック周りの加工でほぼ決まる。


 長年の経験と勘でネックを削るお爺さんの職人技にわたしは見惚れた。


 充分に工場見学を楽しんだあと。


 「今日はわたしなんかのために付き合ってくれてありがとね」


 わたしは工場を出る前に悠にお礼を言った。


 悠は一瞬、間をあけて変な顔をしたが、「俺もすっげえ面白かったよ、職人さんたちかっこよかった。あと目を輝かせてそれを見てる晴が面白かった。晴ってギターおたくだよな」と微笑んだ。


 そのとき、突然。


 「なぁ、そこの嬢ちゃん」と、がらがら声が聞こえて振り返るとさっきネックを削っていたお爺さんが立っていた。


 職人気質なオーラを放っているが優しい目をしている。


 「お嬢ちゃんギター弾くんだろう。ちょっとこれ弾いてくれんか?出来立てのギターなんやが、どんな音出すか聴きたいんや」


 お爺さんが手に持ったギターをわたしに差し出す。


 「せっかくだし弾いてきなよ、俺も晴のギター聴きたいなぁ」と言って、悠が急な提案にどぎまぎしているわたしの背中を押した。


 出来立てのギターってどんな音が鳴るんだろう。どんな弾き心地なのだろう。なかなかできる経験ではない。


 少し緊張するが保育園や桜舞公園で弾き語りはやり慣れている。


 呼吸を整えるとすっと緊張が引いた。


 「ありがとうございます。ぜひ弾かせてください」


 わたしはギターを受け取ってから部屋に置いてある椅子に座らせてもらう。


 そしてこの前、悠がピアノで練習していた『にじ』を弾き語りした。


 弾き終わると、その場にいた人たちから拍手が飛んでくる。


 「優しい声、綺麗な弾き方、ギターもあたたかい音やった。ええもん聴かせてくれてありがとな、嬢ちゃん」


 そう言ってくれたお爺さんに、わたしは「こちらこそ、ありがとうございました」と頭を下げてギターを返した。


 「ところで嬢ちゃんはなんか決意しとるのか?」


 お爺さんからの唐突な質問。


 思ってもみなかった質問に、わたしは「どうしてですか?」と聞き返す。


 「長年の勘かの。なんとなくギターを弾く人を見るとわかるんだよ」


 ずっと悩んでいたことがあったけど、最近心に決めたことがあるので、わたしは「はい」とうなずいた。


 「そうか。どんな選択をしても、わしはお嬢ちゃんを応援しとるよ」と、お爺さんが優しく微笑む。


 お爺さんと案内してくれた男性社員に見送られ、わたしたちは会釈をしてからギター工場をあとにした。