入室したときとは正反対の、穏やかな気持ちで自習室を出る。
 歩き出してすぐに、私たちは前方の階段から降りて来た小金井くんと鉢合わせした。

「無様だな」
 小金井くんは開口一番、吐き捨てた。

「みっともなく顔を腫らして、痣を作って。全く情けない。公衆の面前で醜態を晒して、恥ずかしくなかったのか?」
 軽く首を持ち上げ、眼鏡の奥から漣里くんを見下し、目を細める。

「前は余裕で叩きのめしていたように見えたんだが、どうやら目の錯覚だったようだ。君がそんなに弱いと思わなかったよ」
「先輩が俺のために金を払い続けてたってこと、野田たちに聞いた」
 漣里くんは小金井くんの生意気な態度にも言葉にも構うことなく、淡々と告げた。
 ぴくりと小金井くんの眉が動く。

「何を都合良く勘違いしてるんだか知らないが、あれは保身のためであって――」

「ありがとう」

 演説するように片手を持ち上げ、言葉を続けようとした小金井くんの台詞を遮り、漣里くんはお礼の言葉を口にした。

 小金井くんが手を上げたままの、中途半端な格好で止まる。

「私も、あなたに言っておかなきゃいけないことがある」
 小金井くんが止まったその隙に、私も言った。

「屋上で、失礼なこと言ってごめんね」
「……は?」
 小金井くんはさも不愉快そうな顔をした。
 でも、私は漣里くんのように、一切を無視して言葉を重ねた。

 小金井くんはこういう態度しか取れない人なんだって、わかってたから。

 彼が本当に、表面通りの嫌な人間だったとしたら、漣里くんがあんなにも懸命に庇っていたわけがないって――もうとっくにわかっていたから。

「小金井くんは漣里くんに感謝してたんでしょう。人の気持ちがわからないなんて私の勘違いだった。小金井くんは漣里くんのために屈辱に耐えて、野田に言われるままお金を払ってたんだよね。それなのに、何も知らないで勝手なことを言って、ごめんなさい」

 自分に暴力を振るった相手に、言われるまま何カ月もお金を払い続ける――その苦痛は計り知れない。

 屈辱に頭を掻き毟り、叫びたくなる夜もあったはずだ。
 なんで自分がこんな目にと、何度泣きたくなったことだろう。

 私だったらとても耐えられない。
 野田と顔を合わせるのも嫌で、不登校になっていたかもしれない。

 それでも、小金井くんはその苦痛に耐えた。
 きっと、保身より、何よりも、漣里くんのためを思って。

 自分が逃げ出したりしたら、漣里くんが野田に報復を受けるかもしれないから、それを防ぐために努力してきたんだ。

「図々しいかもしれないけど、私も彼女としてお礼を言わせてほしい。ずっと漣里くんを守ってくれて、ありがとう」

「…………」
 小金井くんは奇妙な顔をした。
 唇を噛んで、ともすれば怒ったように壁を睨んでいる。

 でもそれは、泣き出す寸前の顔で。

「……馬鹿じゃないのか。ああ、君たちはお似合いだよ。二人揃って大馬鹿者なんだからな。阿呆のカップルだ」
 ぼろっ――と、眼鏡の奥の瞳から、一筋、涙が零れた。

「ありがとうとか。礼を言うなんて。はっ、ふざけてるのか」
 もう一方の目からも涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。
 小金井くんは泣きながら漣里くんを睨み、早口で言った。

「そもそも君は僕と面識すらない他人、しかも、入学したばかりの下級生だったじゃないか。同じクラスだった一年のときから僕は野田に目をつけられて、ストレス発散用のサンドバッグにされていたんだ。誰もが見て見ぬふりだったさ。誰も、助けてなんかくれなかった」
 小金井くんは自らの頬を流れる涙を頑なに無視して、まくしたてる。