自転車を勢いよく漕ぐだけでも、侑の左膝は抜けてしまいそうになる。膝が抜けないように気をつけながら、侑は自分の出せる全力のスピードで自転車を漕いだ。

 親とケンカをしたと紬は言っていた。
 今まで接してきて、紬が感情を昂らせるところを侑は見たことがない。もちろん友人に対しての態度と、家族へのそれは違うだろう。家族は近い存在であるからこそ、素の自分で話せるだろうし、紬でも声を荒げることがあるかもしれない。

 電話の声だけでは、紬が今どんな気持ちでいるのか、侑には分からなかった。怒っているのか、泣きそうなのか、それとももっと別の感情を抱いているのだろうか。
 分からないからこそ、今すぐにでも紬の元へ駆け付けたかった。侑では頼りないかもしれないが、隣で話を聞くことくらいはできるはずだ。

 それに、紬が夜遅くに外に一人でいる、ということが、侑には心配で堪らなかった。特に紬は同年代の女子に比べると、遊び慣れている方ではない。たとえば普段から友人や彼氏と夜中まで出歩いているならば、ナンパや不審者のかわし方、逃げ方もある程度学んでいるだろう。しかし紬の場合は、声をかけられたらそのまま着いていってしまいそうな、そんな危うさがあった。

 学校近くまで辿り着くと、侑は自転車が倒れるのも構わず、そのままコンビニに足を踏み入れた。
 紬はどこかぼんやりした表情で、お菓子の棚を眺めている。朝日さん! と侑が声をかけると、紬は小さく飛び跳ねて振り向いた。

「ま、真島くん…………! すみません、私、真島くんの迷惑になる可能性まで考えてなくて、」
「ケンカしたって言ってたけど怪我は?」
「えっ」
「それから変な人とかに声かけられたりしてない? ナンパは? 大丈夫だった?」

 矢継ぎ早に訊ねる侑に、紬は数秒呆けた後、慌てた口調で一つずつ答えていった。

「あの、ケンカっていっても口ゲンカなので怪我とかはしてないです。それに、誰にも絡まれてません。大丈夫です」

 いつもよりも早口で答える紬は、少し頰が上気しているが、言葉通り無事なようだった。
 そのことに安堵し、侑は店員の目を気にすることなくその場にしゃがみ込む。紬があたふたしながら侑の名前を呼ぶので、侑はその姿勢のまま紬を見上げた。

「超焦った…………」
「す、すみません」
「次から家出するときは昼間にしてね。もしくは家を出る前に俺に電話して」

 戸惑った表情の紬が、小さく首を傾げる。
どうやら紬にはもっとストレートに伝えなくてはダメらしい。侑は言葉を置き換えて、言い直した。

「俺でよければプチ家出くらいなら付き合うから。一人で危ないことしないで、ってこと」

 分かった? と侑が訊ねると、紬は一瞬泣きそうな表情を浮かべ、それから小さく頷いた。


 コンビニの冷房がようやく侑の体温を下げ始める。侑はペットボトルの棚からスポーツドリンクを取り出した。

「朝日さんは何飲む?」
「緑茶にします。あの、でも自分で買いますし、真島くんの分も奢らせてください」

 申し訳なさそうな顔で紬がそう言ったので、侑は少し悩んだが、買ってもらうことにした。ここで侑が払ってしまえば、紬の罪悪感は増すばかりだと思ったからだ。
 二人分のペットボトルを購入した後は、コンビニの外に出る。倒れっぱなしだった自転車を見て、紬が目を丸くするが、侑は何も言わずに自転車を起こした。

「ケンカって、何があったの?」

 電話を受けてからずっと気になっていたことを訊ねると、紬は眉を下げて唇を噛み、静かに俯いた。それから家で起きた出来事を、ぽつりぽつりと語りだす。

「母に……また小説を書いてるって、バレちゃったんです。…………普段なら母も、もう辞めなさいとか、諦めなさいって言うくらいなんですけど…………たぶん、虫の居所が悪くて」
「怒られた…………?」

 紬は黙って首を横に振った。それから再び唇を噛み締める。ペットボトルを持つ両手の指先が、白くなるほど力が入っていた。コンビニの外に設置された、少し薄暗いライトでも分かる。紬は悔しさを堪えているようだった。

「ノート、取り上げられて……。床に投げつけられたんです。別にデータを消された訳でもないし、破られたりもしてないのに…………なんだか無性に腹が立ってしまって」

 ノート三冊分にわたる、紬の小説。床に投げつけられた、という一冊目を紬が執筆していたとき、まだ侑は紬と知り合っていなかった。だから、紬が一冊目のノートをどんな気持ちで書いていたのか、侑は知らない。
 それでも、途中からしか見ていなかった侑だって知っている。紬が本当に楽しそうに小説を書いていたこと。真剣に自分の文章に向き合い、頭を悩ませていたこと。完結したときは、自分の子どもを見るように愛おしそうにノートを眺めていたこと。侑は、知っているのだ。

 だからこそ侑は腹が立った。これは紬と母親の問題で、侑が出しゃばるべきではない。分かっていても、腹立たしかった。侑は執筆をしたことがないので、自分の作品をぞんざいに扱われた紬の気持ちも、しっかりと理解はできていないだろう。
 それでも、侑は自分のことのように悔しかったのだ。
 一生懸命取り組んできたものを失う辛さなら侑にも分かる。突然膝を痛めて侑がサッカーを失ったように。
 それをよりにもよって、紬の母が奪おうとしているのだ。紬から、紬の大切な小説を。執筆の楽しさを。

「朝日さんはちゃんとお母さんに……怒れた?」

 変な質問かもしれない。しかし紬は静かに俯くだけで、聞き返したりはしなかった。

「…………お母さんなんて大っ嫌い、って。それだけ言って飛び出してきたんです」
「……そっか」
「勢いで飛び出したけど家出なんて初めてで。行く宛てもないのに、家には帰りたくなくて…………。でも、考えれば考えるほど、ちゃんと言い返せばよかったって思うんです」

 家族にも言いたいことが伝えられないんだから、小説を書く才能だってないですよね。
 自虐的な言葉で自分を傷つける紬の笑顔が痛々しくて、侑は思わず手を伸ばしていた。

 ペットボトルを持つ紬の手は、夏なのにひどく冷たい。その手を温めるように侑の大きな手で包み込み、「言いに行こうよ」と紬に呼びかける。
 え? と首を傾げた紬に、侑はもう一度繰り返した。

「全部、朝日さんの思ってること、お母さんに言いに行こう」
「えっ、でも……また反対されるだけですよ。それに私、お母さんに強く言われると、言葉が出なくなっちゃうし……」
「朝日さんが一人じゃこわいなら、俺も一緒に行く。二人なら少しは戦える気がしない?」

 無鉄砲な提案だというのは、侑にも分かっていた。紬の母は、侑が想像しているよりもずっとこわい人なのかもしれない。威圧的で、話す隙を与えてくれないかも。
 それでも部外者がそばにいれば、少なくとも怒鳴ったりはしないはずだ。仮に怒鳴られるようなことがあっても、侑が止めに入ればいい。
 しかしこれは、部外者である侑の介入を紬が許してくれるなら、の話だ。

 黙ってしばらく考えていた紬は、そっと侑の手を振り解く。それからバッグにペットボトルを押し入れ、今度は紬から侑の手を取った。

「真島くん。私、お母さんとちゃんと話したいんです。またケンカになっちゃうかもしれないけど…………一緒に戦ってくれませんか」

 紬の手は、もう冷えてはいなかった。侑の手をぎゅっと握り、強い意志を秘めた目で紬は侑を見上げる。
 訊かれる前から答えは決まっている。そのことは紬にも分かっているようだった。それでもあえて、侑はしっかりと頷き、もちろん、と答えた。


 紬のスマートフォンには、母親の電話番号からの着信が溜まっていた。侑は紬にスマートフォンを借り、了承を得た上で紬の母に電話をかけた。紬にも聞こえるようスピーカーにして、夜の静かなコンビニの前に、コール音が鳴り始める。
 今までにないくらい、侑の心臓は大きく音を立てている。しかし緊張でパニックになる間もなく、ワンコールで電話は繋がった。

『紬!? あなた今どこにいるの! 今すぐ帰ってきなさい! 必要ならお母さんが迎えに行くから。ねえ紬、聞いてるの?』

 紬の母はひどく焦っているようだった。紬が一生懸命書いた小説を投げ捨てたのは許せない。しかし、電話口から聞こえてくる女性の声は、本当に娘のことを心配しているように侑には聞こえた。
 紬と目を合わせ、互いに大きく頷く。侑は意を決して口を開いた。

「こんばんは。紬さんと同じ部で活動している真島です」

 紬の電話から突然男の声が聞こえてきて驚いたのだろう。紬の母は、えっ、と戸惑った声を上げる。
 知らない男の声が、娘の電話口にいる。その事実だけでは、不安にさせてしまうことは分かっていたので、紬が横から声を上げた。

「お母さん、紬です。突然飛び出してごめんなさい。今から帰ります」
『つ、紬……? あなた、大丈夫なの……? 部活の…………、男の人といるの?』
「大丈夫。真島くんが家まで送ってくれるって」

 敬語ではない紬の喋り方は、侑にはとても新鮮に聞こえた。ただその声はわずかに震えていて、紬の緊張が侑にも伝わってきた。

「ちゃんと紬さんを家まで送り届けます。だから、二人でしっかり話し合ってください」
『…………』
「お母さん。私、ケンカするからね。お母さんが頷いてくれるまで、絶対に折れないから。心の準備して待っててよね……!」

 ずいぶんと珍しいケンカの売り方だが、その言い回しには紬の優しさと意思の強さが見え隠れしている。
 侑が静かに笑うと、紬も少しだけ得意げに笑ってみせた。

『真島くん、でしたっけ』
「あ、はい」
『娘を、よろしくお願いします』

 電話越しに頭を下げているかのような丁寧さで、紬の母が言葉を紡ぐ。侑はしっかりと了承の返事をして、到着目安時間を伝えると、電話を切った。

「はー、緊張した! 朝日さんのお母さん、思ったより優しそうだったけど」
「ダメです! 私、怒ってますから。そう簡単には許しません!」

 紬が珍しく怒ったような表情を浮かべている。それから侑の視線に気づくと、今度は恥ずかしそうに笑いながら、紬は言った。

「全力で親子ゲンカするので、真島くん、きっちり見届けてくださいね」

 侑は思わず笑みをこぼし、了解、と答える。大人しそうな顔をしているけれど、紬は結構気が強いらしい。いや、本当は気が強いわけではなくて、夢のために強くあろうとしているのかもしれない。

 朝日さんのこういうところ、好きだな。
 心の中だけで侑は呟き、自転車を押しながら紬と共に歩き始めた。