自己紹介がこの世で一番嫌い。
 自分の名前が大嫌いだから。 

「え、あまみやかよこ?
 女優のあまかよと同姓同名?!
 すごーい!」

 いやいやいや。
 本気ですごいと思ってねぇだろうが。
 と、心の中で悪態をつく。

 彼らの言う「すごい」の意味は「かわいそう」と同じだ。
 だから毎回腹が立つのかもしれない。
 そんな自分が子どもだという自覚はある。 

 皆と同じように自分の名前を教えても、他人の自己紹介の中に埋もれることは叶わない。
 一度名前を口にしただけで、その日以降、顔も名前も知らない人に、いつの間にか名前を知られている。
 すれ違いざま、顔をあからさまに見られることもしょっちゅうだ。

 それでも私には、自己紹介をした日から、そんなうんざりする日常の中で生きていくしか道はない。

 この儀式は新しい環境に入るたびに繰り返され、春の間はその日常が続く。
 思春期真っ盛りの中学校と高校の新学期は、これがけっこう堪える。

 憂鬱になるのは、名前だけではない。

 女子高生の雨宮香世子である私(ぽっちゃり)と女優の雨宮華夜子(美人で細い)の見た目が大きくかけ離れていることも問題だ。

 さっきみたいな反応をした人間は、次に「その外見であまかよを名乗るのは許されない」と判断した挙句、私のあだ名を「あまかよ」ならぬ「ぽちゃかよ」に決定し(本人である私の同意は、もはや必要とされていない)、勝手に女優のあまかよとの差別化を図ってくる。
 余計なお世話にも程があると思う。

 
 一学期の中間テストがようやく終わったころ、アルバイト先のファミレスで今日のシフトに新人さんが入ると知り、久しぶりに自己紹介をしないといけないことが憂鬱で仕方がなかった。

「こちら、今日から入る望月君」
「初めまして。望月と申します。大学二年です。よろしくお願いします」

 店長の隣に並ぶすらりとした男性が軽くお辞儀する。
 ホール担当の制服を着ていた。

「白倉です。大学三年です」
「星野です。望月さんと同じ、大学二年です」
「雨宮です。高校二年です」

 同じシフトに入っていたアルバイトの男性がそれぞれ自己紹介した後に続いて、私はうつむいたまま小さめの声で名前を告げる。
 最悪、望月さんに私の名前が聞こえなくてもよかった。

 先の二人にならってあえて名字だけで自己紹介したのに、私の人生に立ちはだかる壁のようなタイプがこの星野という男だ。

「この子、女優のあまかよと同性同名なんだよね。
 だから、区別のために俺らは『ぽちゃかよ』って呼んでるから、望月さんもそう呼んでいいよ」
「星野さん、余計なこと言わないでください」
「なんだよ、ぽちゃかよ。
 もったいぶんなよー」

 うん、読めてた!
 この展開。
 お調子者の星野さんがふざけて、白倉さんがその様子をニヤニヤして見ているだけの予定調和の光景が繰り広げられる。
 こんなことで傷ついたりはしない。

 ただ無駄な抵抗だと分かってはいるものの、やはり嫌なものは嫌なので、本人は拒否していますというアピールをするのが私のお決まりになっている。

 望月さんは「そう、女優さんと同じ名前なんだ」と少し驚いた顔をしたものの、返ってきた反応はそれだけだった。

 戸惑ったのは星野さんと私の方だ。

「あまかよっすよ。知らないんすか」
 星野さんが追い打ちをかけたが、
「テレビをほとんど見ないので」
 困ったような苦笑いが返ってきた。

 その時点で星野さんの敗北が確定し、彼ががっくりと肩を落とす。

「名前も聞いたことないですか?」
 思わず私までそんなことを聞いてしまう。
「どうだったかな」
 やはり苦笑いを崩さない望月さんに、かえって困惑してしまった。

 望月さんは、まさかのあまかよ(女優の方)を知らない人だった。

 マジか。
 そんなことあるんだ。

 身体中が熱くなる。
 じわじわと全身の血の巡りが良くなっていき、笑みが抑えられない。

 女優のあまかよを知らない人に出会ったことにも驚いたが、私にとって大事なことはそのことではなかった。

 自己紹介で驚かれず、しかも女優のあまかよと比較されなかったのは小学校以来だった。

 ああ!
 あまりにも久しぶりのことすぎて、最後のそのときが何年前だったのか、すぐには計算できなかった。
 十七歳なのに記憶力が危ういのはまずい気がする。

 それくらい私の生活、いや人生の上に女優のあまかよは突然やってきて、長いこと女王様のようにずっしりと君臨している。

「じゃあ仕事の説明に入るわ」
 何かを諦めたホール担当の星野さんがあっけなく通常のシフト業務に戻っていく。
 私は小さくガッツポーズをした。


 バイトが終わり、ファミレスの扉を勢い任せに押して店内から飛び出すと、青葉の強い薫りに包まれた。
 ようやく春が終わったことにほっとする。

 季節の移り変わりを感じながら、自宅に向かって歩き始めたそのときだった。

「雨宮さーん」

 後ろから大きく呼び止められて振り向くと、望月さんが私の方に向かって小走りでかけてくるところだった。

 おお、本日の救世主!

 崇め奉りたい気持ちのあまり、「お疲れ様でございますぅ」と変にしなった挨拶をしながら、望月さんが追いつくのを待つ。
 我ながら気持ち悪い。

 と同時に、望月さんの顔を正面からきちんと見て心底ギョッとした。

 目の醒めるような顔立ちだった。

 古代ギリシャ彫刻のように白く、端正で、小さな顔。ヨーロッパ系のハーフなのだろうか。
 しかし、暑苦しさを感じるほど、いわゆる顔が濃いというわけではない。
 鼻はツンと尖っており、薄い唇。
 上品な顔だった。
 骨格が整っていることもさることながら、大きな瞳は泣いているのかと見まがうほど潤んでおり、どんな人の心も瞬時に掴んでしまいそうだった。

 要は、語彙力のない私が一言で言うなら、そこらへんにいる芸能人やアイドルを軽く凌駕するレベルの美青年が、私めがけて走ってきていた。

 今の今まで気づかなかった自分を呪った。
 せめて呼び止められたときにちゃんと顔を見ていれば、何かと言い訳をつけて走って逃げることもできたのに。

 自己紹介中は、まともに顔も上げずに話をしていた。シフト中は、キッチンの私とホールの彼は担当業務が違うので顔を見る機会などなかった。
 自分の危険察知能力のなさが悔やまれる。

 むしろアルバイト中に気づかなくてよかったかもしれないと思い直す。
 イケメンが苦手な私でも業務に集中できていた自信がない。

 とにかくこの場を乗り切らなければ。

 追いついた望月さんと一緒に歩き出す。
 少し早歩き気味なのは、なるべく早くこの道のりを済ませたい私のささやかな抵抗だ。

「雨宮さんの自宅も同じ方向なんだね」
「そうですね」
 硬い表情で返事をする。

「ところで、雨宮さんの下の名前は漢字でどう書くの?」
「あ、はい。
 えーとですね……『香』る『世』界で、香世子です」
 急に自分の名前のことを聞かれて慌てたが、落ち着いて答える。

 しかし、絶世の美青年攻略はそんなに甘くなかった。
 彼の反応は私の想定を軽く打ち砕いた。

「じゃあ、女優のあまかよとは、名前の響きだけが同じなんだね」

 ひとり納得する彼をよそに、私は顔をしかめて押し黙った。

 ……。
 ちょっと待て。
 お前、今なんて言った?

 女優の名前の漢字表記を知らないとできない発言を、なぜ女優の名前すら知らないはずのお前がしているのだ。

 混乱しすぎた私は、望月さんを心の中でお前呼ばわりしてしまう。

「……本当はあまかよのこと知ってたんですか?」
 絞り出すようにたずねる。
「テレビを見てなくてもインターネットで知ってるでしょ」
 彼はなぜか少し自慢げだった。
 違う、問題はそこじゃない。
 そう突っ込みたい心をかろうじて抑える。

「さっき星野さんたちに嘘をついたのはなぜですか?」
 早口で責め立てるように最も聞きたいことを投げかける。

「雨宮さんが『ぽちゃかよ』って呼んでほしくなさそうだったから」
 望月さんはそう言って爽やかに笑った。

 訳が分からなかった。
 眉間にしわが寄ったまま、まったく戻らない。

 彼が私の表情に気づき、補足してくれる。

「人の嫌がることをするのが嫌なんだ」

 ついさっきまで望月さんの行動が単純に嬉しかったのに、よくできた道徳のお手本みたいな考えだ、と思ってしまった私は性格がひねくれているのだろう。

 清く正しい彼の前で、そんな自分が恥ずかしかった。

 険しい目元を隠すように両手で顔を覆う。
 そして、「お気遣いいただいてありがとうございました」と望月さんに対して深くお辞儀した。