簡単な挨拶を終えて顔を上げる。加奈子の視線の先にある大理石のダイニングテーブルには、四人の女性が座っていた。いずれの服も今雑誌で推されている、最先端のトレンドだ。そんな四人は加奈子ではなく、沙織を見て拍手をしている。
 どこか怯えているように見えなくもない。
「加奈子さんの御主人は、あの大手広告代理店の部長さんになられたそうよ。皆さん、仲良くして差し上げてね」
「もうそんな情報まで……沙織さんは本当に、情報通なんだから」
 沙織の前に座る女性Aが、まるで沙織の機嫌を取るように笑う。その視線は会社員時代に嫌というほど見てきた、部下が上長に向けるそれにそっくりだった。
「じゃあ今日は加奈子さんの集まり初日ということで、まず私たちの紹介……の前に、事前情報なしに答えてほしいのだけれど、加奈子さんは私たちを見て、どんな印象を持ったかしら」
 今時、合コンだってそんな質問はしないだろう。と思いながらも、四人の視線は沙織に集まっている。あまりよろしくない状況であると第六感がうずき出し、加奈子は必死になって、沙織と四人の共通点を探した。
「そうですね……。んー、第一印象は『オシャレな方たち』。でしょうか」
 当たり障りのない回答だが、的外れではないはずだ。その証拠に、女性陣の眉間に刻まれた皺が消えている。
「まー、嬉しいお言葉だわ。良かった、人を見る目がある人で。加奈子さんのジャケットも、とてもステキよ」
 沙織は両手を顔の前で合わせて微笑んだ。どうやら地雷は踏んでいないらしい。
「あ、りがとうございます。一応、家にある一番のお気に入りを選びました」
 嘘ではない。この真っ白のジャケットは、加奈子のプロデュースした商品が記録的ヒットとなり、初めて雑誌の表紙を飾った時に着ていた、思い入れのあるジャケットだ。
 あの日以来、勝負ごとの際はゲン担ぎとして、いつも着るようにしている。つまり、今日も勝負だということだ。
「そう。実はね、私たちも全員、ファッションには拘りを持っているの。それが所以となってね、この上層階フロアには、ある決まりを設けているのよ」
「……決まり、ですか?」
 再び四人の「観客」の顔が曇る。どうやら、ここからが本題のようだ。不意に重く感じる空気に、加奈子もごくりと唾を飲む。
「その名も〝コロモガエ〟。雰囲気が出るから漢字表記じゃなく、カタカナ表記ね。ほら、衣替えって季節に合わせて衣服を着替える、クローゼットの整理とかを指すじゃない? 〝大切なモノ〟ほどキレイに仕舞って、来年に備えて。でも衣服の流行り廃りって本当に激しくて、また次の年も着れるかどうかもわからない。ということは、クローゼットの奥に仕舞ってる間に、その価値が無くなっちゃう場合もあるってことでしょ? そもそも、四十五階以上に住んでいる私たちが去年の『お古』を着ること自体、よく考えたらおかしいのよ。……だからね、私たちは捨てることにしたの。価値あるものを、価値ある時に」
 発想の転換ね、と沙織は笑う。
「ここでは〝大切なモノを捨てた〟人ほど偉いの。この集まりでの発言権だって得られるわ。やり方もいたってシンプル。大切なモノを捨てた写真を、集まりの場で見せるだけ。もちろん、大切であれば捨てるモノに縛りはないから、衣類でなくても結構よ。その時の皆さんのリアクションで、その評価が決まる。そういう点で言えば、捨て方も重要ね。目の前から消えて初めて、本当の価値が見えるモノだってあるの」
 ねえ? と投げかけられた沙織の視線に、観客は同意の笑みを浮かべて応えた。
「コロモガエは毎月の集まりの時に発表よ。こういうのって、互いに手を抜いたら面白くないじゃない? だからね、評価の低かった最下位の人は次の集まりまでの一ヶ月間、一番偉い人の〝おつかい役〟になってもらうことにしているの。当然、上からの注文に逆らうことは許されない。こうすればみんな、真剣にもなるでしょう?」
 そう言って、沙織は一枚の紙を取り出す。そこには直近数ヶ月の〝コロモガエ結果〟が書かれていた。一位は常に沙織だ。
 ここでは私が一番偉いの。沙織はそう言いたかったのだろう。
「加奈子さんにとって、最初の発表は三日後よ。ちょっと時間がないけれど、とっておきのコロモガエを用意しておいてね」
 ――こうして、重たい空気が流れるだけの集まりは終わった。その帰り際、加奈子は二人きりになったエレベーターで話し掛けられる。
 名前は松本さん、といっただろうか。この数ヶ月、コロモガエ最下位になっていた人だ。
「加奈子さん……。さっきの沙織さんの話、冗談だと思っていると痛い目を見るわよ」
 会話、とは呼べない。松本はそれだけを言い残し、四十六階で降りていった。
「……なによ、それ」
 加奈子は閉まった扉に問い掛けていた。
 こんな時でさえ、潤はまるで役に立たない。
「真相はわからないけど、越してきたばかりなんだし、言うこと聞いておけば? 沙織さんの旦那さんってさ、H銀行のお偉いさんなんだろ? 言われた通りにすれば、悪いようにはされないって。それにほら、うちの会社とも取引があるんだから」
 最後の一文が本音でしょ? と勘繰りたくもなる。俺の出世に響くから、と。
「わかったわよ。でもちゃんと、相談には乗ってよ?」
 わーてるって、とスマートフォンの画面をスワイプする指に、加奈子は弾き飛ばされた。
 そして、気持ちが晴れることもないまま、集まり当日、コロモガエ初日を迎えることとなる。

「さて。では今月も、コロモガエを実施したいと思います」
 前回よりも声色の高い沙織の声が届く。横並びにできるにもかかわらず、ダイニングテーブルのお誕生日席に、加奈子は座っている。
「順番は……そうね。待ち時間に緊張しちゃうかもしれないから、加奈子さんからいきましょうか」
「私からですか?」
 油断していた。こういう時は他の人のやり方を真似できるよう、初めての人が最後、ないしは、それに近しい順番だと思い込んでいた。相変わらず観客となっている四人からも、特に疑問視する声は上がらない。
 加奈子は渋々、写真フォルダーを開いた。
「私が捨てたのは……こちらです」
 海外の某有名食器ブランドのティーポット。価格は五万円ほど。結婚記念に潤の知り合いからいただいたモノだが、一度も日の目を見ていない。タダ同然で捨てるには惜しいが、初回くらいは、と見栄を張ろうとした。引っ越しのタイミングが重なったのは、モノを探す手間も省けて案外ラッキーだった。
「まあ。これって、高級ホテルでも使われているやつでしょう? 本当に良いの?」
 悪くない反応だ。加奈子は自然と零れた笑みのまま、大丈夫です、と答えた。
「一人目から豪勢ねえ。じゃあ次は……松本さん」
 ほっと胸を撫で下ろす。この様子もブログにするか――そんな余裕も生まれていた。が、松本のコロモガエを前に、加奈子の思考は停止する。
「私はこれです」そう言いながら見せられた画面には、これまた高級ブランドのバッグが映し出されている。それも型落ちのモノなどではない。今まさに流行っている、最先端のバッグだ。五十万はくだらない。
 ――この人で……最下位?
 加奈子は震えた。しかし、連続して最下位が続いたから奮発したに違いない、と思うことにした。
 だが、そんな願いは、儚く消えた。松本のモノより更に高価な限定バッグ、時計と、コロモガエは続いたのだ。
 遊びなんかじゃない。おかしい。異常だ。そう考える加奈子の脳も、正常を保ててはいなかった。
 そしていよいよ、沙織の番を迎える。
「今回も皆さん素晴らしいわね。ただ残念。今回も一番は私みたい」
 沙織のコロモガエは――車。それも、スポーツ選手が乗るような、みるからに高級な。
「とても大切だったけれど、コロモガエを言い出したのは私だし、仕方がないわね」と沙織は笑った。そして、その笑顔が加奈子へと向かう。
「加奈子さん。今回は〝たまたま〟皆さん高価なモノだったけど、このコロモガエが値段じゃないのは確かよ。でも……あなたのコロモガエ、本当に大切なモノだったのかしら?」
 見抜かれている――加奈子は何一つ言い返すこともできずに、今月の〝おつかい役〟が決まった。
 それは地獄だった。
 あの日から、毎日のように加奈子は沙織の自宅を訪れていた。「おつかい役」とは、体のいい呼び方に過ぎない。買い物も洗濯も、ごみ捨てだって、沙織の電話一本で呼び出され、こなしていかなければならない。言ってしまえばパシリ、いや、〝奴隷〟だった。
 身動きが取れないほどの腹痛に襲われた時に一度だけ、おつかいを断ったこともある。が、その日を境に沙織の電話の数は急増し、日に日に依頼される業務は増えていく。
 気付けば沙織に逆らえなくなっていた。
 家に帰れば、今度は自宅の家事に追われる生活。当然、ブログの更新も滞っていた。
 そんな生活は僅か二週間足らずで限界を迎える。
「――……もう無理、こんな生活。潤、引っ越そうよ? ね? こんなの絶対おかしいって」
「バカ言うな。ここに来て、まだたった二週間だぞ? 俺だって、ようやくここまで来たんだ。引っ越しはしない。その馬鹿げたゲームでビリにならなければ良い話だけのだろう? 仕事は今が一番大事な時なんだ。これ以上、余計な話に俺を巻き込まないでくれ」
 ――余計な話って、何?
「そんなことよりブログはどうした? 最近更新もしてないだろ? ここんとこ、家事もろくにできてないじゃないか。それくらい、ちゃんとしろよ。働かなくて良いからって、たるんで良いわけじゃないだろ?」
 ――わたし、たるんでいるの?
 潤は呆れた顔で立ち上がり、一人寝室へ向かう。自分の威厳を保つように乱暴に閉められた扉とともに、加奈子の心も、音を立てて崩れた。

 翌月も、そのまた翌月も、加奈子は家にある価値のあるモノを、上から順にコロモガエした。そこにはもう、感情などなかった。
 勝手に捨てて、家からモノが消えていく。潤には相談することもなかった。
 当然、怒られた。でも構わない。この生活から抜け出せるのなら。
 だからそれからも機械のように、大切なモノを、ただただ捨てた。
 それなのに。
「お使い役」は、いつも決まって加奈子だった。
 目の前に映る光景は夢か現実か。それすら、わからなくなっていく。
 現実を見せつけるように、沙織は言った。
「加奈子さん。そのお洋服……お気に入りだって言っていませんでした?」
 加奈子はゆっくり顔を上げる。
「言ったじゃない。大切なモノほど〝コロモガエ〟だって。大切なモノほど、価値があるのよ。……ちょっと、聞いてます?」
 何かが外れた気がした。
 言葉にする代わりに、加奈子は静かに口角を上げて応えた。

 ――翌月。
「では、今月もコロモガエをしたいと思います。いつも同じ順番なのもアレだし、今回は加奈子さんを最後にしましょう」
 沙織の掛け声で、いつも通りコロモガエは進んでいく。いつも通り、高級なナニカが捨てられていく。
 何だって良い。人様が何を捨てようと関係ない。

 私のことは、私が守らなきゃ。
 潤はきっと許してくれる。
 私らしく生きるため。
 ……だから、ごめんね?

「今月も、みなさん素敵なコロモガエですね。では本日のラスト。加奈子さんのコロモガエは……」
 黙って差し出したスマートフォンの画面を見て、沙織は血相を変えた。
「ちょ、ちょっと……加奈子さん? あなた、これ――……」
 加奈子は捨てた。
 ――私を守ってくれないなら、価値あるうちに……捨てなくちゃ。
「旦那さんじゃない!」
 写真に写る加奈子は、真っ赤なジャケットに身を包み、潤の首を抱いていた。

 ――そうだ。このことも……ブログにしよう――……。