侑は少しだけ緊張していた。
カーキ色のタンクトップの上にはライトグレーの半袖カーディガンを羽織っている。下はブラウンのチノパンにスニーカー。気合いが入りすぎだと思われないよう、普通の服を選んだつもりである。ただ適当だと思われるのも嫌なので、癖の強い猫っ毛をワックスで撫で付けて、オールバックにセットした。
隣に立つのは、初めて見る私服姿の紬だ。いつもならポニーテールにされている髪も、今日は巻き下ろしていて、左サイドにふんわりとまとめられている。
服装は透け感のある白いブラウスに、膝が隠れるくらいの丈のフレアスカートを履いている。スカートは紺色で、清楚なイメージの紬によく似合っていた。
まだ目的地に着いていないのに、すでに人が多くて、容赦ない熱気が二人を襲った。汗ばむ額を腕で適当に拭い、侑は紬に声をかける。
「じゃあ、行こっか」
「は、はい…………!」
侑が歩き出すと、半歩遅れて紬も歩き出す。人混みではぐれてしまわないように、紬の歩幅を意識しながら、侑は遠くから響く太鼓の音を聞いていた。
遡ること二日前。あれは金曜日の夕方の話だ。
夏休み中だというのに毎日学校に通い、二人は部活に勤しんでいた。特に紬は気合いが入っていて、夏休み中に今書いている作品を完結させたい、と話していたくらいだ。
その日も紬は執筆に集中していて、気づけば夕方の六時を過ぎていた。いつもは五時ごろに解散するのだが、侑も入力作業に没頭していて、いつのまにか六時を回っていたのだ。
夏は日が長いので、六時を過ぎても外は明るい。熱心な顧問がいる部活、たとえばサッカー部や吹奏楽部などは、夜の八時過ぎまで練習するのが当たり前になっている。
侑が所属する文芸部は活動自由。執筆する場所や内容、当然のことながら執筆時間だって部員の自由だ。顧問も厳しい先生ではなく、「せっかくの夏休みです。好きに来て、好きに活動して、好きに帰りなさい」と言っていたくらいだ。
そんな文芸部の活動が、夜遅くまで長引くことは今までなかった。侑は小説を書いたことがないので分からないが、一日に書ける文章にも限界があるのかもしれない。もしくはサッカーでたとえるなら体力のように、頭を使い過ぎて疲れてしまうのかも。
ともかく紬の執筆は、いつも五時前後にキリがつくことが多い。しかしその日はいつも以上に集中しているのか、七時手前まで紬は顔をあげなかった。
「………………あ、れ……? 七時?」
「お疲れ様。集中してたみたいだから声かけなかったんだけど、時間大丈夫?」
侑の記憶が正しければ、紬の家の門限は九時だったはずだ。片道二十分くらいと言っていたので、門限には余裕で間に合う計算である。
侑の問いかけに紬は「大丈夫です」と答えた。それでもさすがに作業は終わりにするらしく、紬は机の上を手際よく片付けていく。
そして侑がすでに入力作業を中断していたことに気づき、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もしかして、真島くん、ずっと待っててくれたんですか?」
「え、うん。ダメだった?」
「そんなことないですけど……次からは先に帰ってて大丈夫ですよ?」
遠慮がちに紡がれた言葉に、侑は目を丸くしてしまった。
「それだと朝日さん、仮に遅くなったとしても、一人で帰ることになっちゃうじゃん」
「えっ?」
紬は不思議そうな表情を浮かべ、ちょこんと首を傾げる。その反応を見て、侑はようやく気がついた。おそらく紬は、遅い時間に一人で帰ることを厭わないタイプだ、と。
男女平等が声高に叫ばれている世の中で、女の子にばかり夜遅く一人で出歩いてはいけない、というのは不公平なのかもしれない。それでも女の子の方が危険な目に遭う可能性が高い、と侑は思ってしまうのだ。仮に暴漢に襲われたとしても、男の場合は力で対抗できるし、逃げることもできる。男の方が女性よりも身体が大きく、筋肉も発達しているのだ。これは差別ではなく、区別の範囲だろう、と侑は思っている。
「えーっとつまり、送っていくよ、ってこと」
結局侑は頭で考えたことの三分の一も口にせず、結論だけを言葉にして伝えた。紬は驚いたような顔をして、「一人で大丈夫ですよ?」と再び首を傾げる。
「俺の自己満足だから、朝日さんの迷惑じゃないなら送らせてよ」
これは侑の本音だ。
まだ明るいから大丈夫だろう、と紬を一人で帰らせてしまって、その帰路で紬に何かあったら?
考えすぎかもしれないが、何かあってから後悔するよりずっといい。
紬は大きな目をまたたかせ、それからやわらかく笑った。
「それじゃあ、お願いします」
その帰り道のことだ。コンビニの横を通り過ぎるときに、侑の視界に入ってきたポスター。土曜日と日曜日に開催される、花火大会の案内だった。
花火大会があるんだね、と侑は呟いた。紬も立ち止まってポスターを覗き込み、「今週末なんですね」と他人事のように呟く。紬の反応がなんとなく気になり、侑は少しだけ立ち入った質問をしてみた。
「朝日さんは花火大会、行くの? 友達とか、彼氏とか」
「か、彼氏!? いないですよ! いるわけないじゃないですか、私なんて……!」
紬の耳は花火大会や友達という単語を拾うことなく、彼氏という言葉に過剰に反応した。あまりにも慌てた様子で否定するので、侑は少しだけ紬をからかってみたい衝動にかられた。
「そう? いてもおかしくないと思うけど。それに朝日さんは花火大会でデート、とか好きそう」
「わ、分からないですよ……いたこと、ないですから……」
頰を真っ赤に染めてぷい、とそっぽ向く紬がなんだかかわいく見えて、侑の口元に笑みが浮かぶ。
本当にただの思いつきだった。からかいの延長線、というよりも、紬がどんな反応を見せるのか、気になったのかもしれない。
気づけば侑は、「じゃあ俺と一緒に行ってみない?」と提案していた。
紬はパッと勢いよく顔を上げ、真っ赤な顔のまま侑を見つめる。その表情に期待の色が含まれていると分からないほど、侑は鈍くない。
紬は花火大会に行ってみたいと思っているのだ。他でもない、侑と。
心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、侑は平静を装う。何も答えずに、侑の表情から本心を探ろうとする紬に、侑は言葉を続けた。
「俺と行こうよ、花火大会」
「…………浴衣とか、持ってませんよ……?」
「うん、いいじゃん私服で。土曜と日曜ならどっちがいい?」
「土曜…………あっ、いえっ、日曜日が、いいです……!」
紬はわざわざ言い直して、日曜日を指定した。じゃあ日曜日の六時にこのコンビニに集合ね、と侑はさくさくと予定を決めてしまう。紬はあまり慣れていないようだし、侑がしっかりエスコートしなければ、と思ったのだ。
初めて見せるはにかんだ表情で、紬は小さく頷いた。こうして日曜日の夜、二人は初めてのデートの約束をしたのだった。
時は進み、日曜日。侑も待ち合わせより早めに到着したのだが、紬はすでにコンビニの前に立っていた。緊張しているのか、紬はそわそわと落ち着かないようだった。
花火大会の会場へ向かう浴衣姿のカップルを眺めたり、コンビニのガラスに映る自分の姿を見て前髪を整えたりしている。その姿がなんだかかわいくて、侑は思わず笑みを浮かべた。
「朝日さん、お待たせ!」
「真島くん! …………あっ、い、いつから見てました?」
「前髪直してるところから?」
「もー! 真島くん!」
もっと早く声をかけてくださいよ! と紬は頰を膨らませるが、その声に怒りの色は含まれていない。たぶん照れ隠しなのだろう。
侑はごめんごめん、と軽い調子で謝り、それから紬の格好を見て、固まった。
私服でいいじゃん、と言ったのは侑の方だ。見慣れた制服姿ではなく、異性として強く意識してしまいそうな浴衣でもなく、ただの私服。
それなのに、初めて見る紬の私服姿に、どうしてか侑の心臓の鼓動は速くなる。
待ち合わせに向かうまではあまり意識していなかったのに、強い緊張が侑を襲った。顔が熱い気がするのは、夏だからだろうか。
「じゃあ、行こっか」
意識していないふりをして、侑はいつもの口調で紬に呼びかける。
会場に入る前からこの調子では、どこかでボロが出てしまいそうだ。
そんなことを考えながら、侑は紬の半歩前を歩き出した。