侑が手術の決意をしたのは夏休みが終わる目前だったので、手術と入院期間合わせて二週間ほどは学校を休むことになってしまった。
 せっかくなら夏休みに合わせればよかったのに、と医者は笑っていたが、同時に「真島くんが治療に前向きになって嬉しい」とも言ってくれた。

 侑は膝前十字靭帯を損傷していたので、手術内容は靭帯再建手術というものだった。言葉だけ聞くと恐ろしい手術に思えたが、実際の手術時間は二時間程度だ。麻酔をしていたので侑自身に手術の記憶はなく、気づくと手術は無事に終わっていた。

 その後は、地獄のリハビリ生活が侑を待っていた。あらかじめ覚悟はしていたつもりだが、あまりの辛さに侑はすぐに音を上げそうになった。
 そんな侑の心の支えになったのは、紬とのメッセージのやりとりだった。特別な用件はなく、ささいな言葉のやりとり。それでも侑は紬からのメッセージを見るたびに元気が出た。

『今日は直しの作業ではなく、入力作業を進めました!』
『真島くんが膝の手術を受けたって女子の間で噂になってました……! みんなすごく応援してましたよ』
『文芸部の部室が広くなった気がして、やっぱりちょっと寂しいです』
『お見舞いに行ってもいいですか?』

 侑は必ず紬からのメッセージに返信していたが、お見舞いの件についてだけは返事に悩んでしまった。
 リハビリを始めたとはいえ、まだ侑は膝がうまく使えない。この状態で紬と顔を合わせて、かっこ悪いと思われてしまわないか不安だった。
 リハビリをしているところを見られるのは抵抗があるし、それ以外のときだって弱音を吐いてしまいそうだ。

 しかしお見舞いを断ろうとした侑の頭に、少し前の紬の言葉が浮かぶ。
 努力することは恥ずかしくない。
 それは、親子ゲンカの最中に紬が言ったことだった。

 侑は少し考えて、メッセージに返信をする。朝日さんがお見舞いに来てくれたら嬉しい、と書いて送ったメッセージには、すぐに既読の文字がついた。
 真島くんの好きなお菓子を買っていきますね、と返ってきた言葉に微笑みながら、侑はふと気がついた。

 侑と紬は、両思いだ。侑が告白をして、紬もずっと前から侑のことが好きだったと教えてくれた。
 はっきりと言葉にはしなかったけれど、二人の関係は恋人に変わったものだと侑は思っている。

 実際にあの日を境に紬とのメッセージのやりとりは増えたし、電話もときどきするようになった。
 紬からもささいな日常を切り取った写真や、おやつを食べます、などというかわいらしい報告が来たりもする。これは以前にはなかったことで、紬もきっと侑のことを彼氏として認識してくれているのだろう、と思う。

 でも、と侑は心の中で呟き、紬とのメッセージを見返す。
 二人の呼び方は、今までと変わらず他人行儀なままだ。

 朝日さん。真島くん。
 友達どころかクラスメイトでさえもっと親しい呼び方をしていそうなものだ。紬がお見舞いに来てくれたときに呼び方を変えたいと話してみようか、と考え、侑の視線は枕元に置かれた一冊の小説に奪われる。

『入院中、時間があったら読んでみてください』

 紬が手術の前に貸してくれた恋愛小説。一つ一つの話が短い短編集で、読書歴の浅い侑には読みやすい作品だった。すでに一冊読み終えていて、次に会ったときに紬に返さなければ、と思っていたのだ。

 侑は小説の表紙を眺めながら、ふと一つの案を思いつく。まだ違和感に慣れない左足のリハビリもかねて、侑は病院内の売店へと向かった。


 紬がお見舞いに来てくれたのは翌日の放課後。いつもなら部室で執筆作業をしている時間なのに、今日は病院に寄るために授業が終わり次第学校を出てきたらしい。
 いつもはポニーテールにしている紬の髪が、今日は左サイドに一つにまとめられている。

「あ、髪型いつもと違うんだ。かわいいね」
「え…………!?」
「あっ、ごめん! かわいいとか言われるの苦手?」
「い、いえ、違くて……! 真島くんにまで褒めてもらえると思わなくてびっくりして……」

 紬が照れたように笑うけれど、侑は紬の言葉が気になってしまった。
 侑にまで、ということは他にも誰か紬の髪型の変化に言及したのだろう。その相手が女子なのか、それとも男子かによって話は変わってくる。

 侑は紬と同じクラスになったことがないし、紬も特別目立つタイプではない。だから侑は知らないのだ。紬がクラスでどんな立ち位置にいるのか。どんな女子と仲が良くて、男子から人気があるのかどうかも知らない。
 文芸部に入部する前から侑のことを知っていた、と紬は言っていたけれど、侑ももっと早く紬の存在に気づいていればよかった。

「真島くん……? もしかして、膝、痛いですか?」
「えっ、ああ、ごめん。膝は……まあ手術したからってすぐに元通りとはいかないけど、でも大丈夫。リハビリも頑張るし」

 先ほどまで考えていたことを頭から振り払うように、侑は無理矢理笑ってみせる。しかし紬が心配そうな顔で侑を見つめるので、侑は恥を忍んで不安を吐き出すことにした。

「朝日さんが心配するようなことじゃなくて……その、どっちかというと俺が勝手に不安になってるというか……」
「…………不安、ですか?」

 眉を下げる紬は、気の弱そうな表情に見えるのに、しっかりと侑の目を見て逸らさない。どうやら侑のことを本気で心配してくれているらしい。
 かっこ悪いこと言うからね、と前置きをして、侑は話し始めた。

「朝日さんの髪型を褒めたのってやっぱり男子なのかなー、とか。朝日さんはどのくらいモテるのかなー、とか。そういうこと考えて、不安になってた」
「………………それって、」
「ヤキモチ、です。はい、今度は朝日さんが答える番!」

 紬は目を丸くし、それから頰を染めてぱたぱたと小さな手で顔をあおいだ。
 侑も顔が熱くて堪らなかったので、同じように手であおぐ。当然大した風は送られてこないが、気持ちの問題なのだ。

 ヤキモチ、という言葉の意味を、侑は初めて実感したかもしれない。紗枝と付き合っていたとき、侑は紗枝の男関係を心配したことがなかった。紗枝がモテることは付き合う前から知っていたので、他の男子と話しているのを見ても、嫉妬心を抱いたことはない。
 だから、初めて抱く嫉妬の感情に、他でもない侑自身が一番戸惑っていた。紬のことを好きな男が、紬と同じクラスにいるかもしれない、と思うとそわそわしてしまう。

 侑がじっと見つめていると、紬はおかしそうにくすくすと笑った。

「髪を褒めてくれたのはクラスの女の子たちです。それに、私のことを好きになってくれる人がいたとしても…………たぶん真島くんの十分の一くらいですよ?」
「………………前から思ってたけど、朝日さん、俺のことめちゃくちゃモテると思ってない?」

 そんなことないんだけど、と付け足した侑の言葉に、紬は頰を膨らませる。

「実際モテるじゃないですか。告白されたとか、振られたっていう噂、たくさん流れてきますよ?」

 どうやらあの高校に侑のプライバシーはないらしい。
 確かに他の男子に比べて、侑は女の子から告白をされた経験は多い方なのだろう。でもそれは、侑が気持ちに応えられず、女の子を傷つけた回数とイコールになってしまう。だから侑にとっては、あまりモテることがいいことだとは思えないのだ。

 それに、と紬の目を見つめ返し、侑は考える。
 今の侑には、不安にさせたくない人がいる。大切にしたいと思える彼女がいる。
 もしも紬に少しでも不安な気持ちがあるならば、何か対策をしたい、と思うのだ。

「朝日さんも不安になったりする?」

 侑の問いかけに、紬は困ったように笑った。

「不安、はまだないです。……今の状況が私にとっては奇跡みたいなので…………夢みたいって気持ちの方が大きいですね」

 夢みたい。それは、侑と両思いになれたことを指しているのだろうか。
 不安にさせたいわけではないけれど、夢みたいだと思われるのも少しだけ寂しい気がして、侑はそっと紬の手を握った。

「夢じゃないよ」
「真島くん…………」
「朝日さんが信じられるまで何度だって言うから。俺は朝日さんが好きだよ」

 小さな手が、侑の手を握り返す。紬は何度か侑の手を確かめるようにきゅっと握って確認し、やわらかく笑った。

「真島くんの手、大きいですね」

 俺の手が大きいんじゃなくて朝日さんの手が小さいんじゃないかな。
 そう思ったけれど、侑が言葉にする前に、紬が再び口を開く。

「…………夢みたいって思ってるのは本当ですけど、真島くんのことは信じてますよ」
「えっ」
「私の好きになった真島くんは、好きでもない女の子と付き合ったりしないですから」

 えへへ、と恥ずかしそうに笑う紬に、侑の胸の奥がぎゅうと締め付けられる気がした。

 侑は自分が好きだと思った相手としか付き合えないこと。
 そのことを紬が分かってくれていたこと。
 紬に対する侑の気持ちが、ちゃんと伝わっていること。
 そして紬も侑を恋人だと思ってくれていること。

 ささいなことなのかもしれない。恋人同士なら当然のことなのかも。
 でも侑は嬉しかった。侑を信じている、と言ってくれた紬のことを、大事にしたいと思ったのだった。