紬が作ってきてくれたお菓子の名前は、マフィンというらしい。休憩時間に食べてもいい? と侑が訊ねると、恥ずかしいので家に帰ってから食べてください……! と紬は答えた。
 その日の夜、侑は自分の部屋で手作りマフィンを食べた。マフィンは二つ入っていて、プレーンとチョコチップの二種類の味だった。しっとりした生地に控えめな甘さが侑の好みに合っていて、あっという間に二つ食べ切ってしまう。
 マフィンを食べ終えた侑は、メッセージアプリで紬に連絡をすることにした。

『お疲れさま。カーディガンとお菓子、ありがとね! さっき食べたけど、マフィンすごくおいしかった!』

 三回ほど読み返して、メッセージを送信する。文章だけでは味気ない気がして、侑は追加でありがとうという文字の入った犬のスタンプを送った。

 文芸部に入ってすぐに紬とは連絡先を交換したが、ほとんどメッセージを送ったことはない。トーク履歴を遡ってみても、部活に関する連絡ばかりだ。
 同じ学校、同じ部活の友人だと思えば、メッセージのやりとりなんて特別珍しいものではない。しかし、侑が紬のことを異性として意識してしまっているせいか、返信が来るまでそわそわして落ち着かなかった。

 紬からのメッセージが届いたのは十分後。通知が届いてすぐ、何も考えずにトーク画面を開いてしまい、侑は頭を抱えた。
 きっと紬にも見えてしまったはずだ。メッセージを送ってすぐについた、既読の文字が。
 これでは侑が返信を待っていたことが、紬にも分かってしまうだろう。恥ずかしい気持ちを抑えながら、侑は紬のメッセージに目を通す。

『お口にあってよかったです! もしかしたら食べてもらえないかもと思っていたので、食べてもらえただけでもすごく嬉しいです!』

 紬のメッセージの文末には、犬と猫の絵文字が一つずつ。犬や猫が好きなのだろうか。確かに紬が小動物と戯れていたら、絵になるような気がした。

 マフィンを渡してくれたときにも言っていたが、紬は自分の手作りお菓子を侑が食べないかもしれない、と思っていたらしい。

 侑は何の抵抗もなく、紬の手作りマフィンを食べた。しかし他の誰かの手作りだったらどうだろう。クラスメイトでも、相当仲が良くなければ、手作りのお菓子は食べられないかもしれない。
 そんなことを考えて、侑はふと気づいた。たぶん手作りのものを食べられるかどうかの基準は、その人との関係性ではないのだ。侑がその人に対して、どれだけ気を許しているか。

 侑はいつのまにか、紬に心を許していたのだ。出会ってからの日数はまだそんなに経っていない。紬の友人を語るには、日が浅すぎるかもしれない。
 しかし文芸部での活動を見ていれば、紬がどんな人なのかは分かる。親の反対を無視してでも叶えたい夢。時間も忘れて執筆に打ち込む姿。きっと侑は、一生懸命に小説を書き続ける紬のことを、かっこいいと思っているのだ。

 その考えに思い至り、侑はなんだかすっきりした気持ちになった。
 もしかしたら侑が紬に抱く感情は、恋とは少し違うのかもしれない。
 でも、違っていたとしても、この気持ちは大事にしてみたい。そんなことを考えながら、侑は紬とのメッセージを眺めていた。


 侑が紬のことを異性として意識したからといって、二人の関係に何か変化が起こったわけではなかった。
 夏休みの間はずっと文芸部に篭りきりだったおかげで、侑の入力作業はノートの二冊目の後半に差し掛かっていた。

 そんな中、紬が小説を書き上げたのは、夏休みが終わる一週間前のことだ。ノート三冊分にわたる文章は、最後にたった半ページ分の余白を残し、完結していた。
 今エピローグに入りました、と紬に言われてから、侑はずっと見守っていた。紬が最後の一文字を書き終える瞬間を、見届けたかったのかもしれない。

 長い小説の終わりを迎えるとき、紬は愛おしいものを見つめるように、どこか優しい表情でペンを置いた。そして目を閉じて大きく息を吐くと、侑の目を見つめ、やわらかく笑う。

「…………終わりました」
「見てたよ。最後、なんだか名残惜しいって顔してたね」
「そうですね……。やっと書き終わった、っていう解放感と…………もう終わっちゃったんだ、っていう寂しさが同居してるみたいです」

 小説を書いたことのない侑には分からない感覚だった。
 少しだけ。ほんの少しだけ、侑も経験してみたい、と思う。しかしそのためには文章を書く、という難しくて苦手な作業と向き合わなければならない。まだ書きたい題材も見つからないし、と心の中だけで呟いて、侑は紬に笑いかけた。

「本当にお疲れ様。ノート三冊分の物語を書き切るって、朝日さんはすごいね」
「…………好きなことですから。さて、私も真島くんにばっかり頼っていないで、入力作業をしなきゃですね!」

 まだ執筆を終えたばかりだというのに、紬はもう次の作業のことを考えている。もしかしたらどこか応募してみたいアテが見つかったのかもしれない。
 侑は大袈裟に自分の胸を拳で叩き、「入力は任せてよ」と言った。

「朝日さんは俺が入力したやつを読み返しながら修正? とかする必要があるんでしょ? そっち優先していいよ」
「え、で、でも……」
「それに、言ったじゃん。俺が朝日さんの小説の、最初の読者になる、って!」

 現在入力作業は二冊目の途中。ノート三冊分を全てデータ化するには、あと半分ほど残っていることになる。
 どんどん侑の作業スピードは上がっているが、もう少し時間はかかりそうだ。

 紬は少し悩んだ表情を見せたが、お願いしてもいいですか、と優しく笑う。もちろん、と侑は頷いて、笑い返した。


 文章を書く。その行為は、文字を綴り、句点を打ったら終わり、という訳ではない。より簡潔に、分かりやすく、それでいて想像力を掻き立てるように、一文ずつ見直していくのだ、と紬は言った。
 小説のように物語になっているなら尚更大変そうだな、と侑は思った。ストーリーに綻びはないか、キャラクターの性格に一貫性はあるか、起承転結のまとめ方、必要な説明が入っているか、など、確認することはたくさんありそうだ。

 紬は一冊目の小説のノートを家に持ち帰るようになった。侑が入力したデータを、紬のスマートフォンに共有する。こうすることで、ノートに原文を残した状態で、紬は修正や確認作業を行える。
 スマートフォンのデータを母にバレないように気をつけないとですね、と紬が笑っていたのが、夏休みの終わる一週間前。

 その三日後の夜のことだ。
 紬から唐突に着信があり、侑は動揺してアニマル動画を再生していたスマートフォンを床に落とした。ごとん、と重い音を立てたが、画面は割れていない。ホッと息を吐き、スマートフォンを拾うころにはもう紬からの電話は切れていた。
 しっかり数えたわけではないが、三、四コール分くらいしか鳴っていない気がする。紬はそんなにせっかちな性格には見えないし、間違い電話だろうか。
 電話をかけ直そうか侑が迷っていると、紬からメッセージが届いた。

『真島くん、夜遅くに突然電話しちゃってすみません。もし知っていたら教えてほしいんですけど、この辺りで高校生が一人で泊まれる場所とかって分かりますか?』

 侑はメッセージを読んですぐ、先ほどの迷いなど忘れて紬に電話をかけていた。二回のコール音の後、すぐに電話は繋がった。

「もしもし? 朝日さん、メッセージ読んだけど……何かあった? 大丈夫?」
『あ、真島くん、遅い時間にすみません……! 私の友達、そういうのに詳しい子がいなくて』

 侑と紬の会話は、噛み合っているようで微妙にズレている。
 なんだか嫌な予感がして、侑はTシャツに手を伸ばしながらもう一度問いかけた。

「何があったの?」
『えーっと、……親とちょっと、ケンカをしてしまって……。勢いで飛び出してきちゃったんですけど…………外泊って一人でしたことがないので、どこなら泊まれるかなって探してて』

 侑は部屋の時計を見上げる。時刻は午後の十時を回っていた。高校生の女の子が一人で出歩いていい時間ではない。
 侑はスピーカーモードに切り替え、Tシャツに着替えながら「今どこ?」と訊ねる。

『え? えっと……学校の近くまで来ちゃいました』
「じゃあ学校前のコンビニ! 今すぐ入って待ってて」
『えっ、真島く、』
「いいから! 電話切っちゃダメだよ。俺もすぐ向かうから!」

 侑の勢いに押されたのか、紬は大人しく頷いた。少しして、コンビニのドアの開閉と共に鳴るメロディが聞こえてくる。侑もよく利用するコンビニなので、聞き慣れた音楽だ。
 紬が無事にコンビニに辿り着いたことに安堵し、侑はもう一度紬に呼びかける。

「朝日さん、危ないから絶対にコンビニから動かないでね……!」
『真島くん、向かうってまさかここまで来るんですか!?』
「行くよ、チャリ全力で走らせれば十分くらいだから」

 出かけてくる! と母に声をかけ、侑はスニーカーを履く。夏とはいえ、もう十時を過ぎているので外は暗い。自転車に飛び乗り、侑は暗闇の中に漕ぎ出した。