夏休みが始まる直前、侑は彼女である紗枝に連絡をしてみた。距離を置きたい、という紗枝の気持ちを尊重するべきだとは思ったが、このままでは高校二年の貴重な夏休みを、侑のせいで台無しにしてしまう気がしたからだ。
 意外にも紗枝は二つ返事で侑の呼び出しに応じてくれた。日曜日の午後、二人で何度も来たことのあるカフェで待ち合わせた。

「ごめん、急に呼び出して」
「ううん。侑から声をかけてくれて嬉しい」

 細い肩を惜しげもなく晒す、オフショルダーのトップス。黒のミニスカートも丈が短くて、歩くたびに太ももがちらちらと見えてしまっている。
 紗枝は肌の見えるような服装が好きなので、指摘したところで意味はない。

 カフェに入ると、紗枝はいつも通りアイスレモンティーを注文した。ケーキは食べないの? と侑が訊ねると、半分こしてくれるなら食べる、と紗枝はいたずらっぽく笑った。

 不思議なことに、紗枝は上機嫌だった。まるで怒っていたことなど忘れているかのように、にこにこと笑みを浮かべている。
 いちごがたっぷり乗ったタルトを、丁寧に一口サイズに切り分けながら、侑は紗枝よりも先に口を開いた。

「この間の話だけどさ。俺、本当に自分のことしか考えてなくて、紗枝のこと全然大事にできてなかった。本当にごめん」
「ううん、いいよ。私も怒りすぎちゃった、ごめんね」
「紗枝は何も悪くないよ。怒って当然のことを俺がやってきたんだから」

 侑の言葉に、紗枝は何も反応しなかった。代わりに紗枝はいちごタルトを口に含み、おいしいと小さく呟いた。
 少しの間、沈黙が続いた。以前は気にならなかったはずの無言の時間が、今はやけに息苦しい。
 そんな考えを頭から振り払うように、侑は無理矢理口を開いた。

「紗枝は会ってなかった間、何してた?」
「……私はほとんどバイトかな。学校終わったらバイトに行って、帰ったらピアノの練習して……。その繰り返しだったよ」
「そっか。体調とか崩してない?」

 紗枝は笑いながら頷いて、「こう見えて体力はあるんだよ」とありもしない力こぶを作るふりをした。

 それから侑はどんな風に過ごしてた? と訊かれたので、侑は文芸部に入ったことを紗枝に報告した。紗枝は目を丸くして、首を傾げる。

「文芸部……って小説とか書くところだよね? 侑、文章書くの苦手じゃなかったっけ? ほら、手紙の話とか」
「あー……あったね。確かに」

 紗枝と付き合い始めたとき、手紙のやり取りをしてみたいと言われたことがある。そのときに侑は、「考えてることを文章にするの苦手なんだよ。だから手紙も絶対無理」と断固拒否したのだ。
 懐かしい話を紗枝に掘り返されて、侑は気恥ずかしい気持ちに襲われた。しかし一年前の侑が、文章の読み書きに対して一切関心がなかったのも事実だ。

「いや、最初は幽霊部員のつもりだったんだよ。瀬川先生、俺がどこかの部活に入るまで見守るつもりみたいだったし。とりあえず入部だけすればいいかなって」
「えっ。じゃあ普通に活動してるの?」
「うん。まだ読書しかしてないけどね。部員の人におすすめしてもらった本を読んで、勉強してる」

 紗枝は文芸部について詳しく聞きたがった。部員の人数や、男女比。何年何組で、どんな名前の生徒か。活動内容よりもメンバーに興味があるようで、侑は分かる限りで答えることにした。

「部員は俺を含めて五人、だけど俺も一人しか会ったことないんだよ。その人の話では、あとの部員はみんな三年生で、男二人に女一人らしい」
「ふーん。じゃあ会ったことある残りの一人は? 何年生? 男? 女?」

 前のめりになって質問してくる紗枝に、侑は丁寧に答えた。もしかして紗枝も文芸部に興味を持って、入りたいと思っているのかもしれない、と思ったのだ。

「同じ二年の女の子だよ。クラスは分かんないけど、朝日さんっていう子」
「…………女の子なんだ」
「うん。真面目で大人しい感じだから紗枝とはちょっとタイプが違うけど、優しくていい人だよ」

 ふーん、と応えた紗枝の声はどこか冷たい気がした。侑は驚いて紗枝の表情を伺うが、変わらずに笑顔を浮かべている。声の変化は侑の気のせいだったのかもしれない。
 紗枝は話題を変えて、「膝の調子はどう?」と訊ねてきた。侑にとってあまり触れたくない話題だが、しぶしぶ答える。

「相変わらずかな。膝が不安定な感じでこわくて走れないし、変な体重のかけ方をしたりすると痛いときもある」
「…………そっか、やっぱり手術はしたくない?」

 紗枝の質問に、たぶんしないと思う、と侑は答えた。
 膝の手術をして、リハビリをすれば、またスポーツができるようになる。多くのスポーツ選手が、侑と同じ怪我を乗り越えて、試合に復帰しているらしい。でも一方で、怪我をする前のようには戻れない患者もいる。

 怪我をしてすぐの頃、侑は自暴自棄になっていた。
 どうせ手術とリハビリをしても、もうサッカーの試合には出られない。侑が必死に遅れを取り戻そうと努力している間に、チームメイトは先へ進んでいるのだから。試合に出られないなら意味がない。そう思っていた。

 でも最近の侑は、手術をしたくない理由は、もしかしたらそれだけではないのかもしれない、と気づき始めている。

 もしも手術が成功して、リハビリも乗り越えて。それでも思うようにスポーツができなかったら? その可能性を考えるのが、こわいのだ。

 大変かもしれないけれど、手術とリハビリの道を選べば、またスポーツができる。試合には出られなくても、大好きなサッカーに復帰できる。
 その可能性を、残しておきたいのかもしれない。

「侑はもう、サッカーをしないんだね……」
「…………まあ、できないし」
「うん、そうだよね。ごめん。でも私、サッカーをしてるときの侑、かっこよくて大好きだったよ」
「ん。でも俺、案外文芸部の活動は気に入ってるよ。思ってたよりも楽しい」
「………………そうなんだ」

 紗枝はそう言って、席を立った。お手洗いにでも行くのかと思ったが、紗枝がバッグを持ったので侑は慌てて立ち上がる。

「帰るの?」
「うん、今日はね。また明日、学校でね」

 この後はバイトだから送らなくていいよ、と紗枝が言うので、カフェでそのまま解散した。


 終業式が月曜日だったので、夏休みの前に一日だけ登校しなければならなかった。どうせなら金曜日に終業式をしてくれれば、土曜日から夏休みに入れたのにな、と侑はクラスメイトと笑っていた。
 ホームルームが始まるにはまだ早い時間に、その知らせはやってきた。

「おい真島ー! お前の彼女がすごいケンカしてるけど、止めなくて大丈夫?」
「え? 紗枝がケンカ? どこで?」
「五組。なんかポニーテールの大人しそうな女子に掴みかかってたけど」

 親切心で伝えてくれたクラスメイトにお礼を残し、侑は慌てて教室を飛び出した。小走りしただけで、膝が抜けそうになり、早足で歩くことにした。本当は全力で走って駆けつけたいけれど、侑の膝は言うことを聞いてくれない。

 ポニーテールの大人しそうな女子。その特徴だけ取り上げるならば、学校内に何人も該当する生徒がいるだろう。
 しかし侑の頭に真っ先に浮かんだのは、同じ文芸部の紬の顔だった。

 五組に近づくにつれて、騒ぎが大きくなってくる。教室内を覗き込む見物人を押し退けて、侑は五組に足を踏み入れた。
 そこには紬の小さな身体を床に押し倒し、泣きながら怒鳴っている紗枝の姿があった。

「あんたがっ! 侑に変なこと吹き込んだんでしょ……! あんたのせいで侑は本当にサッカーを諦めちゃった! ずっと悩んでたのに……! まだ戻る道はあったのに! あんたが侑からサッカーを奪ったのよ! 侑はスポーツしてるときが一番かっこいいのに……! サッカーをしてるときの侑が一番輝いてるのに…………っ! あんたのせいで侑が、サッカーじゃなくてもいいって思っちゃったんだ……! 責任とってよ! 責任とって侑の前から消えてよ!!!」

 大粒の涙をこぼしながら怒鳴り続ける紗枝を、侑は後ろから引っ張った。腕を引くだけでは紗枝は降り向こうともしなかったので、紗枝の脇の下に腕を無理矢理押し込み、身体を抱え上げる。紗枝は細身だが、それでも膝が安定しない侑には、暴れる人を一人抱えるのはかなり無理があった。

 尻もちをつく形で紗枝ごと後ろに倒れ込んだ。まだ暴れ続けている様子から察するに、紗枝に怪我はなかったらしい。
 侑は全身の痛みを堪えて必死に呼びかけた。

「紗枝! 紗枝落ち着いて! 頼むから!」
「侑を返してよ!! 昔の侑を返して!! 私の大好きな侑を返してよっ……!」
「紗枝っ!! 聞いて! 紗枝!!」

 侑のことを叫んでいるはずなのに、不思議なことに侑の声は紗枝に届かない。再び紬に襲い掛かろうとする紗枝を押さえながら、回らない頭で侑は必死に考える。

 何かないか、紗枝を大人しくさせる方法。落ち着かせる方法。今は興奮状態で周りが見えていない。声も聞こえていない。誰かが怪我をしてしまう前に。何か、何か…………!

 侑は何度も紗枝の名前を呼んだ。しかし何度呼んでも侑の声は紗枝の耳に届いていないようだった。身体を押さえ付けているのが侑だということにも気づいていない。
 どんどん騒ぎは大きくなるけれど、一向に紗枝の興奮はおさまらない。泣きじゃくりながら、口汚い言葉を紬に浴びせ続けていた。

 そんな中、ずっと黙っていた紬が口を開いた。紗枝の怒鳴る声とざわめく教室の喧騒の合間を縫うように、静かな声が不思議と侑の耳に届いた。

「…………知ってます、私だって。サッカーをしてるときの真島くんが楽しそうなのも、かっこいいのも知ってますよ」

 紬の声だけが、紗枝の耳に届いているようだった。
 どんなに侑が呼びかけても止まらなかったのに、紗枝は口を噤んで紬の言葉に耳を傾けている。

「でもサッカーをしていなくても真島くんは真島くんです。どんな瞬間だってかっこいいですよ。サッカーをしてるときの真島くんが一番っていうのは、あなたの理想を押し付けてるだけです……!」

 紗枝が息を飲んだ。同時に全身の力が抜けて、侑の身体の上に崩れ落ちてくる。紗枝が怪我をしないように慎重に身体を起こしながら、侑は自分も起き上がった。全身が痛いけれど、紗枝を紬から引き離すなら今しかない。

「紗枝。聞こえる?」
「…………………うん」
「ちょっと外に出よう。終業式が始まっちゃうかもしれないけど、式には出られないでしょ」

 紗枝の身体を支えながら、侑は人をかき分けて教室を出る。去り際に振り返ると、紬と目が合った。
 侑が紬と言葉を交わしてしまうと、また紗枝が興奮してしまうかもしれない。侑は声には出さず、ごめんね、と唇を動かす。疲れ切ったような表情を浮かべている紬は、侑の唇を読み取ってくれたらしい。首を横に振って、静かに笑った。