夏休みに突入し、侑は紬の作品のデータ化作業を始めた。
 手書きされた小説を、一字一句漏らすことなくスマートフォンに入力していく。作業を始める前に、紬と三つの約束をした。

 まずは一つ目。紬がノートに書いた小説を、『そのまま』入力すること。

 例えば誤字脱字があったり、違和感を覚える文章があったとしても、侑が勝手に直したりはしない。漢字とひらがなの区別や、句読点の位置、全てをノート通りに入力する、という約束だ。
 小説はストーリーだけでなく、文章自体にもこだわりが詰まっているものらしい。紬が悩み抜いて選んだ言葉を、侑が変えてしまうのは失礼だ。全て書き終えたら、紬が読み返しながら修正するというので、侑はノートの文章を間違いなく入力することに集中すればいい。

 二つ目の約束。小説の書かれたノートや入力したデータを、第三者に見られないこと。

 紬の書いた小説は、紬の許可なく誰かに見られてはいけない。これは侑が言い出したことだった。侑が勝手に小説投稿サイトに紬の小説を投稿したりするのも、もちろんルール違反だ。もちろんそんなことは絶対にしないが、紬が不安にならないように、先に約束しておくことにした。

 三つ目、これは紬が絶対に譲らなかったものだ。たとえ作業の途中でも、どんなに中途半端な状態だったとしても、侑に書きたいものができたら作業を中断して自分の執筆を優先すること。

 正直なところ、侑はまだ文章を書いてみたいとは思わないし、書ける気もしない。しかし紬が「この条件を飲んでもらえないなら、お手伝いは頼めません」と言い張ったので、侑は仕方なく了承した。
 もし何か書いてみたい、と侑が思い立ったとしても、紬の小説をデータ化することよりも、価値があるとは思えない。それでも紬が侑を尊重してくれていることは伝わってきて、その事実は素直に嬉しいと思う。

「俺もちょっと調べてみたんだけど、小説を書く人ってパソコンで作業することが多いみたいだね。ほら、ワードとかを使ってさ」

 ワード、というのはパソコンに入っているソフトの一つだ。文書の作成、編集、ファイルの形式を変換して共有することもできる。

「一応文芸部にもパソコンはありますよ。ノートですけど……真島くんはパソコンで作業しますか?」
「それも考えたんだけど、俺、タイピング遅いんだよね」

 もちろん侑だってパソコンでも文字入力はできる。しかし、スマートフォンで入力するのと比べれば、スピードの差は明らかだ。

 紬の小説の文量はかなりのものだ。全てデータ化することを考えれば、少しでも時間は短縮したい。そこで侑はスマートフォンのアプリを探すことにした。
 パソコンともデータ共有ができて、執筆に特化したアプリ。何個かアプリをインストールして少し試用してみれば、使いやすいアプリはすぐに見つかった。

「このアプリなら、自動バックアップ機能がついてるし、他のデバイスともファイルを共有できる。章分けとか文字数カウントの機能もついてるみたいだし、これに入力していってみるよ」
「…………もしかして、真島くん、すごくたくさん調べてくれました……?」

 紬が申し訳なさそうに眉を下げる。ノートを抱える紬の顔には、本当にこんなに頼ってしまっていいのかな、という不安の色がにじんでいる。
 不謹慎かもしれないが、侑は紬がそんな表情を見せてくれることに、嬉しさを感じてしまっていた。

 出会ったばかりの頃の紬は、いつもやわらかい笑顔を浮かべていた。優しくて穏やかな紬に、救われていなかったといえば嘘になる。
 もしも紬が困った顔をしたり、侑のことを邪魔だと思うような態度が少しでも見られたら、侑は最初の予定通り幽霊部員になっていたはずだ。

 でも紬は、いつも笑っていた。文芸部に入ったのにろくに読書もできない侑を、バカにしたりもせずに。それならおすすめの本を持ってきますね、とやわらかく笑ってくれた。
 侑が本を一冊読めるたびに褒めて、下手くそな感想も肯定してくれる。まだ文章を書くレベルに達していない侑のことを、見捨てるどころか、部員としてあたたかく受け入れてくれた。そのことが、侑にとってはどうしようもなく嬉しかったのだ。

 しかし同時に、笑顔しか見せない紬に、無理をさせているかもしれないとも思ってしまった。だから紬が今、不安そうな表情を浮かべたことに、侑は少しだけ安堵して。それ以上に嬉しくなってしまったのだ。

「いいのいいの。朝日さんは書く方に集中して! 俺も入力作業、頑張るからさ!」
「……ありがとうございます、真島くん」

 紬が目を細めて笑う。いつもと変わらないやわらかい笑顔なのに、どうしてか、侑の心臓が大きく音を立てた気がした。


 ノートに書かれた文章を、スマートフォンの執筆用アプリに入力する。
 自分で文章を考えるわけではないし、難しい作業ではないだろう、と侑は思っていた。休んだ授業の分のノートを友人に写させてもらうようなイメージでいたのだ。
 しかし実際に作業を始めてみれば、すぐに難しいと分かった。

 丸みを帯びた紬の字は、丁寧でとても読みやすい。ただそれは、ノートの一ページにぎっしりと文字が詰まっていなければ、の話だ。

 小さな文字を追って文章を覚え、スマートフォンの画面に視線を移し、文字を入力する。再びノートに目を戻すと、先ほどまで追っていた文章がどこにあるのか、分からなくなってしまうのだ。
 これはたぶん、隙間なく文字が書き込まれているからなのだろう。読むだけならば問題はないのだが、入力のためには必ず一度視線をずらさなければいけない。そのせいで読みかけの文章を見失ってしまうのだ。
 侑は私物の下敷きを使うことにした。今追っている文章よりも下の文章は、下敷きで隠してしまう。一行ずつ追うことで分かりやすくなり、目が迷いそうになっても一番下の文を見ればいい。この方法を採用してから、侑の入力作業は少しスムーズに進むようになった。

 入力作業には、他にも何点か躓くところがあった。
 たとえば、侑はあまり漢字が得意ではない。紬が当たり前のように文中で使用する漢字が読めないこともあった。漢字の読みになりそうな平仮名を当てずっぽうで打ち込んで、該当の漢字を探す、という方法はすぐに諦めた。大体侑の勘が外れて探している漢字は見つからないし、何より時間がかかるからだ。

 執筆作業に集中している紬に、質問するのは憚られた。せっかく紬の手伝いをしたい、と申し出たのに、漢字が読めないという理由で紬の手を止めてしまっては意味がない。
 文芸部の部室には辞書がたくさんあったので、侑は漢和辞典というものを初めて手に取った。最初こそ使い方が分からず苦戦したが、慣れてしまえば便利なものだ。

 他にも侑の頭を悩ませたのは、漢字変換だ。
 主要キャラクターの名前が、一発で漢字変換できず、入力ミスが続いたのだ。作業を続けるうちに変換頻度が高い順に並び変わるのかもしれないが、そんなものは待っていられない。登場人物の名前は、何よりも間違えてはいけない気がするからだ。
 ミスを事前に防ぐため、侑はスマートフォンの文字入力の設定画面を開いた。そこにはよく使う単語を登録しておくことができる機能がついている。侑は自分のスマートフォンにキャラクターの名前を登録していった。あらかじめ登録しておけば、ひらがなで名前を入力すると、キャラクターの名前に漢字変換してくれる。どんなに珍しい漢字であっても、簡単入力だ。

 侑にとって一番難しかったのは、ノートの内容を一字一句間違えることなく、『そのまま』入力することだった。紬はちょっとくらい違ってもいいですよ、と言ってくれたが、最初に約束した通り、ノートの文章は全て『そのまま』入力したかった。
 入力時の確認は当然やっている。しかしそれでもミスは生じるものだ。一ページ分入力が終わるたびに、侑はノートと見比べて間違いがないか全て確認した。

 夏休み初日。侑の入力作業は、わずか二ページしか進まなかった。紬は「二ページ分も入力してくれたんですか?」と驚いていたが、侑はもっと進むと思っていただけに、悔しい思いをすることになった。

「朝日さんが今書いてるのは三冊目だよね? 夏休み全部使っても、二冊分の入力は難しいのかな」

 紬の書く小説を、どこかの小説サイトに投稿するのか。あるいは新人賞とやらに応募するかはまだ分からない。しかし、小説家になるという紬の夢をかなえるために、データ化しておいて損はないはずだ。

 できれば少しでも早く入力を終えて、データ化したい。そう思うのは、侑の勝手なわがままだ。
 もしも紬が自分の作品を公開したいと思ったとき。もしくは賞に応募したいと考えたときに、すぐに行動に移せるように。手書きのままでは受け付けてもらえないこともある、と紬は言っていた。侑も分からないなりに調べてみたが、やはり今はデータでの応募が主流らしい。

 それならば、紬の夢が少しでも現実に近づくように手助けしたい。膝の怪我のせいでサッカーを諦めるしかなかった侑だから、そう思うのかもしれなかった。

「えっ、夏休み全部って……。真島くん、バイトとか、他の用事は大丈夫なんですか?」
「俺、バイトはしてないから。友達も夏休み中は大体部活で忙しいし」

 侑の言葉を聞いて、紬は何か言いたげな表情を浮かべる。しばらく悩んだ後、紬はためらいがちな口調で「彼女さんとの予定とか…………」と呟いた。

「あー、えーっと…………」
「も、もし! 真島くんがデートの予定とかあるなら、もちろん彼女さんを優先してあげてください」
「デートの予定はない、かな」
「えっ?」

 見栄を張るような場面でもないので、侑は予定がないことを口にする。紬はきょとんとした後、慌てたような表情になり、手をぱたぱたと上下させた。

「あっ、えっ、もしかして、私のせいで、彼女さんとケンカ……してたり、しますか……?」
「いやいや、朝日さんのせいじゃないよ。それにケンカというか、別れた、というか…………」
「…………っ、ご、ごめんなさい!」

 初めて見る泣き出しそうな表情で、紬が謝罪の言葉を口にした。
 別れた理由は本当に紬のせいではなくて、侑自身の問題だ。誤解を解くために軽く説明すると、紬は安堵したような、困ったような、複雑な表情を浮かべた。

「まあそういうわけで、俺が紗枝のことをちゃんと好きになれなかったのが原因だから。本当に朝日さんのせいじゃないからね」
「そう、なんですね…………」

 一年も付き合っていたのに、ちゃんと好きになれなかった、という理由で振るのは不誠実なのだろう。紬にも軽い男だと思われてしまったかな、と侑は不安になる。せっかく文芸部で仲良くやっていけそうだったのに、嫌われて距離を置かれたら、侑は落ち込んでしまいそうだ。
 しかし紬は侑のことを非難したりはなかった。冷たい態度を取られることもなく、優しさを含んだ笑顔が侑に向けられる。

「真島くんならきっと、素敵な恋ができますよ」
「…………そうかな」
「はい、きっと」

 そんな優しい言葉を紡いだ紬の声は、どこか悲しい色を含んでいる気がした。