夏休みはもう終わる。夏休み最終日を迎えたその日も、侑と紬は文芸部で作業をしていた。

 紬の小説の入力はまだ最後まで済んでいない。侑は全て作業が終わってから手術の日程を組んでもらおうと考えていた。しかし、紬に事情を説明すると、いつものやわらかな笑みを浮かべながら言った。

「私、いつも真島くんが手伝ってくれて、正直すごく助かってます。でも手術をするって決めたなら、一日でも早い方がいいですよ」

 紬と知り合ったのは文芸部に入ってからなのに、不思議なことに紬は侑の事情に詳しかった。
 侑が以前サッカーをやっていたこと、膝の怪我が原因で諦めたこと、手術をする選択肢もあったのに逃げていたこと。そして、ようやく手術とリハビリをすると決めたこと。
 かなり覚悟を決めてから全てを話し始めたのに、紬は話の大半をすでに知っていたらしい。

「他のクラスにまで噂が届くほど俺のダサい話広まってるの?」

 侑が冗談めかして笑うと、紬は大きく首を横に振った。そしてなぜか少し怒ったように頰を膨らませ、そんなわけないじゃないですか! と声を上げる。

「真島くんはうちの学年でもかなり有名ですし……。女の子の間では、いつだってかっこいい男の子として大人気ですよ?」

 紬の口から『かっこいい男の子』という単語が出たことに、侑の心臓は音を立てて存在を主張し始める。
 文脈的に、紬のいう『かっこいい男の子』とは侑のことなのだろう。そのことが嬉しくて、でも紬自身が侑をかっこいいと思っているのかはまた別の話かもしれない、と落ち込む。
 紬の何気ない言葉に一喜一憂するのは、侑がきっと紬のことを好きだからだ。

 少しずつ心の中に降り積もった好きという気持ち。恋だろうか。でも慎重にならなければ。そんな風に考えていたのが嘘みたいに、今の侑はこれが恋だと確信している。

「…………真島くんがまたサッカーできるようになったら、応援に行きますね」

 ふいに紬が眉を下げて笑う。
 その表情には悲しさや寂しさ、たくさんの感情が含まれているようで、全てを正確には読み取ることができない。侑が首を傾げると、紬は逃げるように目を逸らした。

「朝日さん? どうかした?」

 何かを隠すような紬の様子に、侑は思わず声をかける。しかし紬は俯いてしまい、何も答えようとはしない。
 紬の気に障るようなことを言ってしまっただろうか。それまでの会話を慌てて思い返すが、紬を傷つけるような発言はなかったように思えた。

 俯いたままの紬が、ぐす、と鼻を鳴らす。侑はその音を聞き、考える間もなく動いていた。涙を拭おうとする紬の小さな手を掴み、侑は声を上げる。

「泣かないでよ、朝日さん」
「ご、ごめんなさい…………。手術もリハビリも……本当に応援してるんです。真島くんがサッカーをしてるところ、また見られるのだって嬉しいです……」

 また、ということは以前にも見たことがあるのだろうか。そんな考えが侑の頭をよぎるが、今は問いかけることなく紬の声に耳を傾けた。

「でも……真島くんが来てくれてからの文芸部は楽しくて……」
「………………」
「だから、ちょっと寂しいだけです…………」

 紬は顔を上げ、困ったような表情で笑った。その頰は涙で濡れていて、侑の心臓が大きく音を立てる。どくんどくんとうるさいくらいの鼓動を聞きながら、侑も目の奥が熱くなった。

 紬の前でかっこ悪いところは見せたくないのに、泣いてしまいそうだ。

 どうして泣きそうなのか、侑自身にも分からない。今理解できるのは、紬が寂しいと泣いていること、それでも侑のサッカー復帰を応援してくれていること、それだけだった。

「………………朝日さん、俺、やりたいこと全部叶えるから」

 この言葉で、紬にどれだけ伝わるだろう。
 手術も、リハビリも、サッカーも。
 文芸部での活動だってまだしていない。紬の小説を読んで感想も伝えたい。紬の夢を応援したい。

 そして、ちゃんと伝えたい。侑の気持ち。侑も同じように寂しいと思っていること。紬が好きだという気持ちや、紬の行動に何度も励まされたこと。全てを紬に伝えたいと思うのだ。

 紬は涙に濡れた目で侑を見上げ、小さく首を傾げる。やはり曖昧な言葉では伝わらなかったようだ。
 侑は笑って、未来の約束を紡ぐ。

「手術が終わって退院した後は、リハビリで忙しくなると思う。でも俺は文芸部を辞めるつもりないし、サッカー部に復帰できても、兼部したい」
「え…………? 本当ですか?」
「うん、本当。それでさ、俺、朝日さんに聞いてほしいことがあるんだ」

 侑の心臓はうるさく騒ぎ立てていた。
 大きな目がまたたいて、紬がなんですか、と応える。その声には不安の色が含まれているような気がして、侑の胸はぎゅっと締め付けられた。今すぐ抱きしめてしまいたい衝動に駆られながら、侑は静かに深呼吸をする。それから覚悟を決め、その言葉を口にした。

「俺、朝日さんが好きだよ」

 勇気を振り絞った侑の言葉は、情けなく震えていた。


 どのくらい沈黙が続いただろう。
 おそらく時間でいえば数秒。それでも侑には、永遠のように長い時間に思えた。

 頰は熱くて、全身の体温も沸騰しそうなのに、指先だけは妙に冷たい。
 もしかしたら目の前できょとんとしている紬は、侑のうるさく鳴る心臓の音を聞いているのかもしれない。まさか身体の外にまで音が聞こえているはずはないと分かっていても、そんなことを考えずにはいられなかった。

 なんでもいいから何か言ってほしい。
 この際ごめんなさいでもいいから。
 いややっぱりごめんなさいは嫌だな……。

 数秒の沈黙の間に、侑の思考はぐるぐると巡る。こんなにも急ぐような気持ちで何かを考えるなんて、生まれて初めてかもしれない。
 恥ずかしさに唇を噛み、侑がじっと紬の目を見つめると、固まっていた紬の時が動き出した。

 じわじわと赤く染まっていく頰。口を薄く開き何かを言おうとして、飲み込む。そんな様子を見守りながら、侑は再び口を開いた。

「…………好き、です」
「っ、え…………、と」

 繰り返した告白に、紬が真っ赤な顔で戸惑いの声を上げる。
 侑もきっと、紬と同じくらい真っ赤になっているのだろう。人生で初めての告白。これまでの紬の反応を見る限り、全く勝算がないわけではないけれど、それでも緊張することには変わらない。

「…………真島くんが、私を……?」

 ようやく言葉を紡いだ紬の声は、か細く震えていた。
 同学年の女子よりも少し幼い顔が、再び泣き出しそうな色を帯びる。
 侑は紬の言葉を肯定するために頷き、言葉を選びながら気持ちを伝えていく。

「…………俺、告白とか初めてで……こういうときどう言えばうまく伝わるのか分かんないんだけど……」
「は、じめて…………」
「うん。だからかっこ悪くても許して」

 その言葉がすでにかっこ悪いと気づいてはいたけれど、なんとかして紬に良く思われたくて侑は必死だった。
 しかし紬はぷるぷると子犬のように首を横に振り、侑の目をまっすぐに見つめて言った。

「真島くんはかっこ悪くなんてないです」
「…………じゃあかっこいい?」

 こんな質問の仕方をすれば、きっと紬は頷いてくれる。ずるい訊き方だと分かっていたけれど、告白の返事を聞く前に少しでも励みになる言葉が欲しかった。
 紬は赤い頰のままじっと侑を見つめ、侑の好きなやわらかい笑顔を浮かべる。

「……言ったじゃないですか」
「え、?」
「真島くんは、どんな瞬間だってかっこいいです……。サッカーをしてるときも、作業に集中してるときも、難しい本を読んで寝ちゃうときも、…………………今、この瞬間も」

 侑は息を飲んだ。

 真島くんはどんな瞬間だってかっこいいですよ。
 それは確か、紗枝が紬に掴みかかったときに、紬が口にした言葉だ。言い過ぎました、と恥ずかしそうにしていたのに、今目の前で微笑む紬は、再び同じ言葉を紡いでいる。

「そんなこと言われたら、俺、期待するよ……?」

 おそるおそる口にした駆け引きの言葉。紬は目を丸くした後、眉を下げておかしそうに笑う。
 慣れない駆け引きなどするべきではなかった。恥ずかしくなった侑は、「…………俺、変なこと言った?」と弱気な言葉を口にしてしまう。紬はくすくすと笑いながら、小さく頷いた。

「ふふ、おかしいですよ」
「あー、もう。本当かっこつかないな……」
「いえ、そうじゃなくて……」

 にじんだ涙を指先で拭い、やわらかく紬が微笑む。その表情には侑をバカにするような意図は含まれていなくて、たからものを見るような優しさに溢れていた。

「真島くんが……私のことを好きになってくれるよりもずっと前から……………………私は真島くんのことが、好きなんですよ」

 知りませんでした? と少しだけいたずらっぽく微笑む紬に、侑の胸がぎゅうと締め付けられた。

「知らないよ、何それ……………えっ、いつから?」
「…………真島くんが文芸部に入るより、ずっと前です」
「え!?」
「もっと言えば、真島くんが永野さんと付き合い始めるよりも、前ですよ」
「えっ本当に…………!?」

 言ってよ! と思わず口にしたけれど、眉を下げて困ったように笑う紬の表情を見て侑は察した。

 紬の話が全て本当ならば、どのタイミングでも言えるはずがない。
 侑は紗枝と付き合うまで、誰からの告白も断っていた。彼女ができてからの告白なんて、当然断る以外の選択肢はない。文芸部に入り紬と侑が知り合って友達になっても、侑が逆の立場だったらきっと言えない。

 今までは見ていただけの人と友達になれた。それ以上望むのは贅沢だ、と。告白をして今の関係が壊れるくらいなら、友達のままでいい、と。きっと侑は思ってしまう。

 言えるわけなかったね、と侑が眉を下げて笑うと、紬は怒ることなく静かに口を開いた。

「言える日が来るなんて、思ってなかったんです。ずっと誰にも言わないまま卒業するのかなって思ってたので」
「…………朝日さん」
「だから、ありがとうございます。本当は私、ずっと言いたかったんです。真島くんに好きです、って。伝えたかったんです」

 気づいたら侑は、紬の細い手首を掴み、自分の胸に抱き寄せていた。一瞬遅れて、侑の脳が紬のことを抱きしめている、と認識したけれどもう遅い。
 ごめん思わず、と侑が慌てるのと、ほとんど同時だった。紬が侑の胸のあたりに顔を埋め、すきです、真島くん、と小さな声で呟く。
 断りなく抱きしめてしまったことに反省しながら、でもその小さな身体を離すことなく、侑も低い声で囁いた。

「俺も、…………朝日さんが好きだよ」

 夏休みの終わり。
 蒸し暑い文芸部の部室で、二人は互いの体温を求めるように抱きしめ合いながら、新しい関係の始まりを迎えたのだった。