夏が終わり、秋が過ぎ、冬になっても侑のリハビリは続いた。膝の可動域を広げ、筋力をつける。最初は松葉杖を使っていたが、次第に左膝にも体重がかけられるようになり、松葉杖なしでも歩けるようになった。
 自転車で負荷をかける練習、ジョギング、ジャンプなど、少しずつ膝の機能を取り戻していく。リハビリのおかげで侑の膝は以前に比べてかなり動くようになっていた。

 サッカー部に復帰するためには、膝だけでなく体力も取り戻さなければいけない。侑はリハビリとは別メニューで、トレーニングも始めた。もちろん身体を壊してしまっては意味がないので、医者やサッカー部の監督と相談して決めたメニューだ。

 リハビリに時間を割いているため、侑は以前のように文芸部に顔を出すことはできなくなってしまった。週に一度、一時間ほど部室に赴き、作業をするだけだ。
 紬は全面的に侑を応援してくれている。自分の執筆作業も大変なはずなのに、紬はいつも楽しそうだ。

 九月末締切の新人賞に応募した紬の処女作は、一次選考で落ちてしまった。「一作目で結果を残せるなんて、世の中そんなに甘くないですよね」と紬は笑っていたが、侑はもちろん笑わなかった。
 俺の前では無理して笑わなくていいよ、と声をかけると、紬は侑の胸に顔を埋め、声を殺して泣いていた。

 しかし一週間もすれば紬の気持ちは前向きになって、次はどんな賞に挑戦するのか、どんな話を書きたいのかを楽しそうに語ってくれた。
 そうやって悔しさを乗り越え、夢に向かって努力を続ける紬に、侑はまた勇気をもらうのだ。

 木曜日の放課後、文芸部。木曜日は病院のリハビリ施設が休みなので、文芸部で一時間活動する。その後はサッカー部に顔を出し、トレーニングメニューに励むのが侑の木曜日のスケジュールだ。
 侑が文芸部に行くと、紬はぱっと花が咲いたように笑った。

「侑くん! お疲れさまです!」
「お疲れさま。紬がこの間書いた短編、読んだよ。恋の駆け引きみたいなの、すごく面白かった。あのテーマなら長い話でも面白そうだよね」
「本当? 長編にしようかな」

 にこにこと笑顔で答える紬は、ときどき敬語が外れることがある。本人は気づいていないようだが、紬との距離が縮まっているのを実感できて、侑はひそかに喜んでいるのだ。

 最初のうちは、交際していることを二人は周りの人に話さなかった。紬は自分にあまり自信がないようで、侑と釣り合わないのではないか、と気にしていたからだ。

 実際は逆なのにな、と侑は思っている。夢のためにひたむきに努力する紬はいつだって眩しくて、怪我をきっかけに全て捨てて逃げ出した侑の方がかっこ悪い。釣り合わないのは侑の方なのだ。

 でも紬はそんな侑のことも、かっこ悪くなんてないですよ、と言ってくれる。
 ダメなところも認め、好きになってくれたのだ。それなら侑は、堂々としているべきなのだろう。

 紬が侑を認めてくれたように、侑も紬に自分を好きになってほしくて、思ったことは恥ずかしくても口に出すようにした。

『紬が彼女だって自慢したい』
『いつも紬が頑張ってるから俺も頑張れるんだよ』
『あ、前髪短くなってる。ちょっと幼く見えるね。でも俺は好き。かわいいし』
『毎日小説書くだけじゃなくて勉強もしてるよね? 紬は努力家でかっこいいよね』
『告白? …………されたけど断ったよ。好きな人がいて、その人以外好きになれないから、って』

 思い返してみればかなり恥ずかしい言葉も口にしていて、少女漫画のヒーローだってもう少し言葉を選ぶのではないか、と思ってしまう。
 でも侑の気持ちはちゃんと紬に届いていた。紅葉が綺麗に色づく頃、二人のことをみんなに言ってもいいですか、と紬が言ってくれたのだ。
 一度周りに話せば噂はあっという間に広がり、侑と紬は公認の仲になった。

 そんなことを思い返し、侑はふと気になったことを紬に訊ねる。

「紬、最近嫌がらせとかされてない?」
「はい! 最近は全然。たまに他の学年の女子が見に来たりしますけど、悪口とかもないですよ」
「よかった……」

 二人が恋人だという噂が広まると、紬の元に野次馬が集まったそうだ。紬が以前言っていた通り、二人の通う学校では、侑はちょっとした有名人らしい。噂の彼女はどんな子か、と面白がった生徒たちが紬のことを見に来ていた。
 侑と紬が廊下で部活の話をしているとき、すれ違った女子が嫌味を言っているのを聞いてしまったこともある。

『あれが真島の新しい彼女だって』
『前の彼女の方がかわいいじゃんね』
『分かる。なんか地味じゃない?』

 聞こえてきた悪口に、侑は思わず紬の耳を塞ぐ。どうやら間に合わなかったようで、紬は眉を下げて困ったように笑っていた。
 侑は通り過ぎた女子たちに聞こえるくらいの声で、紬に言った。

「俺は紬が一番かわいいと思ってるし、かわいくなかったとしても好きだからね」
「えっ?」
「……もし紬のこと悪く言う人がいても、無視して俺の言葉を思い出して。そんな性格の悪い人、この学校にいないと思うけど、一応ね」

 このやりとりはかなり効果があったようだ。
 付き合っている、という噂だけでなく、侑がはっきりと「紬が好き」と言ったこと。どうやら侑の方がべた惚れらしいよ、と噂はまた広まり、最近ではようやく落ち着いてきた。

 それでも陰でこっそり嫌がらせをされていないか心配していただけに、紬の言葉に侑は安堵した。
 安心して微笑む侑に、紬も笑って答える。

「それにね、もしも悪口を言われても、今ならたぶん、言い返せると思うんです」
「ん?」
「うるさい! ブスだろうが地味だろうが、侑くんが私を好きになってくれたんだからそれでいいの! って……!」

 紬からそんな言葉が出るなんて思ってもみなくて、侑は目を丸くした。
 それから二人で目を合わせ、声を上げて笑った。

「えへへ、こんなこと言ったら、またすぐに噂が広まっちゃいますね。あの彼女やばいぞ! って!」
「もー、かっこよすぎでしょ、俺の彼女!」

 文芸部の部室に、二人の笑い声が響いていた。


 真島侑は、彼女の朝日紬にも、一つだけ隠し事をしている。週に一度の文芸部での活動時間。それから就寝前に少しずつ書いている、小説の内容だ。

 文芸部として何か活動したい、と思ったときに、侑は文芸の種類について調べたことがある。そのときに見つけたのが、私小説だった。
 私小説とは、作者自身の体験を元に描く小説。エッセイと違うところは、ストーリーを膨らませたり、脚色していいという部分だ。

 何を書きたいか分からなかった侑は、少し恥ずかしいけれど、私小説を書いてみようと思った。小説投稿サイトで公開したり、紬のように新人賞に挑戦するわけではない。ただ、自分自身のために書いてみたいと思ったのだ。

 文章などろくに書いたことのない侑が、いきなり小説など書けるはずもない。まずは書きたい内容を箇条書きにして、それから形を整えていこう、と侑は決める。小説用のノートを作り、侑は思いついたことを箇条書きにしていった。

 サッカーが好きだったこと。膝の怪我をしたこと。たった一つの怪我で、自分の全てを奪われたような気持ちになったこと。手術やリハビリの選択肢があったのに、どうせもう出来ないからと不貞腐れて選ばなかったこと。
 担任のお節介から逃げるように入った文芸部。そこで出会った女の子に、何度も勇気をもらった。夢を追いかける姿を応援したいと思った。努力した時間は無駄にならない、とまっすぐな目で言った彼女はかっこよかった。
 そして、自分ももう一度、好きなことに向き合いたいと思えた。手術もリハビリもこわいけれど、頑張ってみよう、と。

 文字に起こしていくのは恥ずかしかったし、辛い瞬間もあった。しかし改めて言葉にしてノートに書いていくと、当時は漠然とした不安や焦りだったものが、形づいていく。
 続けていくうちに、膝を怪我した試合のことも思い出せるようになってきた。あの瞬間を思い返すのは辛くて堪らなかったはずなのに、不思議な話だ。
 ノートに書き出すことによって、気持ちの整理ができているのかもしれない、と思い当たったのは、つい最近のことだ。

 私小説には、これからのサッカーの話、小説を書いていること、そして紬との恋の話も入れたいと侑は思っている。残念ながら今は箇条書きばかりで、小説の形になるのはほど遠い。未来の話もまだ書けないので、執筆期間はかなり長くなりそうだ。
 不器用で、下手くそで、素人が書いた私小説。完成したら、紬は読んでくれるだろうか。

 未完成の小説で、書き切れるかも分からないので、紬にも内容は話していない。書きたいものができたから挑戦してみる、とだけ侑は紬に伝えた。
 
 書き出しも、どんな終わり方になるかも分からないままだ。
 しかし、タイトルだけは決めてある。

 サッカーを諦めない。
 文芸部の活動として、小説を書く。
 紬との恋を続けていく。これから先の人生、また躓いて転ぶこともあるだろう。
 それでもきっと、二人で手を取り合えば乗り越えていける。
 その先にまた道は続いている、そう信じて。

 ノートの表紙に大きく書いたタイトル。
 『連載中』という文字をそっと撫で、侑は笑みをこぼした。