「あのときだって、別に驚くこともない、いつも通りのことだったんだ。なのに君は、路地裏に連れ込まれて殴られていた僕を見て――本当に、全く無関係の、たまたま現場を目撃しただけの第三者だったくせに、何やってるんだって血相を変えて――本気で怒って、あっという間にあいつらをぶちのめして、大丈夫かって手を差し出して――僕はそんなこと、一言も頼まなかったぞ」
「ああ、そうだな」
 漣里くんは静かに肯定した。

「いじめられていたことは黙ってろとは言ったが、きっとすぐにばらすと思っていた。哀れみや嘲笑の的になることも覚悟していたさ。それがまさか、夏休み明けのいまに至るまでずっと黙ってるなんて誰が想像する? 万引きの常習犯だの、町の不良グループを壊滅させただの、気に入らない奴を階段から突き落としただの――事実無根の噂を流されても、最悪といっていいほど、どうしようもなく自分の立場を悪くしてでも――それでも黙ってるなんて馬鹿としか言いようがないだろう」
「そうかもしれない。でも、俺はそれでも良かったんだ」
 漣里くんは泣き続けている小金井くんをひたと見つめた。

「『ありがとう』って、あのとき、先輩がそう言ったから」

 その言葉に、小金井くんが唇を閉ざした。

「あの一言は、俺にとって、どれだけ自分の立場を悪くしてでも先輩を庇う価値があると思わせた」
「…………」
「ただ、それだけのことだったんだ」
 長い、沈黙があった。

 小金井くんは押し黙り、漣里くんは無表情に佇み、私もただ黙っていた。

 校舎の中から聞こえる生徒たちの笑い声が、遠く感じる。
 廊下には私たち以外の人間はおらず、私たちは微動だにせず――この場の時間は止まっていた。

 それから、どれくらい経っただろう。

「……は」
 小金井くんは失笑で時を動かした。
 その目からはまた新たな涙が溢れようとしていた。

「なんだそれは。僕の言った『ありがとう』? それだけで? 馬鹿か? いや、本当に君は底抜けの大馬鹿だな。救いようがない……」
 小金井くんは手で顔を覆い、顔を大きく歪めて、くしゃくしゃにして、そして――

「ごめんなぁっ!!!」

 いきなり、勢いよく頭を下げた。
 私は驚愕したけれど、漣里くんは予想でもしていたかのように、驚きの片鱗も見せなかった。
 彼は優しささえ感じさせる、とても落ち着いた眼差しで小金井くんを見ていた。

「僕のせいで巻き込んで、そんな大怪我させて、本当にごめん!!!」
「いいよ」
 漣里くんは短く答えた。
 その許しはきっと、罪の意識に苛まれていたであろう小金井くんがいま一番欲しかった言葉だ。

「…………っ、い、いままで、黙っててくれて、ほんとに――本当に、ありがとう」
 小金井くんは嗚咽を挟んで、深々と頭を垂れたまま礼を述べた。

「うん」
 漣里くんは「ああ」ではなく、「うん」と答えた。
 誠実なお礼の言葉に、できる限りの誠実で応えようとする漣里くんの思いが、伝わってくるような気がした。