紬は二十分ほど話をして、病室を後にした。面会時間が終わるまではまだ余裕があったので、紬は残ろうとしてくれた。
しかし、まだ小説の入力作業が終わっていないことを聞いていたので、戻って作業した方がいいよ、と侑から提案したのだ。
帰り際に借りていた本を返し、紬を見送る。エレベーター前で別れるとき、侑は紬に声をかけた。
「朝日さん、お見舞い来てくれてありがとね」
「いえ! 私が真島くんに会いたかったので」
にこにこと笑う紬がかわいくて、侑の頰もつい緩んでしまう。ほんの数日会っていなかっただけなのに、会いたかった、と紬が思ってくれていたことも、侑の心をときめかせた。
「帰り、気をつけてね。心配だから家に着いたら連絡くれる?」
「はい! ありがとうございます」
「あ、それと…………」
侑は事前に準備していた言葉を、最後に忘れることなく紬に伝えた。
「借りてた短編集。俺、三つ目の話が好きだったよ」
「えーっと……三つ目ってどんな話でしたっけ」
「さすがに短編集だと、内容は覚えてても順番までは覚えてないよね。帰り道にでも確認してみて」
「…………? はい、見てみますね」
紬は不思議そうな表情をしながらも、侑の言葉に大きく頷いた。リハビリ頑張ってくださいね、と笑顔を残し、紬はエレベーターに乗っていった。
病室に戻り、侑は窓の外を覗いた。病院の中庭が見えるだけで、残念ながら病院の前にあるバス停は見えない。
紬はきっと、バス停で返された小説を開くだろう。そして短編集の三本目の話のところに挟まれた、見覚えのない四つ折りのメモを取り出すに違いない。
メッセージが来るか、それとも電話をかけてくるだろうか。
侑はイタズラをしかけた子どものように、わくわくしながらスマートフォンを眺めていた。しかし、なかなか紬から連絡はこない。
もしかして本を開くのは家に帰ってからだったかな、と侑が考えていると、病室のドアがガラリと開く。
「ま、真島くんっ…………! こ、これ! あ、ごめんなさい! ノック忘れました! えっと、でもこのメモ……!」
バス停から走って戻ってきたのだろうか。紬は息が上がっている。病院内は走ってはいけないはずなので、外を走って息切れし、整う間もなく病室まで辿り着いたのかもしれない。
本に挟まっていたメモを見て、慌てて戻ってきたらしい。ドアをノックすることすら忘れ、紬はメモを両手で握りしめている。
「電話かメッセージが来るかなと思ってたんだけど、…………暑いのに走らせちゃったね」
「そうじゃなくて……!」
紬は赤い頰を膨らませ、メモを開いて侑の目の前に突き出した。
そこに書かれているのは侑の字だ。水色の罫線を無視して大きく書いたそのメッセージは、紬の心を動かすことができたらしい。
「…………ずるいですよ、侑くん」
名前で呼んで。朝日さんの好きな呼び方でいいから。
侑がメモに書いたお願い通り、紬は名前を呼んでくれた。嬉しさに思わず侑は微笑むが、紬は口をとがらせ上目遣いにじとりと侑を見つめている。
少し不満を抱きながらも、ちゃんと侑のお願いを聞いてくれるのは、きっと紬が優しいからなのだろう。
紬から返ってくる答えを想像しながら「ダメだった?」と侑は訊ねてみる。答えは予想通りだった。
「ダメじゃないですけど、私だって名前で呼ばれたいです」
少し拗ねたような表情で紬が呟く。初めて見る表情に、侑の心臓の鼓動が少し速くなった。
「んー、紬さん?」
紬は黙って首を横に振る。分かってるでしょ、とでも言いたげな紬の視線に気付きながらも、侑はあえて違う呼び方をあげていく。
「つむさん」
「…………なんかいやです」
「つむちゃん?」
「それもかわいいですけど」
「じゃあ紬ちゃん」
「うう…………あとちょっと……!」
呼び方を変えるたびに紬の反応もころころと変わり、正直すごくかわいい。しかしあまりからかいすぎると可哀想なので、そろそろ、と侑が思ったときだった。
紬が侑の左手の小指をちょこんと握った。
心臓が飛び跳ねて、侑の顔はたぶん一瞬で赤く染まってしまった。
服の裾を引っ張るとか、手を繋ぐのではなくて、小指だけ。特殊な触れ方だが、もしかしたら意味はないのかもしれない。それでも侑の胸は紬がかわいいとうるさく騒いでいた。
「紬、って……呼んでください……」
控えめなおねだりに、今度は侑がその言葉を口にすることになった。
「………………それはずるいって、紬」
「侑くんもずるいことしたのでおあいこです」
「もー……かわいすぎるでしょ」
熱い頰を隠すように俯いて、手を繋ぎ直す。今度は小指だけじゃなくて、きちんと全ての指が絡まるように。
紬も俯いてしまったけれど、何も言わずに侑の手を握り返してくれた。
退院後、侑の周りはなかなか騒がしかった。男子も女子も、クラスも学年も関係なく、いろんな人が侑を訪ねてくるのだ。
ほとんどみんな用件は同じで、リハビリ頑張ってね、という激励だった。リハビリの応援に行ってもいいですか、という下級生の女子のお願いはさすがに断ったが、応援の気持ちは嬉しかった。
三年生が引退し、サッカー部の新部長になった友人の高橋は、「お前モテすぎじゃない?」と少し引いていたくらいだ。
しかし侑の意見は少し違う。応援に来てくれた人、みんなが侑に好意を抱いているわけではない。
侑が怪我をした試合は地区大会の決勝だったので、観戦に来ていた人も多かった。あのとき、試合の最中に崩れ落ち、泣きながら退場する侑を見ていた人たち。その人たちが、激励に来てくれたのだろうな、と侑は思っている。
「なぁ、侑。リハビリってどのくらいかかる?」
「んー? スポーツ復帰には早くて六ヶ月くらいって言ってたかな」
「ふーん。じゃあ間に合うな」
高橋は歯を見せてにかっと笑った。
何に、とは言わない。侑も訊いたりしなかった。代わりに、間に合わせるよ、と笑って答える。
高橋はわざとらしくため息を吐き、愚痴をこぼした。
「三年生が抜けても、レギュラー争いは厳しいままだなー。俺も頑張らないとやばいかも」
「俺が戻るまでにレギュラー落ちするなよ?」
「せっかくキャプテンになったのにレギュラー落ちは辛い! 侑くんこわいこと言わないでよ!」
突然オネエ口調になった高橋に、思わず侑は吹き出した。
膝の怪我をしてからは避けてしまっていたが、高橋は部のムードメーカー的存在で、侑もずっと仲がよかったのだ。
久しぶりに笑い合った友人に、今まで避けていてごめん、と侑は謝ろうか迷った。しかし、気まずさのにじんだ表情で口を開いた侑を止めたのは、他でもない高橋だった。
「あー、いいって! 絶対今お前、余計なこと言おうとしただろ!」
「いや、余計なことではないけど」
「いいんだって。侑がまた戻ってくるならそれで」
高橋は照れたように笑って頭をかいた。友人の優しさが侑の心に沁みる。泣きそうになるのを堪えて笑顔を作り、侑は別の言葉を選んだ。
「…………高橋、部長にぴったりだと思うよ」
「んー、そっか?」
「それから、部活頑張って。俺もリハビリ頑張って、絶対戻るからさ」
それは、怪我をしてから侑がずっと言えなかったことだ。
自分はもうサッカーができないと嘆いて、友人の応援も素直にできなかった。試合を見にいくどころか、頑張れ、という一言でさえ飲み込んでしまっていた。
侑の言葉に、高橋が目を丸くする。
それからくしゃりと顔を歪め、「当たり前のこと言うなよ」と笑った。その目には、涙がにじんでいた。